07、罪の告白
森を抜けて家に帰り着いた時、真っ先に目に入ったのはオレンジ色の長い髪だった。
木製のテラスに上がる階段で蹲っていたアシュリーが、物音に気付き顔を上げる。泣いてはいなかったけれど、酷く追い詰められているようだった。
「ロード…、エルウィン……」
「ただいま」
だが、ロードはアシュリーの縋るような声など聞こえないように、明るい声を出す。アシュリーの前で伏せたベガの背中から下りて、エルウィンと共にアシュリーの前に立った。
「はい」
蹲ったまま見上げてくるアシュリーの前に、エルウィンを押し出す。
「ちゃんと見つけてきました。ああ、仲直りもしたからもう気にしないで」
「ロード…」
「遊び相手もちゃんと引き受けます。ベガと二人でね」
二人の後ろにいた白い獣も話を振られ頷く。
望んでいた通りの結果なのに、アシュリーは拒否するように首を横に振った。
「今更私はエルウィンと暮らせない……」
自分の行動の身勝手さを思い知ったのに、それが判りながら善意のフリでエルウィンを育てるなど出来ない。
深刻に拒絶するアシュリーの耳に、ロードの呆れたような言葉が聞こえた。
「もうっ、自分で連れてきたんだからちゃんと責任持ってよね」
「だけど、だけどそれだって……」
迷い戸惑って、アシュリーは逃げるようにエルウィンから目を反らせる。
今更この手でエルウィンを受け取れる訳がない。今日まで彼と一緒にいた理由は、優しさでも、同情ですらないと先刻突き付けられたばかりだ。
そんな自分が今更エルウィンと、今朝までと同じ生活が送れるはずない!!
優しさなど欠片もない自分に、エルウィンが育てられる訳ない!!
「駄目…私は……」
頭を振ってエルウィンから遠ざかろうとするアシュリーに、ロードの手を擦り抜けたエルウィンが駆け寄る。
「アシュリーっ」
小さな手でアシュリーの手を掴み、引き寄せるように引っ張った。白い手を両手で包んで、そっと抱くように自分の胸に押し当てる。
「エルウィン…」
瞬く琥珀の瞳が太陽の光に照らされて、いつも以上に輝いている。濡れて光る目を覗き込んで訴えた。
「アシュリー、ロードからアシュリーがオレが思ってた通りの冷たい魔族だって聞いた。だから優しくなんかしてくれなくていい、そのままでいいから。オレをここにおいて」
「エルウィン…だって、私は……」
「アシュリーがオレを連れてきた理由とかオレにはどうでもいい。オレはただお前に生きろって言われて生きようって決めて、ただそれだけだから……アシュリーがどう思ってたっていいんだ、オレがアシュリーと一緒にいたいだけだから。オレ達、考えてること全然違ってたのに、今日まで結構うまくやってただろ? だったら明日からも大丈夫。別に育ててくれなくていい、ただ一緒に暮らそう?」
一緒に……手を握って訴えかけてくるエルウィンを見つめていたアシュリーが唇を歪める。眉間に皺が寄って、どうしようもないくらい情けない顔をした。
「……私は、凄い自分勝手なの。本当自分でも嫌になるくらい勝手で、エルウィンに生きろって言ったのだって結局」
「そんなことどうでもいいんだって!! ただオレがアシュリーと一緒にいたいだけなんだから!!」
すべてどうでもいいことだと叫んで、エルウィンは初めて自分からアシュリーに抱き付く。今日までアシュリーに手を出されて抱き付くことはあっても、自分から彼女を抱き締めたことはなかった。
けれど抱き締めるというにはまだエルウィンは幼すぎて……精一杯伸ばした手をアシュリーの首に巻き付け、小さな身体全部でアシュリーを包む努力だけする。
小さな手に抱かれて、アシュリーは驚いたように瞳を瞬かせた。
「エルウィン…」
「オレここで暮らしたい、アシュリーと暮らしたい」
ギュッとまとい付いた小さな温もり。それを抱き返してもいいのか……初めて迷った。
今日まで何も考えずにしてきた行為に初めて躊躇いが生まれる。その抱擁の一回一回がどれ程エルウィンの精神に影響を与えていたか、今更知った。
彼が孤独であることなど最初から知っていたけど、その孤独な心に自分の体温が与える影響がどれ程大きいかは知らなかった。
繰り返した日常、まだそんなに長くない時間なのに、すべてが知れても切り捨てられない程、もうエルウィンの中にアシュリーが根付いている。
それに対する善悪の判断が、アシュリーの心を通り抜けた
同時に蘇る、かつての惨劇の記憶。
そうなりうることだってあると今更気付いた。
迷って視線を彷徨わせるアシュリーを見ていたロードは助けるように声を掛けた。
