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五、六「彼岸への道を失った子ら」

   五


 部屋で頭を抱えていると、琴の音が聞こえてきた。隣の琴の間からだろう。琴に詳しくはないが、繊細な音色だと感じた。

 気付けば、部屋の中は薄暗くなっていた。もう陽が傾き始める時分だ。窓からは中庭と屋敷の向かい、その先に茜色に染まった東の空が見える。

 俺はそのままボーッと琴の音に聞き惚れていたが、ふと思い立って部屋を出た。琴の間の戸を開けると、奥の八畳間に綿鳥さんが座って琴を爪弾いていた。今度は消えてしまったりしないだろう。

「お邪魔してすみません。此処にしばらく滞在させていただく御津川紅郎ですけど、花帯さんから聞いていますか?」

 訊ねると、綿鳥さんは琴の演奏をやめて顔を上げた。やはり所作(しょさ)のひとつひとつが周囲に溶け込んでいるかのようで、見ていて目が滑る感じがする。俺と目が合うと、彼女はこれまた注視していなければ見逃してしまいそうな自然さで小さく頷いた。

「這入っていいですか?」

 また頷く綿鳥さん。ひと言も発してくれないので若干心配になりながらも、俺は敷居のあたりまで進んで腰を下ろした。

「琴、お上手ですね」

不歌舞観聴(ふかぶかんちょう)

「え……?」

 泡月ちゃんが云うところの『透き通る』ような声音で、綿鳥さんは謎の単語を口にした。

「歌、音楽、踊り等を鑑賞してはいけません。琴を弾くのもまた然りです」

「……どういうことでしょう?」

「仏教徒には守らなければならない戒律があります。宗派によって異なりはありますが、まず在家の信者にも同様に課せられる基本的なものが五戒です」

 唐突にそんな話を始められて俺は面食らったが、興味深いので聞いていることにした。

「不殺生。不偸盗(ふちゅうとう)。不邪淫。不妄語。不飲酒。すなわち、生き物を殺してはならない、他者のものを盗んではならない、みだりに性行為をしてはならない、故意に嘘をついてはならない、酒を飲んではならない、ということです」

「なるほど……」

「出家した者はこれに加え、さらに多くの戒律を課せられます。不歌舞観聴とはそのうちのひとつです」

「え、じゃあ綿鳥さんはなぜ……」

 すらすらと語るのでなにかと思えば、とんでもない告白ではないか。出家した身でありながら、こんなに堂々と破戒しているなんて。しかもそれを、どうして初対面の俺に打ち明ける?

 だが綿鳥さんはうっすらと微笑むのみだった。綺麗な微笑みだが……しかし俺としては意味が分からない。そう云えば泡月ちゃんは、綿鳥さんが話す事柄は難しくて分からないと云っていた……ただこれは、難解と云うよりは不可解……。

「綿鳥さんも尼僧さんなんですよね?」

「そうですね。私もまた、此処に出家しました」

 じゃあ、どうして……。

「ああ、さっき戒律は宗派によって異なると云ってましたよね。白蓮さんは琴に関しては禁じていないということですか」

 俺はてっきり疑問が氷塊した気になったが、綿鳥さんは「さあ、どうでしょう」とはぐらかすだけだった。俺は益々、混乱してしまう。

「……綿鳥さん達の修行とは、どういうものなんですか? 法華経を教典としていると泡月ちゃんから聞いたんですけど、ならあの南無妙法蓮華経と唱える……」

「その題目を繰り返すことで成仏できる、というのは日蓮宗の教えです。私達のものとは異なります」

「……すみません、にわかをやってしまって」

「万善同期教」

「……なんですか、それは」

「法華経はすべての優れた思想が集約帰一されている教えと云われています。一条妙法……小乗と大乗を止揚(しよう)して最高の統一的真理を説いた代表的大乗経典です。そして大乗仏教は、他にも根本仏教、原始仏教、部派仏教、中国仏教、日本仏教、南方仏教、密教、ラマ教などと数ある中でまさに本流とされています」

 話が専門的になってさらに着いていけなくなってきたところで、廊下の方から「あの、す、すみません」と微かな声が聞こえてきた。振り返るが、這入ってくるときに戸を閉めたため、廊下は見られない。今のは風櫛ちゃんの声ではないだろうか。俺の部屋の前あたりで発したらしく聞こえたが……。

「あの、綿鳥さん」

 顔を前に戻した俺は「わっ」と驚くことになった。そこにはもう綿鳥さんの姿はなかった。琴だけがポツンと残されている。今の一瞬で彼女は消え失せてしまったのだ。部屋中を見回しても、どこにもいない。

