08、旅立ちへ向けて
頻繁に訪れるようになったロードとベガ。騒動は初日だけで、後はのんびりとした時間が過ぎている。
街の薬局から依頼されていた薬を造り終えたアシュリーは、うーんと伸びをしながら窓の外に目を向け、そこでベガと何かしているエルウィンの姿に頬を綻ばせた。
どうやらベガはエルウィンを気に入ってくれたらしい。ロードと同様に余り人間を好きでないベガだが、まだ損得抜きに好き嫌いの感情で接する子供のエルウィンとなら仲良く出来るようだ。
そして、最初はおっかなびっくり触れていたエルウィンももうベガに慣れ、最近は自分でねだってベガの背中に乗ってはあちこち出かけている。遊び相手が出来てから、エルウィンの笑顔が増えたような気がした。
そしてアシュリーも、出会った頃よりもずっと確かに、あの笑顔を守ってあげたいと思うようになった。
同情ですらない気持ちで連れてきてしまったけど、でも出会った以上きっとこの出会いにも意味はあって……エルウィンが己の罪を背負って一人で立てるようになるまで見守ることが運命なら、その日まで彼を守り抜いてみせようと思えた。
一緒に遊んでいるベガとエルウィンを見守っていたアシュリーの耳に、タンタンと木の床を踏み締める靴音が届く。ややあって、ノックも無しにドアが開きロードが顔を覗かせた。
「ただいまっ」
「おかえり」
窓からロードに視線を移動させたアシュリーは、酷く慌てているロードを見て純粋に首を傾げた。
どうしたのだろう? 不思議に思い、椅子から腰を上げロードに近付く。
「どうした? ……上手くいかなかったの?」
「ううんっ、ちゃんと言われた通りにしてきたんだけど、あのさ……」
「ん?」
纏っていたフード付のマントを脱いで椅子の背もたれに掛けたロードは、焦ったまま身振り手振りを交えて街で仕入れてきた情報を伝えた。
それを聞いたアシュリーは、一瞬驚いた顔をし、次の瞬間泣き出しそうな顔をして……笑った。
ロードを見上げていた琥珀の瞳がついっと横へ逸れる。ロードもつられて同じ方を見た。
二人の視線の先には窓があって、その向こう側……ベガの白い毛に埋まるように遊んでいるエルウィンがいる。
キャッキャと声をあげて笑っている姿は、ここへ来たばかりの頃とは雲泥だった。
不健康で青白く痩せこけていた頬は、ふっくらと丸みを帯びて……太陽の下、生命の通う鮮やかな肌色をし、身体も随分大きくなった。このまま成長すれば、子供の頃病弱であったなど誰も信じないくらい健康に育つだろう。
それはアシュリーの調合した薬の薬効でもあるし、同時に、生きなければならないと強く願うエルウィンの意思の力によるもの。
奪ってしまった生命に償うため……その気持ちが今のエルウィンを支えている。
小さな子供が決めた、絶対の誓い。
「……どうする?」
エルウィンを見たまま困ったように呟いたのは、ロードが先だった。エルウィンからアシュリーに視線を動かす。
……だが、予想外にアシュリーは微かな笑みを浮かべたまま窓の外を見ていた。
「アシュリー?」
もっと困ると思っていた。決めたはずの誓いが揺らぐのではないかと心配していたのに、アシュリーは薄く笑っている。やがて横目でちらりとロードを見たアシュリーは、穏やかな声のまま紡いだ。
「どうもしない…そのことは、今はまだ私にもエルウィンにも関係ない」
「…今は?」
「うん、どう考えたって将来は重要になってくるだろうけど、今はまだ気にしなくていいから……お前も忘れて」
強く言い切ったアシュリーは、ふいっと身を翻して散らかったテーブルを片付けに行く。その背を見たロードは数度首を縦に振った。
「判った」
それがアシュリーの意思であるなら従う。
「まあそれがホントなら、それで心配事が一つ減るし、私も気が楽だわ」
含み笑いを見せたアシュリーは、薬品を戸棚に片付け始めた。
きっと彼女も彼女なりに考えているのだろう、将来のことを……今日ロードが街でしてきたことも、多分そのため布石の一つだ。
エルウィンを本当に受け入れた日から、他人のためには指一本動かさなかったアシュリーがエルウィンのためによりよい選択をしようとしている。オレンジ色の髪が縁取る横顔は何百年と見守ってきたものとまったく変わらないのに、でも何処か違っているように見えて……愛しい人の変化が嬉しくてロードも笑えた。
クスッと一人で笑ったロードは、足取りも軽くアシュリーのそばに近寄った。
「ねぇアシュリー」
