10 あっちとこっちに挟まれる
翌日。
「……ほんとに来るなんて」
「どういう意味だよ」
昨日、ほぼ三年ぶりにきちんと話し合った私たちは、婚約の継続について一旦保留にすることを決めた。
両親はだいぶ不満げではあったけれど、最終的には私の意志を尊重してくれた。一方の姉様はブランドの事情を知って、
「なんかこう、もうちょっと切実な理由があるのかと思ったんだけど。まあブランドだからね、しょうがないわね」
訳知り顔で含み笑いをしていた。でもほんとそう。いくらどうにもならない不本意な状況だったとしても、もう少しうまい立ち回りの仕方があっただろうよと思ってしまう。ほんと、要領が悪いというか不器用というか。
そのブランドは昨日の帰り際、
「明日の朝、学園へ行く前に迎えに行っていいか?」
恐る恐るといった様子で、でも唐突に言い出したのだ。
「……いいけど」
何を企んでいるのかと思いつつも半信半疑で承諾したら、今まさに、昨日とはうって変わって憂いのない爽やかな笑みを浮かべるブランドが目の前に立っている。
「これも罪滅ぼしの一環ってこと?」
「……ていうか」
馬車に乗り込み向かい側に悠々と座りながら、ブランドは少し決まり悪そうに答える。
「中等部の三年間、ルディスがどんなふうに学園生活を送ってたのか全然知らないからさ。それを知りたいっていうか」
「え?」
「罪滅ぼしするにしても、今のルディスのことがわからないとまた的外れなことをしそうだなと思って。今までの三年間のこととか、高等部に入ってからのこととか、俺の知らない普段のルディスが知りたい」
気恥ずかしそうに、目を逸らしたブランドが鼻先を掻く。幼い頃よく目にしていた懐かしささえ覚えるその仕草に、思いがけずどきっとしてしまって慌てて私も視線を移す。
お互いになんだか落ち着かなくて馬車の外を眺めていると、そわそわした雰囲気をかき消すようにブランドが口を開いた。
「ルディスがいつも一緒にいる、あの明るいシナモン色の髪の令嬢って……」
「カティアのこと?」
「あ、そうそう。騎士科のヴェイセルと婚約を前提につきあってるっていう」
「ヴェイセル様、カティアにべた惚れなのよね」
「ヴェイセルって、俺と同じクラスなんだよ」
「え、そうだったの?」
「それとあの、ド派手な色の髪をした……」
「エリアス?」
「そう、そいつ。俺がルディスと一緒に登校したら、そいつらにえらい勢いでボコボコにされそうだな」
「あー、それは、そうかもね」
確かに、カティアは以前からずっとブランドのことを毛嫌いしていたし、最近のブランドの猛攻に対しても「うざい」とか「鬱陶しい」とか「地味に精神を削られるような嫌な呪いにかかればいいのに」なんて言って目の敵にしていたから、私がブランドと一緒にいるのを見てどんな反応をするのかまったく想像がつかない。
エリアスにしたって「今更なんだよ」とか「身の程知らずなやつだな」とか「とうとうあいつを見ると蕁麻疹出るようになってさ」なんてふざけたことを言ってたし、それでなくてもいつも一緒にいてくれて――――とそこまで考えて、大事なことに気づく。
「あの、ブランド」
「ルディス」
声が重なって、思わず顔を見合わせる。
「え、何……?」
「いいよ、ルディスが先に言えよ」
「あ……」
言わなくてはいけない。大事なことを。でも言いづらくて、ブランドの顔をまともに見ることができない。
「……あの、私、実はエリアスに告白されて……」
「知ってる」
ブランドはなぜか切なそうな、どこか余裕のなさそうな顔をして、すぐさま言葉を返す。
「スヴェンに聞いた。それからいつも一緒にいて、すごく大事にされてるって……」
「あー、うん」
「そいつのこと、好きなのか?」
妙に硬い、引きつった声で、ブランドが尋ねる。
好きなのかと聞かれて、私はふと考え込んでしまった。
「好きってその、恋愛的な意味でってことだよね?」
「あ? ああ、まあ」
「……どうなんだろう?」
「は?」
「嫌いではないよ、もちろん。優しいし頼りになるし、いろいろ気にかけてくれるし、優しいし」
「『優しい』って二回言った」
「いい人だよ」
「うん」
「優しいし」
「それは聞いた」
最初に告白されて、それ以降もわりといつも一緒にはいるものの、友だちとしての距離は絶妙に保たれている。余裕ある風情でなんとなく捉えどころがなくて、無理やりな領域侵犯をしてこないことに油断していると、あらぬ瞬間に「そういうところが可愛いね」なんて直球を投げてくる。そのたびに、どぎまぎしてしまうのは事実なんだけれど。
あれは恋愛的な意味での「好き」と言えるのだろうか。