「アシュリー、本人がいいって言ってるんだからいいんじゃない? ……長い人生、人間と暮らすことがあってもいいとオレは思うよ」
すべて知っているロードは、遥か過去を発端とする現在の在り方をそう肯定した。
過去も現在も、本人達が望んでそれを選んだことに変わりがないなら……繰り返そうとしている歴史を止めはしない。
きっかけが模倣であったとしても、今ここでアシュリーがエルウィンを選べば、それはアシュリーの意思になる。彼女が彼女の意思で道を選んだなら結果は変わるかもしれない。
背中を押すロードの言葉に促され、アシュリーはエルウィンに話しかけた。
「エルウィン、私は魔族よ」
「…うん」
「エルウィンとずっと一緒にはいられない」
「……オレが一人で償えるようになるまででいい」
償い……二人を繋いだ罪。
二人が敢えて選ぶ困難な道。
たとえ光が差すことがないと判っていても、選ばなければいけない道。
きっとそれが、別れが必然と判っていて、一緒に暮らすことなのだろう。
別れは必然、でもそれまでの時間を共に……。
頷いて、アシュリーはエルウィンの身体に腕を回す。
「判った…それまで、一緒に暮らそう」
ギューッとエルウィンを抱き締めて、誓った。
◆◆◆◆◆
夜、またすぐ来るね! と帰ったベガとロードを見送り、エルウィンとアシュリーは同じベッドに潜った。
ギュッと腕にしがみついてくる仕草に、アシュリーはエルウィンの方に寝返りを打つ。大きな黒い瞳がこちらをじっと見ていた。
恐れを知らない純粋な瞳。
魔族と暮らしたいと願った真っ直ぐな心根。
…なのにこの子が抱えるのも、アシュリーと同じ罪。
自分勝手な理由で大切な人を殺めた……思うアシュリーの胸を微かな予感が掠める。
「ねぇエルウィン、昼間ロードと何処にいたの?」
「……崖の方」
「やっぱりあそこか」
石を積み上げたのはアシュリー。別に、人間が立てる墓石のような深い理由はない…ただの目印として、もう会うことのない人のカケラがあの場所にあることを長い年月で忘れないように、積んだだけ。
でも、……だからこそあそこはアシュリーにとってもロードにとっても特別な場所。
それを示すように、昔ロードが言った。
『ここでだけは嘘つかないでね』
だからあれ以降、ロードと一緒にあそこへ行ったことはない。
嘘をつくからではない、もう一度真実を話す自信がないからだ。
真実以外はすべて嘘だろう? だから、もう二度とロードと一緒にあそこには行かない。それくらい特別な場所だから、ロードが大切な話をするならあそこを選ぶだろうと思っていた。
「じゃあ、もしかしてあそこがなんなのか聞いた?」
言った途端、隣りのエルウィンが飛び起きる。そして思いっきり首を横に振って即否定した。
「オレはアシュリーが言わないこと勝手に聞いたりしない!!」
凄い剣幕で言われ、アシュリーの方が驚かされる。けれど、エルウィンの泣きそうな顔に思わず笑ってしまった。
エルウィンの必死さが愛らしくて、養い親になるアシュリーに誤解されないように気を遣っているのがなんだか嬉しくて……笑ったまま、そうか…と零し、もう一度横になるよう促した。
もぞもぞ布団に入るエルウィンを緩く抱いて、瞼を閉じる。アシュリーの腕の中で寝心地のいい場所を探したエルウィンはおとなしく腕の中に収まっていた。
抱き締めて感じる暖かさと少し乱れた呼吸。
エルウィンは知りたいのだろうか、あれが誰のものか……そりゃ、情報を小出しにちらつかされたら気にするなという方が無理だろう。
「あれが誰のか気になる?」
「……アシュリーが言いたくないなら聞かない」
「そうじゃなくて、あなたがどう思ってるか聞いてるんだけど?」
「……気になる、でもアシュリーが嫌なら無理は言わない」
「子供のくせに……」
僅かに笑って、アシュリーは少しだけエルウィンを抱く腕に力を込めた。やがて深く息を吸い込み、静かな夜の闇を乱さない細やかな声でそっと囁く。
「じゃあエルウィンにも教えあげる。あそこには私がこの世で一番好きな人が眠ってる」
アシュリーの、この世で一番好きな人。
一瞬息が止まるくらい驚いて、心の中で今聞いた言葉を反芻した。そして気付く、言葉が伝えるアシュリーの気持ち。
好きだった…じゃない、好きな人。
過去形じゃないと言うことは、現在進行形でアシュリーはその人を想っているのだろう。
眠っているというのは、死んだということなのだろう。
そのお墓をここで守り続けている?