「ん?」
「ご褒美は?」
「ご褒美?」
「うん、おつかいの」
戸棚の上の方に手を伸ばしていたアシュリーを後ろから抱き締め、その耳元に潜めた声で囁く。ついでにフッと息を吹き掛けた。
「オレ、アシュリーとエルウィンのために悪役演じてきたんだけど?」
「……元から悪役でしょ、魔族だし」
「オレ良い魔族なのに、わざわざ悪役になってきたの! ………アシュリーのために」
『わざわざ』に酷く力を込めておいて、最後の一言はその軽いノリが嘘のように切ない声音が呟く。ピクンと抱き締めたアシュリーの身体が揺れた。それを押さえ付けるように更にきつく抱き締める。
絡み付いてくる腕の強さにキューっと胸が締め付けられ、今までのアシュリーからは有り得ない言葉が飛び出す。
「ロード、私の勝手でお前にも迷惑かけたわよね、悪か……」
「謝んないでよ、オレはアシュリーに謝ってほしくてそばにいる訳じゃないから。届かなくても、オレがそばにいたいからいるだけ……オレも勝手貫いてるんだよ」
そう、勝手勝手、みんな勝手。アシュリーだけが勝手をしている訳じゃない。
思い返せば、すべての発端もあの時のあの人の勝手から始まっているのだ。
誰の言葉にも揺るがず、一番最初に魔界を捨てた人。あの時から、アシュリーの運命も…それに付き従うロードの運命も、行く先を変えた。
そしてここに辿り着いた。
多分、周りに遠慮して人の都合など細かく考えていたら、自分が持つ本当の願いを叶えることなど出来ないだろう。それが絶対の望みならば、他人から罵られようとどんな波紋を呼ぼうと、一切顧みずに貫くことも必要だ。
それを『勝手』と呼ぶか『強さ』と呼ぶかの判断は、それこそ勝手に第三者が判断するだけで、行為自体の根本にあるものは同じに違いない。
アシュリーとあの人が魔界を捨てたことはロード達から見れば『勝手』だった。だけどある側面から見れば、仲間も故郷もすべて捨てられた事実は『強さ』の証明かもしれない。
だから勝手であることは別にどうでも良いのだ。
突き詰めれば結局、みんな好き勝手に生きてる。
エルウィンだって、人間の癖に魔族のアシュリーと暮らしたいと言った。駄目だというアシュリーの言葉を遮ったあれは、エルウィンの勝手だろう?
勝手もわがままも承知の上、罵られても叶えたい絶対の望みがあれば、どんなことでも出来るのだ。
そしてロードは叶えたい望みのために……窓の外を見ながらアシュリーに絡めた手を怪しく蠢かす。視線の先ではライバル達が戯れていた。
「ちょっと待って、ここじゃ……」
「でも、ここじゃないとエルウィンに邪魔されちゃうじゃん。……ここには入ってこないんだろ?」
「そうだけど……んっ…」
素早く服の合わせ目から滑り込んでくる手。素肌を撫でられて肌が泡立った。
「子供にはまだ刺激強いからね。ばれない方がいいでしょ? 声も遠慮してね」
「お前がなっ」
「だって、何年ぶりだと思ってんの? いっつも我慢してるオレを褒めてよ……」
意識的に掠れさせた、思わせぶりな声がうなじを辿る。軽くキスを繰り返す動きに、無意識に息を飲んだ。
「……馬鹿」
「ずっと…こうしたかった。会いたかった、アシュリー…」
愛しさを伝えてくるストレートな囁き。言葉と共にギューッと抱き締められて、もう抗う術などなかった。
「ロード…」
後ろから抱き締めてくるロードの手に己の手を重ねて、アシュリーは首を後ろに傾ける。柔らかく唇を塞がれて、後はもうロードがするにすべてを任せた。
◆◆◆◆◆
今日は仕事があるからベガと遊んでて、とアシュリーが部屋に籠って数時間。少し前に昨夜から姿を消していたロードが戻ってきた。
ロードは酷く焦った様子でエルウィン達には目もくれず家に駆け込んでいった。
何かあったのだろうか?
ベガと顔を見合わせたが、答えなど判るはずもない。まあ大人には大人の事情があるのだろう、自分にも関係のあることならそのうちアシュリーが呼びにくるからいいや……と一瞬頭を掠めた疑問を何処かに追いやった。
そうやって遊びに没頭しているうちに、太陽は随分と高く上り……気が付けばもう真上にあった。きゅるきゅると自分の腹が鳴ってやっと空腹に気付く。けれど、家の中から昼食を呼ぶ声は聞こえなかった。
「腹減った、ごはんまだかな?」
立ち上がって家の方を見ても、何処か静まり返っているような印象がある。
……もしかして仕事が忙しく食事の準備も忘れているのだろうか?
