03、幼子の告白
アシュリーが墓場で拾って来た子供を養うようになって数週間。
子供らしさに何処か欠けたエルウィンは、酷くあっさりとアシュリーの同居人になった。
見知らぬ他人と暮らしているのに、無意味に泣くことも癇癪を起こすこともなく。アシュリーの日常を乱さないで、ただそこにいるだけのエルウィンは時としてその存在を忘れてしまう程にひっそりと、森での生活に馴染んだ。
人間の子供とはこんなものなのだろうか?
絶対に違うと判っていて、何度も自問してしまう程、エルウィンは理想的な同居人だった。
人間界で魔族であることを隠し、人里離れた場所に住んでいるアシュリーが生業としているのは薬師。
魔族としての知識を生かし作った薬を街の薬屋や商店に卸して商売をしている。魔族のアシュリーに金銭は必要ないのだが、暇潰しに始めたこれが意外と好評で、ずっとそうやって暮らしてきた。
仕事部屋に籠っている間、エルウィンが何をしているのかは一切関知していない。連れてきたものの、彼のために自分の生活を変える気は更々なかった。
しかしエルウィンは一人にしている間、何かをしでかしてこちらにに迷惑をかけるようなことはなく。寧ろ、アシュリー側の気持ちを察しておとなしくしている印象もある。
やはり最初の印象どおり、エルウィンは子供らしからぬ子供だった。
そして彼は多分こちらが打ち明けてもいないのに、アシュリーが魔族であることにも気付いている。でも気付いているのに、恐れるどころか、それについて尋ねてもこない。
外見よりもずっと高そうな知能をふと疑問に思ったのは、エルウィンが初めてアシュリーの仕事部屋に足を踏み入れた日だった。
ノックに返事をするとひょこっとエルウィンが顔を覗かせた。
「どうかした?」
「暇なんだ。本とかある?」
「本? たってうちには子供が読むようなのは……」
「これでいいや、見ていい?」
エルウィンが見つけたのはアシュリーが床に山積みにしてある薬草関係の図鑑。仕事の関係上そういう本は新旧各種取り揃えてあって、エルウィンはその一番上に乗っていた一冊を取って床に座り込む。
図鑑なら絵を見るだけでも楽しいかもしれない。汚したり壊したりしないならいいか…とアシュリーは勝手にページを繰り始めたエルウィンを放っておいた。
しばらくアシュリーが作業する音とエルウィンがページを繰る音だけしていた。
そしてふとエルウィンの様子を確認したアシュリーは、その様に少なからず衝撃を受けた。
床に座りこんだエルウィンは広げた図鑑を眺めているのではない、真面目な視線で文字を追い、時間を掛けて読んでいた。
読めるの?
真っ先に浮かんだ疑問はそれ。
でも人間の子供のことなどよく知らない。
普通の子供はこのくらいの年で本が読めるものなのだろうか?
明確な答えをえられないまま、熱心に文字を追うエルウィンを見つめる。
それはかなり高度な難しい言い回しを多用した図鑑で、人生経験の少ない子供が理解出来る代物ではないと思う。それを理解しているかどうかはおいても、読むことが出来ること自体エルウィンが大人びて見える原因かもしれない。
エルウィンの熱意を妨げないさりげなさでアシュリーは声を掛けた。
「それ面白い?」
「うん、難しいけど…大体想像つくし」
「……そう」
ということは、内容もほぼ理解しているということだろう。
やはり頭のいい子だ。だが、今はそれが災いして本に熱中したエルウィンはアシュリーを欺くことを忘れている。何気なさを装ったまま質問を続けた。
「……エルウィンって幾つだっけ?」
「五歳」
「字、誰に教わったの?」
「母様と家庭教師の先生」
「ふうん、お母様の他に家族は?」
「父様といも……」
妹……閃いた単語を声に出した時、あの出来事が思考を過ぎった。それまですらすら応えていたエルウィンはハッとして顔を上げ、こちらを見ているアシュリーにやっと気付く。
「もう帰るとこ思い出した?」
