19 瞳が闇に飲まれる
その日は、早々に勉強会を切り上げて帰ることになった。
いつものように馬車に乗り込むと、ブランドがすぐ隣で思い詰めたような険しい表情を覗かせている。
「ルディ」
押し殺した硬い声は、有無を言わさず私の右手をそっと握った。
「……何があっても、俺が絶対ルディを守るから」
「え」
「絶対に、危険な目には遭わせないから。誰の仕業でも何が起こっても、俺が守るから」
鋭い目つきに悲壮感さえ漂わせて、ブランドがじっと私を見つめている。
はっきりと重量を増していく空気に耐えられず、私はわざと明るい声を出した。
「そんな、考えすぎよ。私の勘違いかもしれないし。もしかしたら家に全部あったりとか――」
「そうだといいけど、多分そうじゃないだろ。学園で使ったはずのノートや教科書がなくなってるんだから」
「そうだけど……」
「いいか? もしこれが悪意ある誰かの仕業なら、だんだんエスカレートしていく可能性が高い。今はまだノートとか教科書とかルディの身の回りのものがなくなってるだけだけど、いずれルディ自身が狙われてもおかしくはない」
「え……」
突如として、想定外の黒い恐怖が私を襲う。
緊張感から体が強張り、そろそろと視線だけをブランドに向ける。ブランドは私の不安と重苦しい空気とを同時に追い払うように、軽く微笑む。
「ごめん、脅かすつもりじゃなかったんだけど」
「うん……」
「でも用心するに越したことはないだろ? 俺がそばにいられるときはいいけど、授業の合間は必ずカティアとかエリアスとか誰かと一緒にいるようにして、絶対一人にはなるな」
「う、うん」
握っていた私の右手をすっと引いて、ブランドはそのまま黙って私を抱き寄せる。突然のことに戸惑いつつも、大切なものでも扱うかのように優しく包み込むような抱き方をされて不気味な恐怖の影が遠ざかっていく気さえする。
しばらくの間、私はそうして大人しくブランドの胸の中に収まっていた。それからゆっくり顔を上げると、何かを押し留めるようにブランドが眉根を寄せている。
「……ルディに何かあったら、俺は自分で自分が許せない」
「だ、大丈夫よ。私もできるだけ気をつけるし」
「……俺が大丈夫じゃない」
「え?」
「もしもルディに何かあったら、俺のほうが大丈夫じゃない。俺自身、正気を保っていられる自信がない」
目の前の青墨色の瞳が闇に飲まれる。底の見えない深い色に、私まで吸い込まれていきそうな錯覚を覚える。
「俺が四六時中、ずっとそばにいられたらいいのに」
盛大なため息をついて、ブランドがぽつりとつぶやく。
「それか、俺しか知らない場所にルディを閉じ込めておきたい」
「ちょっと。そこはかとなくヤンデレ風味な発言やめてよ」
「だって心配なんだよ」
「心配してくれるのはうれしいけど――」
つい、本音がこぼれる。
その言葉にブランドは俄かに喜色を浮かべ、一方の私は恥ずかしさと決まり悪さで思わず目を逸らす。次第に熱を持つ頬に左手を当てると、ブランドがなぜか二度目の大きなため息をついた。
「こんなことなら騎士科を選ぶんじゃなかったよ」
「え?」
「やっぱり教養科にしておけばよかった。失敗した」
「やっぱりって、ほんとは迷ってたの?」
初めて聞く話である。まあ、高等部に進むまでまったくと言っていいほどやり取りなんかなかったのだから、当たり前のことなんだけど。
素朴な疑問に、ブランドは顔色を変えることなく話し出す。
「そりゃ、いずれ親の跡を継いで当主になることを考えたら、騎士科より実務的な勉強ができる教養科を選んだほうが確実だろ?」
「まあ、そうね」
「でも親父はまだまだ現役だし、俺が跡を継ぐとしてもだいぶ先だろうからさ。卒業したら一旦騎士団に入って、街の警備とか要人の警護とか人の役に立つ仕事をするのもいいかなと思って」
「それは、一理あるかも」
「それに何かあったとき、剣術の心得があったほうが安心だろ? 自分の家族は自分の手で守れるくらいの鍛錬は積んでおきたいと思ったんだよ」
