05、胸を締め付けるのは?
ロードの不安も判る。
アシュリーとロードに対して、否、二人の大切な人に対して人間は酷いことをした。
あの怒り、恨み、憎しみ、……どれ程の年月をかけても到底忘れることなど出来ない。今でも夢にうなされる程深く、この胸には喪失感が刻み込まれている。
「ロード、私だって人間の全部を許した訳じゃない……憎い部分も確かある」
「だったらっ…」
「だけど私はエルウィンを見捨てられない」
矛盾する科白を吐く自分を、涙が零れそうな目で睨み付けてくるロードを見つめ、アシュリーはエルウィンを助けるに至った事情の一部分、自分と彼の重なる部分を教えた。
「エルウィンは私と同じなんだ。それが間違ってるって判ってるのに自分を止められなくて、過ちを犯した。……けどエルウィンは今ならまだやり直せる。私とは違う道が選べる。だから私はエルウィンを助けたいって思った」
「でも相手は人間だ! あの時の、人間だ!! なんでアシュリーが罪滅ぼしに人間助けなきゃいけない訳!?」
アシュリーの冷静さとは逆に声を荒げるロードに、違う…ともう一度首を横に振る。
「エルウィンを育てるのは私の罪滅ぼしのためじゃない、私は許されたいなんて願って無い。………エルウィンに対するこれは、罪滅ぼしじゃなくて期待……かな? 私みたいにはならないで、私に出来なかったことをエルウィンにしてほしいって。……ねぇロード、私あの子に会って初めて、自分のためじゃなく、人のために何かしたいって思ったの。人間じゃない、エルウィンを助けたいと思ったの、この私が……」
そっと自分の胸を片手で押さえ、訴えかけるようにロードの紫紺の瞳を覗き込んでくるアシュリー。
そうされてやっと、ロードは彼女が言いたい事象を理解する。
魔族のアシュリーが助けたいのは、人間じゃない。
エルウィンを、助けたいと思った。
その事実を聞かされ、ロードは大きな目を更に大きく見開く。
それはロードが知っているアシュリーならば有り得ないこと。
アシュリーが…? あの、アシュリーが?
自分のためじゃなく、誰かのために?
冷酷冷徹、自分のためにわがままに、誰の迷惑も顧みなかったアシュリーが?
アシュリーにとってここでひっそりと暮らすことさえ、自分のためだった。
行かないでほしいと縋っても、自分には関係ないという一言で切り捨てて出て行くような女だった。
でも、何者にも囚われず、何事にも怯まず、己の生を己のためだけに生きられるアシュリーに、憧れた。
そんな、すべてを自分勝手に放り出すようなアシュリーが、エルウィンのために何かしたいと思った?
自分と似ているからエルウィンを助けたい?
エルウィンに期待してる?
有り得ない有り得ない。ロードの知っているアシュリーは、絶対にそんなことを思わない。
考えるロードの脳裏を、金色の髪が掠めた。
吃驚する程朗らかに笑っていた人を思い出す。
ああ……結局すべてはそこに行き着くのか?
すべてこの場所で、彼を想いながら過ごしていた所為?