わざと戯けて聞く。
だが、エルウィンは後悔という感情をいっぱいに両手で口許を覆ったまま、泣き出しそうな顔をしていた。
椅子を引いて立ち上がったアシュリーは、軽い靴音をさせてエルウィンに近寄る。そっと肩に手を掛け優しく問い掛けた。
「なんであんな場所に一人でいたのか教えてくれない?」
即座にエルウィンは首を横に振る。サラサラの黒い髪が音を立てて揺れた。
「別に聞いたからって無理に家に帰したりしないから……理由だけ教えて」
しかし、その言葉も同じ仕草で拒否された。激しく首を左右に振ったエルウィンの表情は俯いてしまっていて判らない。
溜め息が出た。そして、アシュリーは仕方なくそういう説得の仕方はするまいと思っていた事柄を聞かせ始める。
「エルウィンがいなくなってお父様もお母様も心配してるんじゃない? 私にはよく判らないけど、子供がいなくなったらどんな親でも心配するものでしょ?」
紡いだアシュリーの言葉のどれに反応したのか判らない、でも何かに反応してエルウィンは顔を上げた。黒い瞳が微かに潤んでアシュリーを見上げる。その目が更に多くの涙に濡れて、雫が零れ始めるのと同時に涙に濡れた声が告白した。
「心配なんかしてない……きっとオレは、憎まれてる」
「…憎む?」
「心配なんかされてない、オレはどうでもいい子で、しかも……オレは…」
アシュリーを見上げていた視線が自らの両手に落ちる。
アシュリーも同じように手の平を上に広げられたエルウィンの小さな手を見た。
震えている小さな手。
ギュッと強く拳を握って、エルウィンはあの夜、この手で掴んだ肉の感触を思い出した。
小さな…この手よりも小さな手をした、幼い温もり。
生気に満ち溢れた薔薇色の頬に触れた感触、押さえつけて、そして……。
「オレはこの手で妹を殺したんだ」
幼子の告白。
冗談で済ますには質が悪いそれを聞いて、アシュリーは咄嗟に反応出来なかった。
問い返すことも出来ない。
「そんなオレに生きる資格なんかない。だからあそこで死んで償うつもりだった……。だから父様達が心配してるはずないっ。きっとオレを憎んでる、大事なウェンディを殺したオレを恨んでっ、……だからっ、オレにはもう行くとこなんかないんだ!」
甲高い声で悲鳴のように叫び、泣きながら走り出そうとするエルウィンをアシュリーは咄嗟に腕を伸ばし捕らえた。
「待ってエルウィンっ、理由は? なんでそんな…」
逃げようとする腕を掴み引き寄せる。
アシュリーの細腕ですら引き戻せる小さな身体。
その小さな身体が抱えていたのは想像だにしなかった重くて大きな罪。
行かせたら罪を償おうとするこの子はきっと……それはさせられない。逃がさぬよう掴んだ腕を引き寄せて背中からエルウィンをギューッと抱き締めた。
それを振り払うように暴れながら、エルウィンは自棄になった言葉をぶつける。
「死ねばいいと思ったんだよ、ウェンディなんか!!」
身体を震わせて絞りだした悲鳴はそのまま嗚咽に変わった。泣くエルウィンを抱き締め、アシュリーはゆっくり首を横に振ってから愛らしい耳元に囁く。
「だから、…そう思った理由があるでしょう?」
潜めた吐息が鼓膜を震わせた途端、エルウィンの内で何かが溢れた。
フラッシュバックする過去。
ベッドに横たわって窓の外を眺めながら自らに聞かせ続けた。
今はこうでもいつか健康になれるから……そしたらなんだって出来るようになる。
いつかという日を信じて、苦い薬も辛い検査も我慢した。でもちっとも状態はよくならない。それをもどかしいと思っている大人達の感情が痛い程伝わってきても自分ではどうすることも出来ない。
どうしたら健康になれるのか、そんなことエルウィンが一番知りたい。
健康になりたいと誰よりも望んでいたのはエルウィン自身。
だって、健康にならなかったら……。
出来損ないのエルウィンには目もくれない父。
それとは正反対に優しくしてくれる母。
