八「その夜の異常な出来事」
八
小降りの雨と咲き乱れた彼岸花。こちらに背中を向けて佇む咲乃。
まただ。またこの夢だ。
俺は一歩一歩、咲乃に近づいていく。つい真後ろまで来たところで、彼女の肩に手を伸ばす。同時に、徐々に徐々に彼女がその顔をこちらへと……。
そのとき、俺の手がなにか柔らかい感触を捉えた。咲乃はいつの間にか身体の正面をこちらに向けており、俺の手首を掴んで、自分の乳房に押し付けていた。彼女は裸だった。
「白蓮様……」
俺は目を開けた。すぐ目の前にあったのは……風櫛ちゃんの顔だった。彼女は俺と同じ布団の上で俺と身体を向い合わせて寝ている。眠ってはおらず、俺を若干の上目遣いで見詰めていた。俺は右手首を掴まれていて、それは彼女の左の乳房に当てられている。控えめな大きさで、俺の掌の中に収まっている。彼女は襦袢の前を大きくはだけ、上半身が晒されていて……。
「白蓮様……」
成人もまだ迎えていない女子のものとは思えない、ぞっとするほど色っぽい声音で彼女は囁いた。俺はようやく気が付いて、弾かれたように身を起こした。彼女の身体から手をひいて、立ち上がりはしないまま布団を抜け出す。
「白蓮様……」
また、風櫛ちゃんはそう云った。彼女は布団の上で、片肘をつく格好で半ば身を起こす。その表情は熱でもあるかのように恍惚としていた。枕元の行灯が放つ弱弱しい明かりが、彼女の裸体を艶めかしく照らしている。俺は視線を逸らした。
「か、風櫛ちゃん、どういうつもりだ」
「どういうつもりって……なんのことですか」
「どうしてこんなところにいるんだ。これも花帯さんの指示か?」
人見知りの風櫛ちゃんに対する……いや、あり得ない。こんな滅茶苦茶な指示を出すわけがないじゃないか。
「ふふふ……」
風櫛ちゃんの笑い声が聞こえて、俺はまたどきりとさせられた。
「誰の指示でもないです。私は私の考えでこうしてるんです。白蓮様……」
「俺は白蓮じゃないっ」
思わず、また風櫛ちゃんに顔を向けてしまった。薄暗がりの中に裸体を晒した彼女は、這うようにこちらに擦り寄ってきていた。
「白蓮様です。私には分かりますよ。白蓮様、ようやっと戻ってきてくれたんですね。白蓮様なら、きっと来てくれると思ってました」
彼女は大きな勘違いをしている。俺が白蓮? どうしてそんな間違いを? もしかして彼女は酔っているのだろうか。酒かなにかを飲んで、それでこんな真似を……。
「私、ずっと待っていました。白蓮様のことを信じて、ずっと待っていました。ずっと。ずっとずっとずっとずっと……」
風櫛ちゃんは俺の首に両腕を絡め、しな垂れかかった。耳元に生温かい吐息がかかる。
「白蓮様……」
首筋に舌を這わせられ、俺は耐えきれず風櫛ちゃんを突き飛ばした。全身が粟立ち、嫌な汗が滲み出ていた。風櫛ちゃんは「きゃっ」と小さく叫んで後ろ向きに倒れた。彼女はそのまま起き上がらず、信じられないものでも見るように目を大きく見開いた。
「俺は白蓮じゃない。しっかりしてくれ、風櫛ちゃん」
「あ……あ、あ……」
風櫛ちゃんの唇がわなわなと震え始める。それから彼女は両手で顔を覆い、啜り泣きを始めてしまった。俺はまたどうしたら良いか分からず途方に暮れた。俺が彼女を泣かせてしまったのは分かるが、だが仕方ないだろう……ああする以外にどうしようもなかった。風櫛ちゃん……よりにもよってあの大人しくて恥ずかしがり屋の風櫛ちゃんに夜這いをかけられて、冷静な対応なんてできるわけがない。
……今は真夜中らしい。どうして風櫛ちゃんはこんなことを……。俺を白蓮と勘違いして? だが、そんな勘違いが起こり得るとは思えない。行灯の明かりがあるのだからひと目見れば俺と分かるはずだし、そもそもこの部屋を使っているのが俺だとは彼女も承知していたではないか。
「……ごめんね、風櫛ちゃん。突き飛ばしたりなんかして悪かったよ。怒ってないから、泣き止んでくれないかな?」
事情を聞くにしてもまずは泣き止ませなければならないと思い、俺は依然として啜り泣いている彼女の傍らまで移動した。襦袢が大きくはだけていて目のやり場に困る……。
「ほら風櫛ちゃん、起きて。服もちゃんと着直してさ」
やむを得ず、俺は彼女の背中に腕を回して起き上がらせ、もう片方の手で襦袢を肩まで戻してやった。彼女は啜り泣きを抑えようとはしている様子だが、両手は自分の顔を覆ったままである。
「良かったら教えてくれるかな? どうして……こういうことをしたのか」
「う……うう……ごめんなさい。ごめんなさい……白蓮様ぁ……」
「だから俺は白蓮じゃなくて、此処に滞在させてもらってる御津川紅郎だって」
云いながらも、今はこの勘違いを正すことはできないんじゃないかと考えていた。風櫛ちゃんは酔っているのかなんなのか、とにかく正常な状態ではないのだ。……その割には言動はともかくとして、話し方自体はいつもよりしっかりしているけれど……。
「私……喜んでほしかっただけなんです……白蓮様にご奉仕して、白蓮様に見てもらいたかっただけなんです……ゆ、許してください。許してください……」
俺は段々と風櫛ちゃんの様子が空恐ろしくなってきて、その後はなんの言葉も掛けられなかった。彼女の呟きは続いたが、なにを云っているのか全然聞き取れなくなっていた。
それでもやがて、彼女はいくらか落ち着いて、俺が支えていなくても座っていられるようになった。
「……失礼を、致しました」
彼女はぽつりとそう云った。俯いているので表情は窺えないものの、意気消沈しているのは間違いなかった。俺は「気にしなくていいよ。このことは誰にも云わないし」とだけ答えた。
「私、部屋に戻ります……」
「うん。本当に気にしないで大丈夫だからね」
風櫛ちゃんは若干よろけつつも立ち上がった。しかしそこでまた固まってしまった。
「どうしたの?」
「……あの、戸が……」
風櫛ちゃんの視線の先は、廊下に出る戸だった。その戸は半分だけ開いていた。
「あの戸はちゃんと閉めたのに……」
彼女の戦慄の理由が俺にも分かった。今の一部始終は誰かに見られていたのだ。




