四「二階の最奥に棲む者」
四
崖の上へと続く階段は、こうして下に立ってみるとなかなか急勾配だ。階段通路の左右の壁には小窓が等間隔で続いており、そう暗くはない。
泡月ちゃんが去った後、俺は辺りを憚りながら此処に戻ってきた。
中庭に面した硝子戸から花帯さんがまだ屋根の上で作業しているのを確認し、もう一度周囲に視線を巡らせてから、忍び足で上り始める。それでも木の軋むような音が微かにしたが、この程度ならば聞かれる心配はないだろう。
階段を上り終えるとまず、横に長い板の間に出た。ずっと屋内なので崖の上に着いたという感じはあまりしないが、此処が離れではなく二階と呼ばれているのはそのあたりが所以か。正面は廊下が奥へと伸びており、この板の間は第二の玄関と云ったていである。
彼岸邸は寺院ではないが、この二階が本殿のような扱いなのだろう。心なしか、一階と比べて厳粛とした空気が漂っている。自然、緊張感が高まる。
耳を澄ませながら、俺は廊下を進んだ。左右には戸がまばらに並んでいる。すべてを検めるつもりはないが適当にひとつを開けてみたところ、しばし呆気に取らされた。右手の部屋だったが、中には大小様々な人形が犇めていた。三方を階段状の壇が取り囲んでいて、無数の人形はその上に並べられているのももちろんだが、床にも足の踏み場がないほど、さらに壁にも多くが……あれは打ちつけられているのか?
肝の冷える思いがして戸を閉めた俺は、すぐ左手にあった戸も開けてみた。しかしそこはただの納戸で肩透かしを食らうかたちとなった。
廊下は突き当たりでT字になっていた。
右はしばらく進んだ後に左右がどちらも硝子戸となって続き、その先には両開きの木の扉が見えている。離れに通じているのか? いや、その外観が此処からでも少しだけ窺えるが、どうやらあそこが例の御堂らしい。
左はしばらく進んだ後に右側だけ硝子戸となり、その先には特に変哲のない戸が見えているのみだ。
それから正面。両引き戸がある。二枚の引き戸を左右に開いて開閉するものだ。他の戸と差別化がされている点、二階の突き当たり中央という点から、俺は此処が白蓮の部屋であると悟った。
――白蓮様は私達を置いて、出て行っちゃったから。
先刻の泡月ちゃんの言葉が頭をよぎる。結局あの後、俺が混乱しているうちに彼女は去っていってしまった。
花帯さんはこの屋敷に白蓮がいて、自分達の指導者であり、また彼こそが本尊なのだと云った。なのに泡月ちゃんは彼が既に出て行ってしまって此処にはいないと述べた。どちらが本当なのか……。普通に考えれば、花帯さんの方が本当で、泡月ちゃんは俺をからかったのだろう。だが泡月ちゃんの様子はとてもそんなふうではなく、深刻そうであった。花帯さんの方が……意図は分からないけれど……俺を騙している可能性だってある。
どうしよう、と思案する。目の前にあるこの戸の先……泡月ちゃんの言が本当なら、此処はかつて白蓮がいた部屋であり、今は無人。だが花帯さんの方を信じるなら、今も中に白蓮がいる。その場合、この戸を開けば俺は彼に謁見することになる。
ひとまず花帯さんの方を信じるとして(白蓮が既にいない場合は問題が生じないからだ)、今この場で彼に会ってしまってもいいのだろうか。しばらく滞在することが決まっている以上、黙っていても花帯さんの方から引き合わせてくれそう……あるいは白蓮から俺に会おうとしそうとも思う。生き仏と云っても、花帯さんの話から想像するに、白蓮は偉そうにふんぞり返って俗人との面会なんて一切しないというタイプではなさそうだ。神ではなく仏。悟りを開いた菩薩様とのことだから……。
だがそうなると、こんなふうに特別な部屋にいるのはおかしくないだろうか? 花帯さん達の質素な暮らしぶりを思えば、修行を完成させたからと云って贅沢をしていいなんてことはないはずだ。微妙な食い違い。矛盾を感じる。
もしかして、俺は早とちりをしたのかも知れない。此処はなんらかの宗教的儀礼の際に用いる部屋で、白蓮がこの屋敷にいるにしろいないにしろ、彼の私室は別なのかも……。
少しだけ覗こう。俺はそう決めた。考えているうちに、実際がどうであったところでこの部屋がなんなのか気になって堪らなくなったのだ。戸を少しだけ、中に白蓮がいたとしても決して気取られないように少しだけ開き、こっそり内部を窺う……。
……中はそれほど広くないが、しかし誰かの私室としてはあまり相応しくない様子だった。床は板張りで、正面に祭壇らしきものが見える。その向こうが一段高い畳敷きとなっていて、御簾で隔てられている。御簾の向こうに人影がある……動いている、生きた人間だ……しかもあれは、女性?
