2 正体不明の令息に懐かれる
予想通り、高等部初日は騎士科の人たちに会うタイミングはなく、ブランドの姿を見つけることはできなかった。いつもにも増して暗い気分を払拭できないままに帰り支度を終えて教室を出ようとしたら、
「ルディス・リンドール伯爵令嬢!」
突然知らない声に呼び止められる。
振り返るとまったく見覚えのない、恐らく初対面の令息が頰を紅潮させて立っていた。
「はい?」
「あの、俺、今年同じクラスになったエリアス・ブレシルっていうんだけど……!」
鮮やかなマリーゴールド色の髪をした令息は、一歩二歩近づいたかと思うといきなり床に片膝をついて跪き、右手を胸に当てて私を見上げた。
「俺と婚約してください!」
「……は?」
「はあ!?」
私より大きな声で、しかも被せぎみに叫んだのはカティアのほうだった。
「いきなり何!? なんなの!? あなた誰!?」
「だからエリアス・ブレシル、ブレシル侯爵家の長男だよ。教養科一年、君たちと同じクラス」
「いや、そういうことじゃなくて」
確かに、さっきまで廊下側の前から二番目の席に座っていたから同じクラスなのは知っている。あのマリーゴールド色の頭、目立つんだもの。嫌でも目に入ってしまう。
深刻そうな顔つきながら、大袈裟なポーズのせいでどうしてもふざけた雰囲気が否めない令息を私は見返した。
「……揶揄うのはやめてもらえませんか?」
冷静に答えると、エリアス・ブレシルと名乗った令息はぶんぶんと音が鳴りそうなほど首を横に振る。
「揶揄ってないから! まじの本気だから!」
「まじの本気にしては、わざとらしい気がするんですけど」
「俺はこれでも必死なの! やっと君と同じクラスになれたから、これはチャンスだ、今しかないと思って!」
「……え」
目の前の令息の熱量に気圧されて、ついすがるようにカティアに目を向ける。と同時に、この教室にはまだ数人の生徒が残っていたことに気づく。みんなの視線が微妙に痛い。
居たたまれない状況ながらも当然逃げることはできず、マリーゴールド令息に視線を戻す。
「急に言われても……」
「俺じゃダメ?」
「ダメっていうか、あなたのこと全然知らないし」
「じゃあ、婚約してからいろいろ知ってくれれば」
相変わらず片膝をついたまま一歩も引かない令息に、私は仕方なく事実を告げるしかなかった。
「……私、もう婚約してるから」
その言葉に、令息は思わずといった様子でがばっと立ち上がる。
「は? まじで? 誰と?」
……えー、それ聞くんだ?
返答に困ってもう一度カティアに目を向ける。カティアは「だから言わんこっちゃない」とでも言いたげな呆れ顔をしている。助けてくれないとわかって、私は今日何度目かのため息をついてから更なる現実を突きつけた。
「……ブランド・ギルウィングです」
その名前を口にした途端、目の前の令息だけではなく教室全体にはっきりと動揺が走る。もうみんな一様に、わかりやすく「え!?」という顔をしている。
「ちょっと待って。その婚約はもう解消になったんじゃ……?」
「なってないです」
「まじで!? 嘘だろ!?」
嘘じゃないです。残念ながら。そう顔で訴える。
令息は目を見開きながら、「じゃあみんな勘違いしてるのか」とか「先手を打ったつもりなのに」とか「俺たち全員戦わずして負けるのか……?」とか一人でぶつぶつ言っている。
衝撃の震源地にいる私は、ひたすらバツが悪い。穴があったら入りたい。針のむしろとはこういうことを言うのねなんて、思考をあさってに放り投げたくなるくらいにはちょっとしんどい。
「……わかった」
ひとしきり考え込んだ末に結論が出たのか、マリーゴールド令息はひと際真剣な目つきになった。それから、にこやかに微笑む。
「じゃあ、友だちになってよ」
「友だち?」
「そう。せっかく同じクラスになったんだしさ。婚約の話は一旦置いといて、友だちから始めてください!」
さっきまでの勢いを取り戻し、エリアスと名乗った令息は懇願するかのように一歩前に出る。これはこれで、やっぱり逃げ場がないような。
「まあ、友だち、なら……」
「よし!」
令息がオーバーなくらいのガッツポーズを見せると、教室全体もなんだかほっとした空気に包まれる。
「俺のことはエリアスって呼んでよ。君のことはルディスでいいよね?」
……え。
友だちになったとはいえ、それはちょっと馴れ馴れしすぎるのでは?