 窓から出て行ったのか? それしか考えられないけれど、どうしてそんな奇妙な真似をするのかが分からない。俺は半分開いている窓まで歩み寄り、中庭を覗いた。しかし薄暗いその中庭に、既に彼女はいなかった。

 廊下の方からまた風櫛ちゃんの「す、すみません……いらっしゃらないんでしょうか……」という弱弱しい声が聞こえてくる。俺は首を傾げつつも、廊下に出ることにした。

 昼に会ったときも綿鳥さんはふっと消えるようにいなくなってしまった……まるで幽霊みたいだ。存在感が希薄で、ともすれば現実味がないようにすら感じられる彼女なので、これはただの比喩では片付けられない気さえしてくる。

 加えて、やはり俺は彼女が誰かに似ているように思えて仕方がなかった。咲乃と遭遇したことで綿鳥さんの優先順位みたいなものは俺の中で下がっていたが、それでも、彼女についても詳しく知る必要があるかも知れない……。

 廊下では案の定、風櫛ちゃんが俺の部屋の前でもじもじしていた。

「あっ……あの、花帯様に云われて、夕餉をお持ちしたんですけど……」

 彼女は夕餉の乗った盆を手に持っている。まだ夕方だが、電気の通っていないこの彼岸邸ではこのくらいの時間が通常なのだろう。

「ありがとう。中に這入ってよ」

「はっ、はい」

 両手の塞がっている彼女の代わりに戸を開けてやると、彼女はわずかにはにかんだ。緊張はしているようだが、はじめに会ったときの怯えみたいなものはなくなっている。おそらく花帯さんが彼女にこの役を預けたのはその辺が理由だろう。人見知りの克服……困っている人を助けることを信条のひとつとする仏教徒にとっては、大事な修行に違いない。

 盆を卓袱台に置いた後、風櫛ちゃんは部屋の隅の方へそそくさと移動し、そこに正座して縮こまった。……本当はまだ怖がっているのかも分からない。

「風櫛ちゃん達はもう済ませたの?」

 食べながら訊いてみると、彼女は「あ、えっと、い、いえ……」と舌をもつれさせた。

「私達は、あの、午前中しか食事を取ってはいけないので……」

 例の戒律というやつか。俺はあることを思い付いて、彼女にも「風櫛ちゃん達の修行っていうのは、どんなことをするの?」と問うた。

「修行、ですか……えっと、私達が基本としているのは、六波羅蜜(ろくはらみつ)ですけど……」

「六波羅蜜?」

 訊き返すと、彼女はまた「は、はいっ……」と声を上擦らせる。彼女の人見知りは重度のようだ。

「到彼岸とも云いまして……彼岸に到達するための六種の実戦徳目、です」

「その六種って云うのは?」

「えっと、布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進、禅定(ぜんじょう)、智慧です……。施して、戒めて、耐え忍んで、励んで、鎮まって……悟る」

「具体的には?」

「えっ、ぐ、具体的に、ですか?」

 風櫛ちゃんは膝の上で組んだ両手をもじもじと絡ませながら「人助けをしたり、戒律を守ったり……あの……」としばらく呟いていたが、やがて俯いて黙り込んでしまった。

 俺は確証を得た。この彼岸邸の尼僧達は、どうすればいいのか分かっていないのだ。

 泡月ちゃんの言が真実だったのである。此処にはもう、白蓮がいない。経緯は知らないが、彼は風櫛ちゃん達を置いて出て行ってしまった。だから指導者を失った彼女達は、自分らのすべきことが分からなくなってしまったのだ。

 さっき綿鳥さんが示唆(しさ)したのはこのことだったのだろう。守るべき戒律が分からず、もしかしたら禁じられているかも知れない琴を爪弾いていた彼女。……時間差で意味が理解できるようになるなんて、泡月ちゃんの云うとおり、本当に難しい話し方をする人だ。

「ごめんね、風櫛ちゃん。たくさん質問しちゃって。答えてくれて助かったよ」

「……そ、そうですか?」

 ちらと不安そうに俺の方を窺う彼女。「ああ」と頷いて見せると、彼女はほっとしたように口元を(ほころ)ばせた。

「食べ終わったら自分で台所まで持って行くから、風櫛ちゃんは戻っていいよ。本当にありがとうね」

「は、はい……分かりました……」

 風櫛ちゃんは恐縮そうに身体を丸めたまま部屋を出て行こうとしたが、戸のところで立ち止まると、半分だけこちらに振り向いた。

「あ、あの……」

「なに?」

「……もう一度、お聞かせしてくれませんか? 私のおかげで助かった、って……」

 よく分からない頼みを俺は怪訝(けげん)に思ったが、別に大したことではないので「風櫛ちゃんのおかげで助かったよ。ありがとう」と云った。すると彼女はさっと背を向けて、逃げるように部屋を出て行ってしまった。今……笑っていたか?