その母にだけは見捨てられぬよう精一杯いい子を演じた。けれど、いい子を演じるだけでは母の期待には応えられない。
そして生まれたウェンディ。
父にも母にも待望の健康な子供。
エルウィンは持たない光の世界の祝福をいっぱいに受けたウェンディ。
彼女はただ健康に生まれたというだけでエルウィンからすべてを奪った。
同じ兄妹なのに、ウェンディがすべて……。
「ウェンディはオレが欲しいもの全部持ってて……狡い、おんなじ兄妹なのに……なんでウェンディだけ…なんで…」
言葉にしたことのない羨望。
ずっとずっと心の中にあった嫉妬。
両親と共に歩くウェンディを見る度、醜い嫉妬心がどす黒く心を染め上げるのがとめられなかった。
でも……。
「判ってたのに………オレが健康じゃないのも、ウェンディが健康なのも、ウェンディの所為じゃない。ウェンディが悪い訳じゃないのに、憎くて………やっぱりオレは死ぬしかない………妹に、こんなこと思うオレなんて…死んじゃえばいい……」
オレなんか……繰り返し泣きじゃくるエルウィンを抱き締めていたアシュリーは、しばし呆然とした。
腕の中で泣く子になんと言葉を掛ければいいのか判らない。
彼が告白した犯した罪の重さは魔族であるアシュリーでも想像することが出来る。幼子の嫉妬心が引き起こした犯罪といえども、それは許されないことだ。
だけど……否定する言葉が胸を過ぎり、しっかりと首を横に振ったアシュリーはエルウィンを抱いていた腕を解いた。そしてエルウィンの身体を反転させ自分の膝に座らせて正面から黒い瞳を覗き込む。
「エルウィン、死んで償える罪なんかない、それは逃げるのと同じなんの意味もない行為だ。………本当に申し訳ないと思うなら、犯した罪を背負って苦しみながら生きなさい。楽な道があったとしてもより苦難の多い道を選んで、生きて苦しんで、……それが償いよ」
「生き…て?」
生き続けることは奪った命に申し訳ないことだと思っていた。
でも……そうじゃないのか?
殺人に対する償いは死ではないのか?
生きて償う方法もある?
瞬く度に涙が落ちる。涙で息が詰まって言葉を発せないエルウィンに向かってアシュリーは更に続けた。
「妹を殺したことは罪でも、エルウィンが死んで彼女が帰ってくる訳じゃない。だったらあなたは、彼女がするはずだったことを代わりになすために、これから二人分生きるの。彼女を殺した罪を背負って、辛くて苦しい人生を一人で。……それでも生き続けるの、償うために……」
言い終えて再びアシュリーはエルウィンを抱き締める。小さな彼をあやすように抱いて、ああ自分はなんて勝手な言葉を吐いているのだろうと思った。
それはエルウィンのために思い付いた言葉ではなく、アシュリーがずっと自分に言い聞かせてきた科白。
自分勝手な理由で愛しい人を殺した。
アシュリーが背負っている罪。
仕方なかった……そう言ってくれた人もいる。
でも……時が経てば経つ程、自分の身勝手さを思い知って、生まれてから一度もしたことのなかった『後悔』という情が沸き上がる。
けれどアシュリーは死ねない。
どんなに後悔しても、死んで楽になることは許されない。
だから、それも嫉妬だったのかもしれない。死んで楽になれるエルウィンが羨ましかったから、こんな言葉で引き止めたのかもしれない。
死にたくても死ねない苦しみ、私と同じ苦しみをお前も背負え。
そう思ってしまったのだろうか? こんな小さな子供に……。
自分が綴った言葉を反芻し、微かに痛みが過ぎる胸にしがみついていたエルウィンはやがて、大きな泣き声を上げた。
後悔と懺悔を含む大粒の涙を零して、声の限りに泣く。
響く泣き声に睫を伏せたアシュリーは、泣いているエルウィンをギュッと抱いて黒い髪に頬を擦り寄せた。
確かに罪は償うべきものだけど、最良の解決策が必ずしも『死』であるとは限らない。