想像するエルウィンの上に、更に信じられない言葉が落ちてきたのはその直後。
「私が殺した」
驚いて、更に身体を硬直させるエルウィンをしっかり抱いて、アシュリーは続けた。
「勝手な嫉妬心で、私はあの人を殺した、だから私はエルウィンと一緒なの。私があなたに生きろって言ったのは、自分が死にたくないから。エルウィンを見捨てたら、私も死ななきゃならなくなるから。…………勝手な理由だったんだよ」
そう全部勝手、アシュリーは勝手な理由でばかり行動している。
そして昔はそれを後悔したことすらなかった。自分の行動がどんな事態を引き起こしても平然としていられた。
私は私の生きたいように、己のためだけに生きていると胸を張っていられた。
己のために生きることだけが、アシュリーにとって正しいことだった。
そして、かつては『彼』もそういう人だったのだ。
アシュリーの愛した人も…。
それなのにあの人は変わってしまった。変わってしまった事実が、どれ程アシュリーに衝撃を与えただろう。裏切られたとさえ思った。
ずっとずっと一緒にいると思っていた人は、偶然出会ったたった一人の人間のためにすべてを捨てて生き方を変えたのだ。
それがアシュリーは許せなかった。しかし許さない、行かせないと挑んだアシュリーを打ち負かしてでもあの人は行ってしまった。だから一度は諦めた。
強いものに従うのが魔族の絶対の掟、負けたアシュリーに彼の行動を制限する権利はない。
でも諦めたフリをして、ずっと機会を窺っていたのだと思う。そしてチャンスは巡ってきた。そんな真似をしても彼が手に入る訳ではないのに、ただ自分のものにしたくて……現実に耳を塞ぎ、視界を閉ざして叫んだ。
そんなの、私が愛した人じゃない!!
勝手を振りかざし、アシュリーは彼の胸を貫いた。……その感触さえ永の年月が忘れさせ、今はもう覚えてない。そしてアシュリーは心の籠らぬ彼のカケラだけを手に入れた。
アシュリーからの衝撃の告白にまだ動悸を激しくさせたまま、エルウィンは掠れた声で聞く。
「アシュリーは、なんでその人のこと……殺したんだ?」
「魔族の羨望を一心に浴びて本当に格好良かったあの人が、誰かのためにボロボロになって狂う姿なんて見たくなかった。………そんな無様な姿を見るくらいなら、死んでくれた方がマシだと思った」
言葉から滲んだ冷たさに、エルウィンの身体が硬直する。
確かに今のアシュリーの科白は勝手過ぎる。勝手に理想を押しつけて、それに沿わないから殺した? それはエルウィンの幼い嫉妬心よりも、もっと幼稚な理由だ。
驚愕の隙間、僅かに過ぎった侮蔑を自嘲の笑みで受け止めて、アシュリーは首を縦に振る。
「あの頃の私には、そうやって勝手を振りかざすことが当たり前だった。全部が憎かった、憧れを踏みにじられた気持ちと、きっと私のためにああはならないって嫉妬で気が狂いそうで……自分が止められなかった」
そして、殺して手に入れた。
もう誰にも奪われることのない彼のカケラ。
絶対誰にも彼との時間を邪魔されたくなかったから、魔界も何もかも捨てて一人でここに来た。
でも……ここで彼を想いながら過ごした時間は、決して幸福ではなかった。諾々と過ぎて行く時間、思い出すのは彼のことだけ。彼の表情、彼の言葉、彼の仕草……たくさんたくさん覚えている。絶対忘れないといえるのに、どうして思い出すのがすべて、あの人が自分を捨ててからの日々なのだろう。
優しく笑って、優しく話して、優しく触れた。それらすべて、魔界で一緒に暮らしていた時の記憶じゃない。彼がこちらに来てからのことなのだ。
どうして? ねぇ、どうして?
遥か遠く、きっかけすら曖昧になるほど昔から問い続け、答えを探し求めていた。未だ答えは見つからない。
そしてエルウィンに出会った。最初は同情から彼と暮らし始めた…つもりだった。
でもロードの言葉を借りれば、これは『模倣』なのだ。指摘されて初めて思い至ったけれど、ロードの言ったことは当たりだ。
あの人の気持ちが知りたくて……あの人を理解したくて、理解すれば答えが見つかりそうだから、アシュリーは彼と同じことがしようとした。
あの人と同じこと……人間と暮らすこと。
それがあの人をああも変えてしまったのなら、アシュリーも同じ選択をしてみようと思った。
その相手がたまたま出会った、同じ罪を背負ったエルウィンという人間だっただけ。優しさでも、同情ですらない……勝手な願望で、アシュリーはエルウィンに手を差し伸べた。
そんな冷たい手さえも、たった一つの温もりと信じて頼りしがみつくしかない幼子の気持ちなんて考えもしなかった。こうやって抱き締めるだけが、孤独だったエルウィンの精神にどんなに大きな影響を与えるかも知らなくて……ごめんと心の中でだけ謝った。
そのままもう寝てしまったのだろうかと思う程長い沈黙が流れた後、唐突にエルウィンが聞いてきた。
「ねぇ、アシュリーの好きな人なんて名前?」
「……イライアス」
イライアス…聞いた音をそのまま紡いで、エルウィンは唇を噛んだ。
死んでしまったならもう会うことは出来ないけれど、……殺したい程彼女が愛した人。
……それ程愛されている人。
その人に対して湧き上がった感情が何かに似ていた。確かに経験したことのある、でもそれがなんなのか探しているうちに眠くなり、エルウィンはそのことを記憶の奥底に沈めてしまった。