嫉妬すら馬鹿らしくなる程絶対的にアシュリーの心に君臨する人の姿を思いながら、ロードは睫を伏せる。
彼の人への想いがアシュリーのすべてを形作る。
理解すると同時に、ロードはアシュリーの行動の根底にあるすべてを見抜く。
結局、やはりこれもいつものアシュリーの勝手だ。アシュリーは何も変わってない、ロードが知っている自分勝手でわがままで頑固な……アシュリーそのものだ。
だったら彼女は、ここでロードが何を言っても、かつてと変わらぬ頑固さで自分の意思を押し通す。先刻も言われた、これは相談ではなく決定事項だと。
アシュリーはエルウィンを育てることの許可をロードに求めている訳じゃない。これ以上何を言っても彼女の気持ちは変わらないだろう。
結局アシュリーは彼の人を追いかけてそちら側に行きたいのだ。
馬鹿らしい……アシュリー、お前は誤解してる。
それは決してエルウィンのためにじゃない。
「結局、アシュリーはイライアスと一緒になりたいだけじゃん」
悔しそうに呟いたロードの言葉を聞き、アシュリーの身体が揺れて同時に琥珀の瞳に戸惑いが滲んだ。
どういう意味だ? 問うてくる瞳がロードをも困らせる。
本当に自分の行動がエルウィンのために発生したものだと思ってたらしい。
だから真実を突き付けてやった。
「それってイライアスの模倣だよ……アシュリーの意思じゃない」
琥珀の瞳が見開かれ、呆然としたアシュリーは思わず開いた唇を片手で覆った。
指摘されてやっとそれに思い至ったのだろう。助けたい、そう思ったことすら、あの人を理解したいが故の行動で、人を思う気持ちじゃないと……。
突き付けられ戸惑うアシュリーを眺め、ロードは軽く笑った。
「本当に勝手ばっかりするんだね、アシュリーは……こっちの気持ちなんか何一つ判ってくれない。ねぇアシュリー、あのことでお前が罪悪感感じるのは勝手だ。自分が自分で許せないならそれもいい、でもね、そうやってアシュリーが苦しむとオレも苦しいんだ。全部自分一人が悪いんだって顔して、一人で全部背負い込んでるアシュリーを見てるの、オレも辛いんだ。なのに、結果がこれ? 馬鹿にするにも程があるよ……」
悔しくて苦しくて堪らなくて、顔が歪むのが自分でも判った。
浮かんだのは嘲笑。
勝手ばかりのアシュリーの、そこまでして想いを貫くその潔ささえ愛おしいと思う自身に向けて嘲笑を浮かべたロードは、鼻で笑いながら続けた。
「こんなに辛いのに、本当なんにも伝わらないんだね、アシュリーには……。いいよ、それが命令ならオレは従う、それがオレの努めだもん。エルウィンと暮らせばいい、もう何も言わない。勝手にすればいい」
ふいっと身を翻したロードはドアを開けて外に出て行く。
パタンと閉じたドアの内側に残されたアシュリーは、今ロードに指摘された事実を思い返し、ガタガタと震えながらその場にしゃがみ込んだ。
「そうなの…私は……だから…、エルウィンを助けたいと…思った?」
思いもしなかった指摘。
ただ純粋に同じ罪を抱えるエルウィンを助けたいと思ったのではない。それさえも己のためだけに……。
罪滅ぼしではないと言ったのは自分。本当にそんなものではなかったのだ……ただ自分は、自分に理解出来ない理由で置いていったあの人を追いかけるために、エルウィンをそばに置いてみようと思った。それだけなのだ……。
ロードの指摘は間違ってない。
……ここにいて、少しだけ優しくなれたような気がした。でも結局自分の本質は変わらない。いつまで経っても自分勝手で、自分のためだけに生きている。
愛しいのはいつでも自分だけ……。
そんな自分にそれでも従うロード。
「馬鹿か、私は……ロード…、ごめん……」
自身を抱いて天井を見上げたアシュリーは、己の罪深さに目眩を覚えた。
◆◆◆◆◆
アシュリーの家を黙って出たエルウィンは、森の中を歩いていた。
ここに連れてこられてから一人で出歩くのは初めてだ。
外に出るのは大抵アシュリーが薬草を摘みに行く時で、勉強ついでにエルウィンも一緒に出かけていた。山歩きは身体にもいい、無理のない程度歩いて、毒草と薬草を見分ける術を教えて貰った後、草の香りのする場所でアシュリーとお弁当を食べる生活は酷く気に入っていた。
清潔なベッドの上がすべてだったエルウィンには何もかもが珍しく、知識としてしか知らなかったものに触れられる生活は本当に楽しかった。家にいたら、そしてあの場で死んでいたら、知ることのなかった世界を見せてくれるアシュリーの存在が好きで、助けてくれたことに本当に感謝していた。
でも……それらすべて魔族の気紛れ。
ロードの言葉が耳の奥に残っている。
エルウィンの一生もアシュリーにとっては長い人生の一部分にすぎない。
そしてアシュリーにとってエルウィンと過ごすことは、エルウィンと『暮らす』ことではないのだ……『飼う』といったロードの言葉がショックでショックで、思わず家を飛び出してしまった。
幼いながらエルウィンにもプライドがある。魔族に飼われて生き延びるくらいなら野垂れ死んだ方がマシだ。
行く当てなどないまま、もう戻らない覚悟だけ決めて森を彷徨う。道なき森を小さな手と足で踏み分けて歩き続けた。
それにしても歩きにくい。アシュリーと来る時はいつもアシュリーが先に立って歩いて道を作ってくれた。危なそうな場所は抱き上げてくれて……思い出したエルウィンはそれを振り払うようにブルブルと頭を横に振る。
あれは優しさじゃない、あれも全部気紛れだった。
そんなものに縋って生き延びてどうする?