ましてこの子はまだこんなに小さく、未来に光もあるだろう。自らの手で命を絶つには早すぎる。後悔さえ知らないバカならいざ知らず、小さな身体いっぱいに罪を抱え込み、苦しむことが出来るこの子なら生きる価値はきっとある。
だからエルウィンには、苦しくとも生きていればいつか許される日がくるかもしれない。
その可能性を信じて生かせてやろう。
そして……その日がくるまで、孤独な自分のそばにいてもらおう。
泣き続けるエルウィンを抱いて、アシュリーはうっすらと笑みを浮かべた。
◆◆◆◆◆
アシュリーの勝手な言葉をどう昇華させたのか、泣き終えたエルウィンは決して死んで償うなどという言葉は口にしなくなった。
そして償い生きるためにはどうしたらいいのか、エルウィンは自分の身体のことを告白した。魔力キャパシテーは大きくとも、魔法の負荷に耐えられない出来損ないの身体。これをなんとか出来なければ償いに生きることすら出来ない。
悩んだ末のエルウィンの告白に、アシュリーは軽く頷いた。
「確かに人間の薬じゃ限度があるでしょうねぇ。でもま、身体の方は私の薬でなんとでもなるから、やっぱりエルウィンの頑張り次第かな。私は手伝うだけ、後はあなたが何処まで戦えるかよ」
「自分がやったこと考えたら、どんなことだって耐えられる」
「……そうね」
見上げていたアシュリーの表情が僅かに曇る。呟いた声も何処か沈んでいた。
エルウィンは敏感に、その憂いが自分に向けられたものではないと気付く。しかしいくらエルウィンが聡い子供でも、人生経験の少ない彼に何十倍も長く生きているアシュリーの感情すべてを推し量る材料はなく、ただその表情だけを心に刻んで黙った。
アシュリーの憂いは数瞬で消え、後に残るのはただただ穏やかな薄笑み。
エルウィンの黒髪をくしゃくしゃ乱したアシュリーの顔を傾き始めた太陽が明るく照らす。白い肌が西日のオレンジに染まり、鮮やかな髪色と肌の境界を曖昧にした。
眩しくて目を細める。
「じゃ明日から私がエルウィンのためにいいクスリ調合しましょ。でも薬だけで健康になれる訳じゃないし、体力作りとかすることいっぱいあるから頑張りなさい」
「うん」
「近いうちにいい遊び相手も呼んであげる」
じゃあご飯にしましょうか、と立ち上がったアシュリーに抱き上げられ、落ちないように慌ててその首にしがみつく。
そういえば、誰かに抱き上げられたのはいつぶりだろう?
最後の記憶があやふやになるほど長く、こんな風に子供扱いされたことがなかった。
しかも自分を今大事に抱き抱えているのは魔族。
その証明であるような珍しいオレンジ色の髪を一房きゅっと握った。パサパサしてそうに見えた髪は意外にも柔らかく、しっとりと指に絡む。サラサラ指間を滑るのが気持ちよくていじっていたら呆れた声に叱られた。
「こーら、何悪戯してるの」
「綺麗な色だなと思って、花の色みたい」
「花? そんなこと言われたの初めて。目立つからあんまり好きじゃないんだけど」
「なんで? 凄い綺麗で羨ましい。窓の外で咲いてた花がこんな色で、綺麗だって毎日思ってたから」
ガラス越しに眺めるだけだった鮮やかな色。エルウィンには近付くことは出来ない、光の世界の花の色。ずっとずっとその色に触れたいと思ってた。
花ではないけれど、憧れ続けた美しい色を愛おしむように、エルウィンの手がアシュリーの髪を撫で続ける。そうされて怒って拒める程アシュリーも冷たくはなく、抱き上げていた間ずっとエルウィンのしたいようにさせてやった。
「花も空も景色もこれからいくらだって近付く機会はあるわよ」
「うん」
エルウィンを椅子の上に下ろしたアシュリーは、頷くエルウィンに笑い掛けて夕食の準備のためにキッチンに消える。
一人残されたエルウィンは、抱き締められていた余韻に浸るように自分の身体をギュッと両手で抱き、へへへ…と笑った。
太陽のような、花のような、鮮やかなオレンジ色を宿す美しい魔族。
どんな辛い日々が始まろうと彼女が一緒なら耐えられると思えた。