「ふふ、ブランドらしい」
ブランドは迷っていたのかもしれないけど、私はブランドが騎士科を選択したと聞いたときにはやっぱりねと納得していた。小さい頃からずば抜けて身体能力の高かったブランドが剣を握れば、誰よりもその実力を発揮するのは目に見えていたから。教養科に進んでその才能を埋もれさせるのは、もったいないとすら思っていた。
そのブランドが、今はなりふり構わず一心に私の身を案じてくれている。ちょっと心配しすぎて、ヤンデレ属性を開花させそうになってるけれども。これまで目にしたことのない仄暗い一面すら垣間見えて、いろんな意味でどきりとしてしまうけれども。
それでも。
「ありがとう、ブランド」
「え?」
「心配してくれて。守ろうとしてくれて。ありがとう」
「あ、当たり前だろ。俺にとってはルディが一番、何よりも大事なんだから。ルディより大事なものなんてないんだからさ」
「……ありがとう。ブラン」
上目遣いで、できるだけさらりと口にしたかつての愛称。ブランドは一瞬目をぱちくりさせて、それからだらしないほど頬を緩ませる。
「……ルディ」
「なに?」
「もう一回言って」
「やだ」
「なんで!?」
「一日一回って決めてるから」
「いつ決めたんだよそんなこと! 勝手に決めんなよ!」
「だってブランド、絶対調子に乗るじゃない」
「うっ……」
私の容赦ないツッコミに何も言えなくなったブランドを見ていたら、なんだか無性におかしくなってしまう。
仕方なく、私は呼吸を整えもう一度繰り返す。
「……ブラン」
「ルディ」
間髪を入れず、乾いた声がすぐ目の前で名前を呼んだ。
「なに?」
「……キスしていい?」
「……いいわけないでしょ、そういうとこよ調子乗りすぎなのよ」
◇◆◇◆◇
それから数日は特に何もなくなることはなく、表面的には穏やかな日が続いた。
ブラン(あれから「ブラン」呼びを強制されている)は前にも増してでき得る限り私のそばを離れなくなり、授業時間の合間はカティアがいつも隣にいてくれる。事情を話したらエリアスも協力してくれることになり、とにかく私は一人きりになる瞬間すらなくなった。
そんなある日。
午前中の授業の合間、教室移動のために廊下に出た途端見知らぬ声に名前を呼ばれる。
「君、ルディス・リンドール伯爵令嬢だよね?」
振り返ると、まったく面識のない黒髪の令息が立っていた。短めのツンツン頭に丈夫な体格はひと目で騎士科の生徒とわかるから、教養科の生徒たちが行き交う廊下でひと際目立っている。
「そうですけど……」
「よかった。あの、これ」
すっと差し出されたのは、なくなったはずの世界史のノートと言語学のノート、それと経営学の教科書だった。
「え?」
「ちょっと、もしかしてあんたが盗ったの!?」
すぐ隣にいたカティアが、それを見て即座に噛みついた。黒髪の令息はカティアの圧に押されて「そんな、まさか」と後ずさりしつつも、なんとか反論する。
「お、落ちてたんだよ」
「どこに!?」
「騎士科の校舎のゴミ箱の中だよ。俺がたまたま見つけて、中を見たら君の名前があったからさ。こうして持って来たんだ」
「ゴミ箱の中……?」
カティアがわかりやすく眉間に皺を寄せる。私は差し出された教科書とノートを受け取って、ひと通り確認してみる。自分のものなのは、もはや疑いようもなかった。
「学期末テストも近いのに、なんで教科書が捨てられてるんだろうと思ってさ。誰の仕業かは知らないけど、とにかく気づいてよかったよ」
「ありがとうございます……」
黒髪の令息は、安堵したように爽やかな笑顔を浮かべる。
「それじゃあ、俺も次の授業があるから」
「あ、あの、改めてお礼をしたいのでお名前をうかがってもよろしいですか……?」
「俺? 俺はハルスティン・ベランノール。騎士科の一年だよ」
照れたように顔を紅潮させた黒髪令息は、そう言ってくるりと背を向ける。そして颯爽としたオーラを纏いながら、教養科の校舎をあとにした。