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七「満月の下、転生の泉にて」

   七


 風呂から上がった俺は咲乃……いや、天波に会うことにした。彼女の記憶が回復しないうちは天波と呼ぶべきだろう。

 自分の部屋の前を通過すると、目の前にはあの開かずの間。回廊の四隅には行灯が据え置かれ、その戸を妖しく浮かび上がらせている。

 俺はこの戸が無性に気になっていた。この向こうには、なにがあるのだろう。詮索しようとしたとき、泡月ちゃんはあからさまに誤魔化していた。ただの物置でないのは確かだ。

 戸に手を掛けてみたが、やはり錠が掛かっていて開けられない。

 俺は断念して右手にしばらく進み、二階へと通じる階段を上った。小窓から差し込む月明かりが通路の中を蒼く染めている。

 天波の部屋の前までやって来て、戸を軽く二度叩いた。

「昼に一度訪れた……御津川紅郎です。這入ってもいいでしょうか」

 返事は来ない。まだ怖がられているのだろうか。それとも既に就寝しているのか……。いずれにせよ、許しがない以上は這入るつもりはない。強引な手に打って出るのは余計に彼女の心を閉ざさせてしまうだけだ。

 もう一度呼び掛けて駄目だったら今日は諦めよう……そう思って口を開きかけたところで、中から「どうぞ」と声がした。四年間ずっと、もう二度と聞けないだろうと思い続けていた、愛おしい咲乃の声……。

 戸を開くと、部屋の右端――御簾から一歩出た位置に天波が立っていた。白い長襦袢姿で、顔がほんのりと上気している。髪も湿っている感じがするから、彼女も風呂上がりなのだろう。おそらく二階にもどこかに風呂場があるのだ。

「昼間はすみません。もう今は頭を冷やしたので、安心してください」

「分かってます。悪い人ではなさそうなので」

 天波は微笑んだ。柔和(にゅうわ)な笑み……その上品さは咲乃とはやや印象が異なる。記憶を失ったことによって、性格や振る舞いも変化しているのか。胸の奥がちくりと痛んだが、今は悲嘆に暮れるときではない。

「花帯さんから貴女のことを聞きました。貴女は四年前に此処で生まれ、それから花帯さん達に崇められていると。これは本当の話なんでしょうか?」

 天波はすっと俺から視線を外すと、俺の方に身体の側面を向けてゆっくりと歩き始めた。

「私にも分かりません。そんなことがあり得るのかどうか。でも私の人としての記憶が四年前に此処から始まっているのは事実です」

 しかし完全に信じきっているわけでもないようだ。俺は少し安心した。その言葉から推察するに、彼女は咲乃としての思い出を忘却しているだけで、知識や良識まで失ってはいないのだろう。理性的な考え方ができるならば、まだ彼女に咲乃としての自分を思い出させる余地はある。

「ずっと此処に留まっているのは、花帯さん達の頼みですか?」

「それもありますけど、私の意志でもあります。此処の皆さんは良くしてくれますし、私には此処を出てもどうすればいいのか分からないので」

 天波は窓辺で立ち止まり、外の景色を眺める。この部屋の左側は庭に面している。

「私はあそこから生まれたと聞きます」

「……転生の泉、ですか?」

「はい」

 俺も天波のいる窓辺に近づき、その転生の泉とやらを見てみようとした。すると天波がこちらを向いて「裏庭に出ますか?」と誘ってきた。俺は当然、それに乗った。

 天波と彼女に続く俺は一旦部屋を出て、右に少し進んだ後に硝子戸から裏庭へ出た。沓脱石の上に並べられていた草履を履く。外はもうすっかり夜だ。ひんやりとした外気が心地良い。

「そろそろ夏も終わりますね」

 天波のその言葉はどこか切なげだった。

 裏庭は森に囲まれ、名も知れぬ虫の声がうるさ過ぎない程度に響いている。山だから空気が澄んでいるのだろう、満天の星空の下、この場所は一種幻想的な雰囲気に満ちていた。

「あれが、転生の泉ですか?」

 前方に大きな池が広がっている。外周は歪な形をしており、人工的につくられたものとは違うらしい。テニスコートが丸々ひとつ入るくらいの大きさで、それをおよそ二等分するように細い橋が掛かっている。

「そうです」

「……でも泉じゃなくて池ですよ」

「転生の泉という呼び名は、私が此処から生まれてきたという四年前に付けられたものと聞きます。それ以前は皆さん、三途(さんず)の池と呼んでいたそうです」

「三途の池……。三途の川からきている名前とは分かりますけど」

 ではなぜそれが泉と改められたのか。……それはつまり、天波が此処から〈湧いた〉からなのだろう。水ではなく、天波が。

 池の外周には小さな石柱が何本も建てられており、それらには注連縄が渡されて池を取り囲んでいる。この転生の泉は神域のようなものなのだ。天波はそこから生まれ、ゆえに花帯さん達は彼女を崇めている。

 もっとも、こんな池から人が出てくるなんてあるわけがない。すべては花帯さん達のでっち上げだ。実際は……四年前、咲乃は山で遭難した挙句に此処に辿り着いた。山を彷徨う最中に彼女は憔悴し、記憶喪失に陥っていた。花帯さん達はその咲乃に嘘を吹き込み、天波という名を与え、信仰の対象として此処から出て行かないようにした。