そう思ったけど、エリアスがあまりにもうれしそうににこにこしているからそのまま何も言えなかった。まさか高等部初日に、正体不明の令息に懐かれるとは。
◇◆◇◆◇
学園の中等部と高等部とでは、専攻科選択のほかにもう一つ決定的な違いが存在する。それは、婚約者選びが本格化するということ。
この国では、早くから婚約者を決めてしまうということはあまりない。学園に入学後、特に高等部で出会ったり知り合ったりして婚約に至るケースが多いし、むしろそれが推奨されているようなところがある。だから、ここから生徒同士のいわゆる婚活が始まるわけである。
といっても、私にはなんら関係がないと思っていた。私とブランドの関係は事実上破綻しているけれど、婚約自体は厄介なことに継続している。まわりの人たちがどう認識しようと、その事実は否定しようがない。本当は、あれだけ嫌われているのだからそのうちブランドのほうから婚約解消の申し出があるのだろうと思っていたのだけれど、意外にもそうはならなかった。不思議といえば不思議である。だから私も、両親にブランドとの関係悪化について話さずにここまできてしまった。
認めたくはないけれど、私はまだ、一縷の望みにすがっていたのだと思う。
そんな中、突如として登場したのがあのエリアス・ブレシル侯爵令息。
エリアスは翌日から、まるでこれまでもずっと友達だったかのようにだいぶ近い距離で接するようになった。はじめのうちはエリアスに対して警戒心をむき出しにしていたカティアも、わりとあっさり打ち解けてしまった。なぜならそれは。
「おはよう、カティア」
「お、おはよう、ヴェイセル」
マホガニー色の髪にざっくばらんな印象のヴェイセル・オクスリー様。彼はエリアスの友だちで、騎士科の一年生である。
エリアスとヴェイセル様は去年同じクラスだったらしい。そこで意気投合し、高等部では専攻科が分かれたけれど親交は続いている。期せずしてお互いの気になる相手が友だち同士だと知った二人は、共同戦線を張ろうと固い握手を交わしたのだという。
エリアスの紹介でヴェイセル様とカティアは知り合い、ヴェイセル様はすぐさま自分がどれほどカティアに心奪われているのかをぶちまけた。ぶちまけ尽くした。最初は半信半疑だったカティアもヴェイセル様の一途な想いを理解し、二人は婚約前提のおつきあいを始めることになったのだ。
「ヴェイセルは騎士科に行くから、カティア嬢と同じクラスになるのは無理だろうって予想はしてたんだよな」
「そうそう」
「そしたら俺が、君たち二人と同じクラスになったからさ。これはもう俺が行くしかないと思って」
「そうでなくても初日に告るって言ってただろ? なんせ競争率が激しいんだから」
「競争率?」
「ルディス嬢を狙ってる令息は多いんだよ」
ヴェイセル様がこれ見よがしに声を潜める。
「なんの冗談ですかそれ」
「冗談なんかじゃないよ。ルディス嬢の健気で可憐な様子に、心臓を撃ち抜かれた令息は多いんだよ」
「は?」
「君がブランド・ギルウィングにひどい扱いを受けていたことを知る者の中にはね、黙って耐え忍ぶ姿を見て自分がなんとかしてあげたいと思った男が多いってことさ」
「まあ、俺もそのうちの一人なんだけど」
「でもまさか、婚約が解消になってなかったとはね」
男子二人が苦笑いしている。
「まあ、でも俺も、諦めたわけじゃないけどね」
エリアスが思わせぶりな目をして、満面の笑みを浮かべる。
「婚約は家同士のつながりもあって、今すぐどうこうとはならないだろうからさ。とにかく今は、ルディスに俺のことを知ってもらってちょっとでも好きになってほしいというか」
思いがけず熱い視線を注がれて、たじろいでしまう。目を逸らすと、カティアがニヤニヤしているのが視界に入る。
「せっかく誰よりも近くにいられる権利を勝ち取ったんだから。俺は全力で行くよ」
誰に憚ることなく、ストレートに自分の想いをぶつけるエリアス。容赦ない好意にさらされて、私は中途半端な薄笑いを浮かべるしかなかった。




