01、妹殺し
とある魔法国家の名門魔術師の長男として生まれたエルウィンは、『欠陥品』として有名だった。
エルウィンは魔術師として国家一の力を誇る父譲りの大きな魔力を持ちながら、それを操る肉体が出来損ないで、魔法を使う際の負荷に耐えられない生来の虚弱体質だった。
どんなに大きな魔力を持っていても、使えないのなら宝の持ち腐れ。エルウィンは一族の笑い者……否、『恥』として毎日を大勢の医師と一緒に送っていた。
病気がちのエルウィンの世界は清潔なベッドの上のみ。
それでも窓の外に広がる明るい世界に焦がれ、いつかその場所へ行くことを夢見ながら、苦い薬と辛い検査に耐えていた。
そんな彼の唯一の楽しみは勉強の時間。気分のいい日だけ家庭教師が来て授業が受けられた。
たくさん勉強して賢くなって、そしていつか健康になったら……儚い願いを胸にエルウィンなりに精一杯の努力をしていた。
それ狂わせた、最初の一打は母の妊娠。
兄弟が出来ることを喜べたのは束の間だった。
エルウィンが次々とかかる病気を母に移してはいけないと母との面会が出産までの間禁じられた。友達のいないエルウィンにとって、体調が落ち着いている時の母との逢背は何物にも変えがたい大切な時間だったのに……奪ったのは母の体内に宿った新しい生命。
でもその時は、約一年の時間を我慢して、そしてその間に健康になれれば母にも兄弟にも会えるからと自分を納得させられた。
そして翌年生まれたのは、両親の期待を裏切らない、健康な子だった。
『ウェンディ』と名付けられた妹が生まれた頃、エルウィンはまた大病を患い生死の境を彷徨っていた。
今度こそ死ぬのかもしれないと思いながら、それでも必死に死の淵で踏み止どまりこの世に帰還したエルウィンを待っていたのは、人の無情さ。
エルウィンの生還など誰一人喜んではいなかった。
目を開けた時、そこに望んでいた人の姿はなく……窓の外、光溢れる世界は新しく生まれた生命に対する祝福だけが溢れていた。
何故か涙が零れ、そしてそれは決してこの世界の戻れた喜びの涙では無かった。
淋しくて悲しくて、更にそれを募らせたのは何日経っても会いに来てくれない父と母の存在。
どうして会いに来てくれないの?
心の悲鳴の返答は、やがて聞こえ始めた楽しげな笑い声が教えてくれた。
エルウィンには行けない外の世界から聞こえた声に反応してそちらを見る。
季節の花が咲き乱れた庭を、父と母が歩いていた。
母の腕に抱かれているのは妹。
二人は嬉しそうに微笑んでいた。
エルウィンにあんな時間はなかった。生まれてすぐ大病を患い母から引き離されたエルウィンは、母乳すら与えられなかったと聞いている。
絶望が心を染め上げた。
あんな風に二人と一緒に庭を歩いたことなど、オレは一度もない!!
当たり前の母子の触れ合いすら出来なかった自分より、健康な妹の方が母は愛しいのだろうか?
オレはここにいるよ、早く会いにきて……。
父様、母様、オレにも会いにきて……。
願いも空しく、父母は毎日妹を連れて散歩していたが、その足がエルウィンの部屋に向くことはなく。衰弱しベッドから起き上がることも出来ないエルウィンに出来たのは、ただそれを眺めることだけ……。
美しい光の世界を見る度心に蟠っていったのは、それとは相反する闇色の感情だった。
大きな泣き声を上げただけで父と母の眼差しは彼女に向く。母の綺麗な手が涙を拭い、父の大きな手が頭を撫でる。
あんな風に父に触ってもらったことなど、物心ついてから一度もない。
父と母にとって自分はもう不必要な存在なのか?