御簾越しなのでよくは見えないけれど、確かに女性だ。法衣……俺が着ている略装用ではなく正装用の法衣を纏っている、髪の長い女性。……あれは誰だ? 綿鳥さんに見えなくもないが、白衣姿でもないしこんな場所にいるのはおかしい。
もしかして、あれが白蓮? 白蓮は女性だったのか? 思い返してみれば、白蓮が男であるとは一度も聞いていない……いや、だが泡月ちゃんは俺を白蓮と一度見間違えたし、俺が白蓮について〈彼〉という代名詞を用いても花帯さんは訂正しなかったではないか。
誰なんだ、あの女性は……。
じっと目を凝らしていると、女性が御簾からこちら側に出てきた。その顔を見て、
――思考。体感。そのすべてが静止した。
しかし身体は動いていた。俺は戸を開け放っていた。
女性はびくっと身を震わせて、俺へと目を向ける。俺は大股歩きで近づいていき、その肩を掴んだ。
「咲乃……」
呟いて、たちまち全身に鳥肌が立った。引いていた波が一気に押し寄せるように、俺に尋常でない体感――実感が戻ってきた。
「咲乃!」
間違いない。四年ぶりでもそうと分かる――否、彼女の姿は四年前と少しも変わっていなかった。あの十八歳だった彼女のままだ。つぶらで潤みがちな瞳、右目の下の泣きぼくろ、整った鼻筋と小さく引き結んだ唇、遠慮がちに引いた顎も、この小柄な肩の感触も、なにもかもが俺の知っている彼女のまま――。
咲乃が生きていた。
「あ、あの……貴方は……」
「紅郎だよ、御津川紅郎! 咲乃、お前を探して此処まで来たんだ! 生きてるとは思わなかった、死んだものと思っていた、それで四年間ずっと悲しみ抜いてきたんだ。でもお前に呼ばれて――夢の中でお前に呼ばれたから、それに導かれて山にやって来て、でもお前と同じように山の中を彷徨うことになったんだけど、それで……この屋敷、に……」
興奮してまくし立てるうちに、俺は気付いた。咲乃はひどく困惑している。ふるふると顔を横に振り、その口元は震えてさえいる。身体も俺から離そうとしている。俺にまったく心当たりがないかのような振る舞いなのだ。
「……人違いだと、思います」
愕然とした。咲乃が、俺を忘れている? ……違う。人違いと彼女は云った。咲乃という名前にすら憶えがないと、そう云ったのだ。
「そんな……そんなはずがないよ。お前は咲乃だ。間違えるはずがない。俺がお前を、間違えるはずがない。咲乃、俺を憶えて、いないのか?」
咲乃は首を縦に振った。さらに「離して、ください……」とまで。その声には怯えが滲んでいた。
俺は咲乃の肩から手を離し、その手はだらんと身体の両脇にぶら下がる。途方に暮れる。咲乃は三歩ほど後退して、俺から距離を取る。彼女は自分の肩を抱え、完全に心を閉ざしていた。その訝しむ目つき……と同時に怯えた表情が、俺の胸に深く突き刺さった。
「本当に、本当に咲乃じゃない……んですか? 俺の顔に憶えは……」
「申し訳ないですけど、ありません」
遠慮がちだが、それでも彼女はそう云った。俺は死刑宣告でも受けたかのような気持ちだった。またなにかを云おうとしたが、言葉は出てこなかった。ただ口が間抜けにぱくぱくと動くばかりだった。
時間が、途轍もない圧迫感に満ちた時間が、過ぎていく。
「……君の名前は、なんて云うんですか」
やがて、辛うじて、そう訊くことだけできた。彼女は警戒した様子でしばらく間を置いた後、
「天波です」
「……分かりました。いきなり詰め寄ったりして、悪かったです」
俺は彼女に背を向け、部屋を後にした。廊下に出ると、叫び出したい衝動に駆られた。たった数分のうちに、俺の頭の中はぐちゃぐちゃに掻き乱されていた。
彼女は咲乃だ。四年前に山で遭難した彼女は、この彼岸邸に辿り着いたのだ。そしてずっと此処で生活していた。彼女は死んでなんていなかったのだ。
しかし彼女は、記憶を失っている。俺のことも、自分のことすら忘れてしまっている。
なんということだ。
俺は振り返り、戸にもう一度手を掛けようとした。が、俺を拒絶した彼女の姿が浮かび、結局手を下ろした。どうしたらいい? 分からない。今はとにかく、冷静な思考がままならない。時間をおかなければならない。咲乃は生きていた。生きていたんだ。なら焦る必要はない。じっくりと考えるんだ。一旦落ち着いて……。
俺は痛いくらいに歯をぎりぎりと食いしばりながら、自分の部屋へと戻った。