正直、よくわからない。そもそも、ブランドに対して淡い恋心を抱きつつも嫌われたと思い込み、諦めたと言いつつもずっとその気持ちを持て余してきたんだもの。どっちつかずの宙ぶらりん状態が長すぎて、いきなり横から好きだのなんだの言われてもそうすんなりとは切り替えられないというか。かと言って、ブランドに嫌われていなかったとわかったら無条件に三年間の傷つきと痛みから解放されるのかと聞かれたら、どうやらそういうわけでもなく。はっきり言って、自分の気持ちが自分でもよくわからない。
どんどん考え込んでしまう私を尻目に、ブランドの纏う空気はどういうわけかそこはかとなく軽やかになっていく。
「俺、あのエリアスってやつに『早く婚約を解消してくれ』って言われたんだよな」
「は?」
「今必死でルディスのこと口説きまくってるから邪魔しないでほしい、とか」
「え」
「ルディスがあいつのこと好きだって言うならその気持ちを尊重したいと思ったけど、あんまり遠慮しなくてもよさそうだな」
「え?」
ブランドは見るからに上機嫌になって、なんなら鼻歌まで歌い出す勢いで、急ににこにこし出した。久しぶりに見る無邪気な笑顔にあれこれ考え込んでいたものが全部吹き飛んで、私はまた否応なしにどきっとしてしまった。
◇◆◇◆◇
馬車が学園の正門前に到着する。
「ねえ、ブランド」
鞄に手を伸ばしかけていたブランドは、「なんだ?」と言いながら振り返った。
「ブランドのほうこそ、私と一緒に出て行ったらまたいろいろ言われるんじゃない? そういうの嫌なんじゃないの?」
不意に心配になって尋ねると、ブランドはちょっときょとんとした顔をして、それからふっと軽く笑う。
「大丈夫だよ」
「いいの?」
「うーん、なんか、今は誰に何を言われてもいいかなって思ってる」
「そうなの? なんで」
「……秘密」
悪戯っ子のような不敵な笑みをして、私をエスコートしようと手を差し伸べるブランド。
その手に誘われるようにして外へ出た途端、思った以上にたくさんの好奇の視線にさらされたからまた驚いた。
ざわざわと、さざ波のように、生徒たちの驚きや動揺の声が広がっていく。こういう不特定多数の無粋な声が嫌だったはずのブランドは、なぜだかやけに堂々としているから私のほうがあたふたしてしまう。
「え、ブランド、大丈夫?」
「何が?」
「何がって、みんなにいろいろ言われてるじゃない……」
「ほんとな。俺たちって意外に人気者なんだな」
「違うでしょ。単にお騒がせなだけでしょ」
「そっか。まあ、どっちでもいいけど」
「いいの? こういうのが嫌だったんじゃないの?」
「まあな。でもこうなるともうどうでもいいっていうか、案外気にならないというか」
「は? なんで?」
聞いても何も答えてはくれない。ブランドは嬉々として私の手を取り、投げかけた疑問は置いてけぼりである。
ブランドはそのまま教養科の私の教室まで送ってくれて、「ランチのときにまた来るから」と子どもみたいにうきうきとした笑顔を見せながら去っていった。
「ちょっと! ルディス!」
ブランドと一緒にいた私を目敏く見つけたカティアが、すぐさま駆け寄ってくる。血相を変えたエリアスもその後ろにいる。
「どういうこと!? 何があったの!?」
その圧に一瞬怯みそうになりながらも、私はブランドから届いた手紙をきっかけにして二人でちゃんと話し合ったこと、婚約のことは一旦保留にしたけど、ブランドが罪滅ぼしをするために私のことを知りたいと言うからひとまず一緒に来たことなどを手短かに説明した。
それでも二人は納得がいかないらしく「でもさ」とか「それって」とか食い下がっていたけれど、ブランドがランチの時間に迎えに来ることを知って、
「じゃあ、この目で直接あの男の本性を見極めてやんないと」
「あんな男が今更のこのこ出てきたって、俺は負けないからね」
これ以上ないほど鼻息を荒くしていた。
かくして、ランチの時間になるとブランドはヴェイセル様と一緒に現れた。ここへ来るまでの道すがら、
「なんでお前がついてくるんだよ」
「行き先が同じなんだからしょうがないだろ」
「は? どういう意味だよ」
「俺もルディスのところに行くから」
「はあ!? お前、今更何言ってんだ!?」
などという、まったくもって予想通りの会話がなされたそうである。
ランチルームのいつもの席は、四人掛けのテーブルだから一人余ってしまう。ブランドはそれを見越していたのかすぐ脇にあった椅子を持ってきて、私の定位置の隣に座った。
「そこに座るの?」
「ああ。お前の隣がいいから」
ブランドは事もなげにそう言って、エリアスとヴェルセル様をだいぶイラつかせていた。カティアは唖然とした顔をして、「まさかあっちとこっちに挟まれるなんてね」とつぶやいていた。