 風櫛ちゃんも風櫛ちゃんで、なんだか不思議な子だ。


   六


 夕餉を食べ終えた俺が盆を下げて台所を出ると、廊下で花帯さんと鉢合(はちあ)わせた。回廊の角に据え置かれた行灯が照らすその姿は、どうやら風呂上がりらしい。これから彼女を探そうとしていたところだったので間が良かった。

「花帯さん、お聞きしたいことがあります」

「なんでしょうか」

 俺は単刀直入に切り出した。

「この屋敷には、白蓮なんて人はもういないんですね?」

 花帯さんの目がわずかに見開かれる。しかしそれ以上の動揺を見せないのはさすがと云えた。彼女は落ち着き払った口調で、

「いえ、白蓮様はこの屋敷にいらっしゃいますよ」

「泡月ちゃんから聞いたんですよ。白蓮さんは貴女達を置いて出て行ってしまったと」

 花帯さんは眉をひそめた。泡月ちゃんの迂闊(うかつ)な言動を恨めしく思っているのだろう。

「白蓮さんがいなくなって、貴女達は尼僧として修業に励もうにも、勝手が分からなくなってしまったんじゃありませんか? 中途半端な知識だけが残って、貴女達は立ち往生している」

 彼女は答えられないようだった。図星なのだ。一時的に優位に立った今ならば訊ける……。俺は本命の質問をぶつけることにした。

「二階の奥の部屋にいる天波さんとは何者ですか? 貴女達四人とは少し事情が異なるみたいですよね?」

 今度こそ花帯さんは狼狽を露わにした。

「紅郎様、どうして天波様のことを……」

「すみません。勝手ながら、彼女に会って来たんです。貴女は此処にいる尼僧は四人だと云いました……なら彼女はなんですか? どうしてひとりだけ、二階のあんな部屋を与えられているんです?」

 訊ねながらも、俺は頭の中で考えを進める。花帯さんは今、天波様と様づけで呼んだ。だがおそらく、花帯さんの方が年上のはずだ。つまり咲乃は彼女よりも階級が上なのだ。

「……お話ししましょう。隠し立てすることでもありませんので」

 花帯さんはもう冷静さを取り戻していた。しかしこの場は既に俺の勝利である。

「天波様は転生の泉から湧いて現れたのです」

「転生の泉?」

 耳慣れない単語が登場し、俺は鸚鵡返(おうむがえ)しにする。

「まだご覧になってはいませんか? 転生の泉は二階の裏庭にあります。天波様は四年前、そこから出てこられたのです」

 ……とても信じられない話だが、彼女の表情は真剣そのものだ。四年前という点も、いちおうは咲乃の行方不明と一致している。

「それが、天波様が誕生されたときでした。天波様はあのお姿でお生まれになったのです。以来、私共は天波様を信奉し、そのお世話をさせていただいております」

 信奉……。俺は唖然とした。要するに、咲乃は此処で神様のような存在に祀り上げられているということではないか。泉から湧いて生まれただなんて、あり得ない縁起を押し付けられて……。

「さく……いえ、天波さんは白蓮さんの代わりなんですか? 此処を出て行った白蓮さんの代わりに、貴女達は彼女を本尊として……」

「それは違います」

 花帯さんはすぐさま否定した。その視線に一瞬凄みが宿り、俺はたじろいだ。

「……失礼しました。感情的になってしまい、恥じ入るばかりです。……ですが紅郎様、どうか信じてください。私共は決して天波様を白蓮様の代替(だいたい)として用いるような真似は致しておりません。そもそも白蓮様に代わる方など、この世に存在しないのですから」

「いえ……俺の方こそ、無遠慮な質問をしてしまって……」

 今はこれ以上訊かない方が良いと、俺は判断した。花帯さんとの間に亀裂が生まれるようなことがあれば、滞在するにあたって大きな弊害となる。焦って事を仕損じるのだけは避けなければならない。

「……風呂をお借りしてもいいですか?」

「ええ、もちろんです。ご用意してありますので、どうぞお入りください」

「ありがとうございます」

 俺は軽く頭を下げて、風呂場の方へ歩き始めた。すれ違った直後、花帯さんが「紅郎様、もうひとつだけ云わせてください」と云った。

 振り向いた俺に、彼女はどこか沈痛な面持ちで述べた。

「白蓮様はこの屋敷にいらっしゃいます。これは本当のことなのです」

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