 天波が白蓮の代わりなのかと訊いても花帯さんは否定した。が、そうに決まっている。本尊を失った彼女達は天波を新たな本尊として、自分達の存在意義を保とうと考えたのだ。

 俺の恋人は山の中で生死の境を彷徨い、記憶を失い、そしてこんな場所で生き仏に祀り上げられている。……こんな稀代(きだい)な話が他にあるだろうか。

 俺は天を仰ぎ、嘆息した。

「どうしたんですか?」

「ああ、いえ……。天波さんは白蓮という人物について、どのくらい知っていますか?」

「名前は何度か聞いたことがありますけど、詳しくは知りません」

 花帯さん達はあえて伏せているのだろう。白蓮の代わりである天波に白蓮のことを話すのは得策でない。

「もうこの屋敷にはいないそうですね。天波さんが来た……その四年前には、既に彼は出て行った後だったんでしょう?」

 だが天波はちょっと首を傾げる仕草をした。

「……それなんですけど、少し妙なんです。私はそのかたにお会いしたことは一度もないんですけど、皆さんのお話では、白蓮というかたはずっとこの屋敷にいらっしゃると」

「え、それは……泡月ちゃんもそう云っていましたか?」

「はい。皆さん、そう云っています」

 どういうことだ? 花帯さんだけなら分かるが、泡月ちゃんまで白蓮が此処にいると云ったなんて。彼女は俺に対しては白蓮は出て行ったと話したのに。……あれは口が滑ったのだろうか?

 俺が考え込んでしまって間が空いたために、俺と天波はしばし無言になってしまった。これじゃあいけないと話題を探していると天波が、

「紅郎さんは、私が誰かに似ていると云ってましたよね。紅郎さんの探している誰かに。……そのお話を聞かせてもらえませんか?」

 彼女の方からそう訊いてくれるとは。俺は自然、襦袢の襟元を正した。

「咲乃という、俺の恋人です。彼女は四年前にこの山で行方不明になりました」

「四年前……」

「はい。俺と咲乃は麓の村にやって来て、ふとした思い付きで山の中に這入ったんです。でもそこで俺と彼女ははぐれてしまって……俺はどうにか村まで帰り着くことができたんですが、彼女はそれきり誰にも見つけられず……」

「……私がその咲乃さんに似ているんですね」

 天波は俺の方に顔を向けた。少しの驚きと少しの戸惑いが入り混じった表情。瞳が潤んでいるのはいつものことだ。右目の下の泣きぼくろが印象的で……。

「似てるどころでは、ありませんよ……」

 俺は自嘲気味な口調になってしまった。つい目と鼻の先に天波が……咲乃がいる。記憶を失った彼女は穏やかで大人びていて、それは四年の歳月が経ってひとりの女性として成長したふうにも映る……だが、その顔は四年前から一切変わっていないのだ。

 俺はこの四年間、後悔し続けてきた。自分を責め続けてきた。嘆き悲しみ、何度自殺してしまおうとしたか知れない。咲乃は俺の生きる目的そのものだった。

 でも咲乃は生きていた。夢の中で俺を呼んでくれた。それで俺は彼女と同じように此処まで辿り着けたのだ。それなのに彼女は咲乃としての自分を失っている。こんなに近くにいるのに、俺と彼女の距離はどうしようもなく離れてしまっている。

 視界の中の咲乃が滲んだ。俺は顔を背けた。泣いているのを見られたくなかった。

「ごめん……これ以上は、もう……」

「紅郎さん……」

 俺は唇を噛み、泣き声が洩れるのを必死に抑えた。心配そうに俺の名前を呼ぶ天波。だがその声が心配そうであればあるほど、彼女は咲乃とは乖離(かいり)してしまうのだ。俺の心中は複雑極まりなかった。彼女の生存を喜ぶ気持ちと、彼女の記憶喪失を嘆く気持ちとが溶け合い、ただただ遣りきれなかった。

「紅郎さん、私、紅郎さんのお話を信じます」

 その言葉に、俺は顔を上げた。天波は真摯に俺を見詰めていた。

「実感は、ごめんなさい……まだ全然湧きませんけど、でも私がその咲乃さんだというのは間違いないみたいです。私がその……紅郎さんの恋人であったというのは」

「天波さん……」

「私には此処に来る以前の記憶がありません。でも転生の泉から生まれたという花帯さん達のお話には半信半疑でした。だから紅郎さんが、記憶を失う前の私が何者であったかを教えてくれて、なんと云いますか、とても心を動かされたんです」

 俺はまた目頭が熱くなった。この胸の高鳴りはしかし、全然嫌なものではない。俺の話に天波がそう応えてくれて、俺もまた感動していた。

「でも混乱もしているんです。だから、すぐになにか決断をするというのは……まだ待ってください」

「待ちます……いくらでも待ちますよ」

 俺の答えを聞いて、天波は微笑んだ。美しい……美しい微笑みだ。

「私、紅郎さんをもっと知りたいです。そうしていつか、すべてを思い出したいとも思います。それがいつになるかは分かりませんけど、少しずつそうなっていけたら良いなって……。だから紅郎さん、私にまた色々なお話を聞かせてください」

「分かりました。俺も精一杯、貴女が咲乃としての自分を思い出せるように努めます」

 天波はまた穏やかに微笑んで、「では、今晩はこれで戻りましょうか」と云った。

「……そうですね」

 名残惜しいが、彼女の云うとおり、このあたりで引き上げるのが一番だろう。彼女が混乱しているのは間違いなく、これ以上話を続けることは俺にとっても彼女にとってもあまり良い効果を生まない。ひとまず時間をおき、また明日からじっくりと話していけばいいのだ。

 屋敷の方に身体を向けると、空に浮かんだ見事な満月が目に入った。どんな場所にいたって、月はああやって光を降り注いでくれている。ならきっと大丈夫だ。

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