だったらキッチンから何か取ってこようと、エルウィンはベガにそれを告げて家に戻った。
やはりまだ食べ物の匂いはしていない。仕事が忙しいなら仕方がないと、ダイニングの椅子を引っ張っていって戸棚からクッキーの缶を取り出す。アシュリーがいないなら、外に持って行ってベガと食べようと思った。
「後、飲み物と、薬もか」
毎食後に飲むことになっているアシュリーの薬。確か今朝飲んだ分で終わってしまったから、新しくもらわないと……アシュリーの仕事部屋へ向かう。
拳を作ってドアをノックしようと思った途端、中からガタンと大きな物音がした。
悪戯が見つかった時のように身体を痙攣させたエルウィンは、そんな必要ないのにサッとノックしようとした手を後ろに隠して身構える。更にガタガタと同じような音が響き、音が聞こえる度にビクビクしてドアを見守った。しばらくして音は聞こえなくなる。
静まり返った廊下で固まっていたエルウィンは純粋に首を傾げた。
……何してるんだろう?
不思議に思い、そっとドアに耳を押し当てた。ピタッとドアに張り付き、中を窺う。
その途端聞えたのは途切れ途切れに喘ぐ声。
吃驚してドアから飛び退く。
何? 今の、誰の声?
聞いたことのない声に吃驚して中にいる人を疑う。
中にいるのはアシュリーとロードだろ?
確かめるためにもう一度、そっとドアに張り付いた。甲高い声と啜り泣きが交互に聞こえて、その合間にぼそぼそと低い聞き取りにくい声が交じる。
それが見知った二人のものなのかよく判らない。
だけど泣き声とは穏やかじゃない。
どうなってるんだろう?
疑問ばかり膨らんで、だから確かめようと思った。
いつものようにノックして入室の許可を得れば良いのだ。
……だが、そうしてはいけない雰囲気も本能で感じる。
見てはいけない、知ってはいけない、何処かがそう警告していた。
だけど知りたい欲もあって、迷いオロオロしていたエルウィンの耳に決定的な一言が飛び込んでくる。
「……ロー、ド……!」
甘ったるい、媚びるようなアシュリーの声。
確信して、エルウィンの手からクッキーの缶が滑り落ちそうになる。すんでのところでそれを防ぎ、缶を抱いて床に蹲ったエルウィンは訳が判らないまま、ただ心臓をドキドキさせた。
悲鳴のようなアシュリーの声。
続けてまた聞えた啜り泣き。
中で何が起こっているのか想像は付かないけれど、思考は二人が喧嘩してアシュリーが泣いているとかそういう方向には向かない。
本能が知っていた。
邪魔しちゃいけないっ……。
泣きそうになって、缶を抱いたままその場を走り去る。
ベガのところに戻れなくて、寝室に飛び込んだ。まだ心臓の動悸はおさまらない。
走った所為ではないのは判っていた。
……耳の奥こびりついて離れない声の所為だ。
エルウィンに語り掛けてくる穏やかな声からは想像もつかない、アシュリーの甘い声が切なげにロードを呼んでいた。それがどういうものか理解出来ないのに、胸を締め付けてくる。
痛くて…気が付いたら泣いていた。
「……なんで…なんで…?」
何を問うているのか自分でも判らなかった。
泣いている理由か…それとも………?
判らないまま涙が零れる。
無性にアシュリーが恋しかった。
泣きながら心の中で叫ぶ。
今すぐここにきて、オレを見て、オレに声を掛けて、オレを抱き締めて!!
アシュリー!!