それこそウェンディに申し訳ないことじゃないか!!
ウェンディを思い出して、同時に蘇ったのは真後ろから自分を抱き締めた二本の腕。ギューッと強く抱いて、無理に感情を押し殺したような声が教えてくれた。
『死んで償える罪なんかない、それは逃げるのと同じなんの意味もない行為だ』
生きろと…妹を殺した自分に囁いてくれた言葉。
アシュリーの言葉は受け取る側次第でどうとでもなるものだと思う。
生きろと言われても、それが辛くて苦しい人生だと断定されたら拒否する人もいるんじゃないだろうか……そんな人生ならいらないと。
でも、そこで死を選んでしまったらアシュリーの言葉を肯定することになる。
『死』は逃げるのと同じなんの意味もない行為……償うためではない、楽になりたいから死んだ、そうとられても反論出来ない。
だから、エルウィンは生きていたかった。これから先の人生がどんなに辛いものでも、妹にあったはずの幸せをすべて奪った自分に相応しい罰だと思えばどんな苦難も受け入れられる。より困難な道を選んで全身でウェンディの命を奪った罪を償っていこうと決めた。
そしてその手助けをしてくれるのがアシュリーなら、耐えられると直感した。
確かに、アシュリーの中には優しさよりも冷たさの方が多くあると感じている。だけどアシュリーは今までエルウィンのそばにいた誰よりも多く、この身体に触れた。両親よりも多く抱き上げ、毎晩同じベッドで寝てくれた。
そして何より、アシュリーは、熱で苦しむエルウィンの側にいてくれた。
最初の頃は慣れない山歩きの度、疲れては発熱した。その度アシュリーはかいがいしく世話を焼いて、熱が下がれば良かったと喜んでくれた。
たとえそれが必要に迫られたからであったとしても、何気ない動作一つ一つが孤独に震えていた幼子の心をどれ程暖めてくれたか判らない。
抱き上げてくれる腕が当たり前にあるから甘える心地好さを知った。
アシュリーは子供のわがまますべてきいてくれる相手ではないけれど、ほんの些細な願いさえ聞き届けられなかったエルウィンにとって、アシュリーが叶えてくれる些細なこと一つ一つが大切で、……嬉しかった。
でもそれは魔族の気紛れ。
そして気付く。こんなに苦しい、こんなにショックな理由。
ロードに言われるまで『アシュリー』が魔族であることを忘れていた。アシュリーが余りに自分と変わらないからそんな垣根忘れていたのに……思い出した事実が、アシュリーと過ごした日々すべて否定する。アシュリーがエルウィンに与えてくれたものすべて嘘に近いものだったと訴える。
それが辛くてショックだった。
すべてを諦めたエルウィンがようやく見つけたものが手の平をすり抜けて霧散する。
結局、こんな自分に何かを掴む権利はなく……否、これがアシュリーの言った困難な人生の一部なのか? 一瞬浮き上がった身体が次の瞬間地面に叩き付けられるような苦痛、これを味わい続けるのが償いの生?
諦めるつもりはなかった、逃げと知って死を選ぶつもりもなかった。でも、これから先もこの繰り返しなのだとしたら……それは耐えられない!! そんなの辛すぎる!!
「嫌だ…そんなの、苦しすぎる。オレには、無理…もう嫌だぁ……」
ついに涙を落としてしゃがみ込んだエルウィンは両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。
泣いて泣いて、思い出すのは抱き付いて頬ずりした鮮やかなオレンジ色。
よしよしと頭を撫でてくれた白い手。
初めて自分を受け止めてくれた存在。
……でも、彼女は魔族だ!!
そう己に突き付けても突き付けても……思い出す。
抱き締めてくれた腕の力強さ、しがみついた胸の暖かさ、かけてくれた言葉の優しさ。
すべて気紛れだったとしても……声を上げて泣く自分が何を求めているのか充分知りながら、でももう戻れなくて、エルウィンはその場で泣き続けた。