否、不必要とすら思わない、存在さえ忘れられている。
エルウィンは、もう二人の中にはいない。
そうさせたのは……。
幼さ故の短絡的な発想。
自分の中に生まれてしまった闇を拭い去る方法を知らなかったエルウィンは、本能のままに理不尽な怒りを小さな生命に向けた。
やっと歩けるようになった深夜、そっと部屋を抜け出し妹の部屋へ。
父はいない、母は続きになっている寝室で休んでいるだろう。
広い部屋に置かれた豪奢なベビーベッドですやすやと眠る顔を憎らしく思いながら覗き込んだ。
青白いこけた頬とは違う、生命の輝きに満ちたふくふくとした柔らかな紅色の頬。
エルウィンの持たないものをすべて持って生まれた妹。
彼女はエルウィンが必死にえようとするものを、その愛くるしい動作一つで手に入れられる。
「兄妹なのに……オレも、父様と母様の子供なのに…なんで、お前だけ……」
いつかという日を信じ、苦い薬を飲んで、辛い検査にも耐えて、遊びたいのを我慢して、おとなしくベッドに座り続けるエルウィンの苦痛。
その生活の中で心の支えだった両親の愛をすべて奪った憎い妹。
「お前が生まれなかったら…お前なんか……」
呟きながらそっと手を伸ばす。
幼いエルウィンの手ですら覆える小さな顔。
口と鼻を覆ってギュッと押さえつけた。
至上の愛
誰かの悲鳴が響いた館を走り出て、必死に走る。
何処を目指しているのか自分でも判らない。ただ犯した過ちから逃れるように、闇を駆けて誰もいない場所を探して走った。
裸足の足の裏が傷つき血を流しても、走るのをやめられない。
泣きながら走り続けて、辿り着いたのは街外れの墓場。夜明け前の薄暗い墓場の隅、大樹の根元に倒れるように蹲る。
心臓が早鐘のように激しく胸を叩いていて苦しかった。
こんなに走ったのは生まれて初めてだ。
急な運動で欠陥品の身体が無理を訴えている。
苦しくて何度も咳き込んでもいつものように駆け付けてくる医師はいない。
……だったらきっと死ぬだろう。いや、こんな自分は死ぬべきだ。
夜露に冷えた自分の手を涙越しに見る。
この手で包んだ肉の温もり。あんな小さな生命を自分は……。
思い出した事実にまた泣き、苦しい呼吸の中紡いだ。
「神様、オレは…実の妹をこの手で……許してくれとは言いません、地獄に落としてください。償いを…させてください」
罪に相応しい罰を、未来永劫の苦しみを与えられるよう願いながら瞼を閉じた。
やがて浅く繰り返す呼吸の合間に、不気味な唸り声が聞こえ始めた。そっと目を開けると闇の中に爛々と輝く無数の瞳が見える。
墓場を住家とする獣の群れだろう。
……噛み付かれたら痛いだろう。もう少し待ってほしい、そしたら痛みも何も感じない死体になれるから。
生きたまま餌食になるのはやはり怖かった。だが、逃げる気力もない。
もうちょっと待てよ……と勝手なことを願いつつ、迫ってくる瞳を見つめる。
闇から現れた獣達はジリジリと距離を縮めてきて、先頭の一匹が体勢を低くし飛び掛かる構えをとる。
最期の時を覚悟した途端、突然視界を埋め尽くす閃光が弾けた。眩い光が網膜を焼く。眩しさに目を閉じ、光から顔を背けた。
そして耳には逃げ惑う獣達の悲鳴にも似た鳴き声が聞こえ……しばらくして周囲に静寂が戻る。
恐る恐る顔を上げた。
仄かな星明りだけが頼りの薄闇の中、それを遮る何かが立っていた。
それは人だった。
闇と同色の長いマントが風に揺れている。その隙間から現れた白い手がゆっくりこちらに伸ばされ、一瞬避けるように身を引いたが逃げられるはずもない。
腰を抱かれ軽々とその腕に抱き上げられた。
星明かりに照らすようにじっと見つめられる。おかげで、こちらからも抱き上げた人の姿がよく見えた。
淡く発光しているような闇に同化しない白い顔、それを縁取るのは鮮やかなオレンジ色の髪だった。そんな髪の色をした人、初めて見る。
こちらを見る瞳の色は暗さで判別出来ないけれど、視線はとても冷たかった。
心の奥底まで見透かしそうな、静かで冷えた瞳。怖かったが視線を逸らすことも出来ず見つめ合った。
やがて、こちらを観察するように見ていた人は睫を伏せてから微かに笑う。もう片方の手が伸びてきて、泥に汚れていた頬を拭ってくれた。
その目に先刻の冷たさはない。
「怪我、手当てしましょう」
言われ、その人が乗ってきた馬に乗せられる。後ろに跨がった人はパカパカ緩い速度で馬を歩かせ始めた。
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