届くはずのない叫び。
アシュリーを求めて求めて零れる涙。
どうして今、泣いてそう思うのかさえ、幼いエルウィンにはまだ判らなかった。
◆◆◆◆◆
床に寝そべって久し振りの行為の余韻を楽しむようにロードに寄り添っていたアシュリーは、紫の前髪をいじりながら呟いた。
「もうちょっとしたらここ離れるから」
「え?」
「流石にここじゃエルウィンは育てられない。あの子がもうちょっと丈夫になったら、あちこち旅して回ろうと思ってる」
ここはエルウィンの生家に近すぎる。今は幼く行動範囲が狭くてもいずれ、街や人に興味を示し始めるだろう。その時、彼の生家がある街に行っても良いとは言えない。
ある程度の年齢になるまで何処か遠く、誰もエルウィンを知らない場所で暮らした方がいい。そして彼が自分で自分のことを決められるようになったら……その時、エルウィンが自分ですべてを決めればいい。
その時がくるまで、彼の生き方を制限するような障害はなるべく排除してやりたかった。
「ああ、そだね。……ここじゃ、噂とか耳に入るかもしれないし」
「うん。それに、あちこち連れて行って、世界はこんなに広いんだってこと教えてやりたい」
心底それを願い笑う顔に、ロードの何処かがズキッと嫌な音を立てた。
アシュリーの変化は嬉しいけど、これは……正直腹立たしい。アシュリーのこんな顔をみれて嬉しいというより先に、むかついた。
エルウィンのために笑うのは、嫌。
眉をしかめるロードに気付かず、アシュリーは睫を伏せて更に続ける。
「…………エルウィンが、私の髪触りながら花の色みたいって言うの」
「花?」
「うん、エルウィンの家の庭に咲いてた花みたいな綺麗な色だって。花じゃないけど綺麗なものに触れて嬉しいって言うのよ? 私は魔族だってのに、綺麗綺麗って凄い褒めるんだもん、調子狂うわ。………子供って凄いね」
ククッと笑うアシュリーに同意は示せなくて、床に流れる彼が綺麗と言った長いオレンジ色の髪を梳きながら無言でアシュリーの裸体を抱き締める。
「ロード?」
不思議そうな声にも答えず、ただ抱き締めていた。
違う、凄いのは子供じゃない。
凄いのは、エルウィンだ。
魔族が好きだと言い切った、あの男。
確かに今の彼は子供だ。でも、将来エルウィンも大人になる。
エルウィンが大人になったら……。
人間の思い込みは果てしないパワーを持つ。数日前、あの場所で覗いたその燐片を思い出したロードの背筋を一瞬冷たいものが通り過ぎた。
振り払いたくて、ロードはアシュリーの力を頼る。
「ねえ、ちょっと聞いてもいい?」
「なに?」
「いつから…アシュリーにとってイライアスを殺したことは罪悪になったの?」
「…………え?」
「だってアシュリー、最初は罪だなんて思いもしなかったろ? 殺して当然だくらい思ってたでしょ? それがいつから、殺して済まなかったって思うようになったか、自分で判る?」
「…………いや、そういえば…判らない」
確かに、最初はそんなこと思いもしなかった。
手に入れるために殺して満足したのに……。
いつから、勝手に殺してしまったことを悪いと思い始めた?
いつから……殺さなければよかったと思い始めた?
愛していたなら他に方法があったんじゃないかと、他の方法を模索し始めた?
何処か遠くを見ながら胸の内を彷徨い、答えを探す。やがて、明確なものではないけど、ぼんやりとしたものを掴まえてポソポソ呟いた。
「殺したのは好きだったからで……殺さなきゃよかったって思うのも、好きだから……かな? 今はイライアスに生きててほしかったって思う。あんなことしないで無茶でも説得すれば良かった、生きてさえいれば、昔のイライアスに戻ることだってあったかもしれないのに……って」
あの人のことを想うと今でも胸が痛い。
息が出来なくなる程、迸る感情。
殺したい程愛しているから、手に入らないなら消えてしまえと願った。
だけど、実際居なくなったらどうしようもない空しさだけが残って……欲しかったのは心の籠らないカケラではなかったことに、なくしてから気付いた。
だから、思い出すのは彼がこちらで暮らしていた時のことばかりなのだろう。
こちらにきてからの彼は、魔界にいた頃とはまったく違う、優しい笑顔でみんなに笑いかけていたから……。
笑顔を思い浮かべただけで涙が滲む。
会いたい、もう一度会いたい。
会って伝えたい、殺してごめん。それでも愛していると……。
睫を震わせる雫を拭うアシュリーの動きを感じたロードは、この数百年何度も繰り返してきた質問をまたぶつける。
「アシュリーは本当にイライアスが好きなんだねぇ。……あの人以上に誰かを好きになることなんてないよね?」
「ええ、そんな相手、絶対見つからない」
間髪を容れずに澱みなく答えた口調に過ぎった、昔のアシュリーのままの意思の強さ。
ホッと安堵の吐息が零れた。
それなら大丈夫。この人にイライアスを想う以上の気持ちを植え付けることなんて、絶対に誰にも不可能だ。
そして、それがロードの本当の願い。
この想いが届かないならせめて……誰のものにもならないで欲しい。