1 私は幼馴染でもある婚約者に嫌われている
「ルディ、こっち!」
小さな手が、差し伸べられる。
漆黒よりも深い夜の色をした瞳は陽の光を浴びてキラキラと爆ぜ、上気した頬はバラ色に輝く。
「あの木の上だよ。一緒に行こう!」
「うん!」
あの頃。
私たちは誰よりも近くにいて誰よりもお互いを理解し、ほかの誰でもない目の前の相手とこの先も歩んでいくのだと信じて疑わなかった。
それなのに今は。
この世界できっと、誰よりも遠い――――
◇◆◇◆◇
幼馴染みのブランドとの婚約が決まったのは、お互いが十歳のとき。
領地が隣同士で学園時代から親同士も仲がよく、家族ぐるみのつきあいをしていたギルウィング伯爵家。ブランドはその長男だった。
私には六歳年上の姉がいて、その姉が婿を取ってリンドール伯爵家を継ぐことは決まっていた。私は次女だし、ブランドと年も同じだし、ちょうどいいじゃない、と親同士は半ばノリで婚約を決めたらしい。
それでも、私たちは幼い頃からわりと気が合ってよく遊んでいたし、婚約の相手がブランドだということにさほど不満はなかった。というか、幼心にもほんのりうれしかったのを覚えている。思えばあの頃にはもう、ブランドのことが好きだったのだと思う。
婚約が決まってからもお互いの家を行き来しながら、それなりに仲良く過ごしていた関係が大きく変わったのは十二歳の頃。王立学園の中等部に入学してからだった。
はっきり言って、何があったのかはわからない。入学当初はクラスが違ってもよく廊下で会って話をしていたし、ランチも一緒に食べていたし、たまには同じ馬車で帰ることもあった。透き通るような銀髪にほとんど黒に近い青墨色の瞳をしたちょっと鋭い目つきのブランドは、「冷たい」とか「クール」とかともすれば「怖い」と評されることが多かったけど、中身は存外人懐っこいことを私は知っていた。だからそれまで通りのつきあいをしていたはずだった。
ところが、である。
夏が終わる頃には、私たちの間に不自然な距離が生まれていた。いつも通り話しかけても素っ気ない態度をされるのはまだいいほうで、ひどいときには「話しかけんな」と睨まれることもある。ランチの時間は同じクラスの男子とつるむようになり、私を見かけても知らんふり。そしてとうとう、廊下で会ってもまるで赤の他人のように、私なんか視界に入っていないかのように振る舞うようになった。
いや、私だって最初の頃は、何かあったのかとブランドを問い詰めようとしたし、無視されても果敢に話しかけようと突撃もした。追いかけ回すまではさすがにしなかったけど、でも今までのブランドを知ってるからこそ、こんなのおかしい、何かあったに違いない、と信じていたのだ。
でも、何をどうやっても、ブランドの態度は変わらなかった。それどころか、ひどくなる一方。あからさまに私を避けるようになり、しまいには目が合うことすらなくなった。
繰り返して言うけど、何があったのかはわからない。いやもしかしたら、何かがあったというわけではないのかもしれない。ただ、学園に入学して、いろんな令嬢を目にする機会が増えて、私と婚約したことを後悔したのかもしれない。なんでこんなの、とかもっとほかに、とか。
そう思ったら、もうこちらから何かを働きかける気にはなれなかった。それが一年生の冬。そのまま二年生になっても何も変わらず、私たちの溝は深まるばかり。三年生になったらクラスまでもが端と端とに離れてしまい、もはや廊下で会うこともほとんどなくなった。
その間に、私のほのかな恋心はどうやら凍りついてしまったらしい。そりゃそうだ。あれだけ冷たく無視されて、ひどい対応をされ続けたんだもの。それでももしかしたらとブランドの言動に一喜一憂したり、ランチルームで無意識に探してしまったり、遠くからでも息を潜めながら目で追ってしまったり、そんな毎日にほとほと疲れてしまった。この三年で、ブランドに何かを期待しようとする気持ちはどこかへ消え失せてしまったのだ。諦めてしまったと言っていい。
そんなわけで、婚約者としての交流は途絶えたまま中等部の三年間は終わった。学園の中には私たちが婚約していることすら知らない人も多いし、知っていてもとっくに婚約解消になったと思っている人が多い。なんならそっちのほうが多いかもしれない。理由はわからないながらも、私のほうがブランドに捨てられたのだとみんな思っている。まあ、心情的には当たらずとも遠からずといったところなので、私もあえて否定しなかったし。
とにかく、結論として言えること。
残念ながら、私は幼馴染でもある婚約者にだいぶ嫌われている。
そうして今年、私たちは学園の高等部に入学した。
高等部は、騎士科と教養科に分かれている。騎士科は将来的に騎士団への入団を目指す生徒はもちろん、身体能力の高い者や武芸に秀でた者、剣術を嗜んでおきたい者などが選択する。一方の教養科は一般的な貴族に求められる領地経営や事業運営のノウハウ、ワンランク上の社交スキルや国際情勢を考慮した外国語の知識などより実務的な内容を学ぶことができ、卒業後は文官として王宮に勤める者も多い。
この専攻科選択で、ブランドは騎士科を選び、私は教養科を選んだ。科が違えばクラスはもちろんカリキュラムも異なり、おまけに校舎も離ればなれ。つまり、会う機会は格段に減る。いや、もはや学園の中で会うことはないのかもしれないというレベル。これは致命的である。
まあ、もともと関係の修復なんか望めないわけだから、致命的も何もないんだけれども。
「ルディス。初日からため息つくのやめてよ」
聞き慣れた声に顔を上げると、親友のカティアが憂い顔で立っていた。カティアも教養科、そして同じクラスになったのはすこぶる喜ばしいことなんだけど。
「心機一転、新たな出会いに期待しようよ」
「そういうわけにはいかないでしょうよ」
「なんでよ。さっさと婚約解消すればいいじゃないの」
「まあ、そうなんだけど」
「いつまで引きずってるのよ」
今度はカティアがため息をつく。
カティアとは、中等部の三年間も同じクラスだった。だから私とブランドの事情を事細かに知っている。リアルタイムでつぶさに見てきた証人ともいえる存在。詳しすぎるほど知っているからこそ、ブランドに対して激しい嫌悪感を抱いてしまっているのも事実である。
「向こうが何考えてるのかわからないけど、いきなり婚約解消ってことにでもなったら困るのはルディスなのよ?」
「わかってるわよ」
「そうなる前にこっちから解消を申し出て、それから大手を振って自由を謳歌すればいいじゃない」
「うーん、まあ、そうなんだけど」
「……やっぱり、諦めきれないの?」
カティアが心配そうに私の顔を覗き込む。私は曖昧に笑うことしかできない。
「そういうわけじゃないけどさ……」
「うわー。ほんとあいつ罪深いわー」
刺々しい声で、カティアが吐き捨てる。救いようがないなと思いつつ、最後の最後で踏みとどまってしまう。躊躇してしまう自分がいるわけで。
それでも。
当然、今のままではいられない。高等部の三年間が終われば、いや多分終わる前に、卒業後の進路や結婚の時期について両家で話し合いが持たれる日がきっと来る。それがいつになるかはわからないけど、すべてが露見する日は近い。そのときまでに、せめて自分の身の振り方くらいは決めておかないと。そう思ったら、ついついため息が漏れてしまう高等部での生活がいよいよ始まった――――。
本編は28話の予定です。
これからよろしくお願いします!