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二十三「そして逆転による顕在」

   二十三


 彼岸花に血を注ぎ終えた花帯さんと綿鳥さんは戻ってくるとそれぞれの私室に引っ込んで、しばらく待つと綿鳥さんが先に出てきた。びしょ濡れだった身体を拭いて、新しい白衣に着替えたようだ。

 俺は琴の間の窓から彼女の動きを目で追う。中庭を挟んでいるので、激しい雨が視界を邪魔し、ともすれば見失ってしまいそうになる。彼女は回廊の北側を進み、その姿は此処からでは見られなくなった。

 意を決し、俺は廊下に出た。綿鳥さんが書庫に這入っていくのが見えた。書庫……四人の尼僧の中で彼女が最も目撃する機会が少なかったけれど、もしかしていつもそこにいたのだろうか。俺が借りている部屋の、まさに目と鼻の先に。

 しかし俺が書庫までやって来て戸を開けると、中には誰もいなかった。消失……いや、隣の部屋に移ったのだろう。この二つの部屋は戸で繋がっているので、廊下に出なくても行き来ができる。そう思って俺は左手にあったその戸を開けたが、そちらの部屋にも綿鳥さんはいない。

 俺が書庫に這入るのと入れ違いに廊下へ出たのか? ならば彼女は俺が尾行していることに気付いていたということになる。

 ()かれた……。そう歯噛みしながら廊下に出て、俺は開かずの間の戸が開いたままになっているのを見とめた。さっきは閉まっていたはずだ。

 明らかに、綿鳥さんからの誘い。

「……いいだろう」

 俺は乗ることにした。床から天井までびっしりと梵字に埋められた細長い部屋を抜け、さらに狭い洞窟に這入る。灯りを持っていないので真っ暗だが、どうせ綿鳥さんに追いつけばいいのだと思い、そのまま手探りで進んだ。ただでさえ浮世離れしている彼岸邸だけれど、その最奥、最深へと向かうこの道程はそれにもまして自分が現世から乖離していくように感じさせられる。あるいは胎内回帰だろうか。細い産道を通り、子宮へ。生と死、此岸と彼岸、その狭間の場所へ。

 果たして彼岸花畑の広がる鍾乳洞で、綿鳥さんは俺を待っていた。すべての石灯籠には既に火が灯されており、空間内をぼおっと照らす一方で陰影も際立たせる。

 天井から漏れる水滴は、以前に来たときよりも多い。おそらく外が豪雨の日には、此処で彼岸花に降り注ぐそれも比例して増すのだ。小雨と云ってもいいくらい……すなわち、俺がずっと夢で見ていたのと同じ光景。

 ただ違うのは、俺に背中を向けて立っているのが咲乃ではなく綿鳥さんだということ。彼女は彼岸花畑の中まで行かず、その手前にいるということ。このくらいか。

「綿鳥さん」

 呼び掛けると、彼女は振り返った。彼女と俺は、対峙(たいじ)した。

「俺は貴女の犯罪を看破しています」

 率直に云い放ったが、これで動じる彼女ではない。

「犯罪とは法治国家の下に定義づけられるものです。よって、此処では犯罪は生まれ得ません」

 飄々と云う綿鳥さん。だが俺もまた、そんな詭弁(きべん)には取り合わない。

「誤魔化さないでください。貴女は風櫛ちゃんと泡月ちゃんを殺した。貴女は奸計(かんけい)(ろう)してそれを隠蔽しようとしましたが、俺は嵌りませんでした」

 彼女のペースに惑わされてはいけない。俺は彼女が殺人犯だと見破っているのだ。今、この場所において、俺こそが優位に立っている。

「すべてを話してください。この彼岸邸の秘密を洗いざらい、それから貴女の犯罪の理由も」

 俺の目的は彼女が殺人犯だと糾弾することではない。真実を知ることだ。そうすればきっと数々の違和感が解き解れるはずで、俺とこの彼岸邸の数奇な縁も明らかになるはずなのだ。

 俺の決意のほどが伝わったのだろう、綿鳥さんは、

「『法華験記』のひとつである『大日本法華経験記』には蘇生譚(そせいたん)が多く登場します」

 そう切り出した。俺が求めている答えに関係がありそうとは思えないが、しかし彼女の語りにはいつだって重大な示唆が含まれている……それが彼女の話し方なのは知っている。だから俺は黙って耳を傾ける。

「たとえば出羽の妙達は天暦九年に死にましたが、『大日本法華経験記』では彼が閻魔王宮にて、王から死者の現世での所業、死後の有様などを詳しく聞かされた後に蘇生し、現世で善事を積んだという話が記載されています。蘇生譚の多くはこれと同じ調子であり、現世にやり残したことのある者が再び現世に送り返されてそれぞれに業を成すという筋なのです。この蘇生が転生と異なるのは、説明する必要もないでしょう」

 俺は頷いた。蘇生とは復活であり、続きから始まる。転生とは生まれ変わりであり、また一から始まる。両者の違いは明白だ。

「風櫛は自害しました」

「はっ?」

 不覚にも一瞬うろたえてしまった。いくらなんでも不意打ちが過ぎる言葉だった。

 すぐに気を取り直した俺にやって来たのは、強い怒りだった。

「やはり貴女は云い逃れをするつもりなんですか! 風櫛ちゃんは自殺じゃなかった! 殺されたんです! 死体の状態……それに現場の状況から明らかだったでしょう!」

「風櫛は白蓮様の後を追って自害しました」

 しかし綿鳥さんは俺の反駁(はんばく)をものともせずに続ける。

「白蓮様もまた、自害なさったのです」

「あ……」

 今度のその言葉は核心的で、俺は否応なしに冷静にさせられた。

「入水自殺でした。白蓮様は三途の池に自ら沈んだのです」

 話が次々と予想外の方向に舵を切っていくが……これこそ望むところである。むしろ下手に水を差して綿鳥さんが口を噤んでしまっては手詰まりとなる。俺は必死に頭を働かせ、着いていくのに努めると決めた。

「どうしてですか。どうして、自殺なんて」

「私達に幻滅した、いえ、罪の意識に苛まれたのでしょう。私達四人の尼僧は、皆が白蓮様に恋心を抱いていました。はじめのうちはそれでも表面上は問題ありませんでしたが、次第に私達は白蓮様を奪い合うかのように争い始めました。白蓮様は私達のそんな醜悪な様を目にして、自分がいたのでは私達がいつまで経っても到彼岸を果たせないと考え、命を絶ったのです。私達に教えを説き、導くはずの自分こそが私達の悟りへの道を阻害しているという事実を、ひどく気に病まれたのです」

 ゆえの、贖罪的供儀……。彼女達の罪とは、白蓮を自殺に追いやってしまったこと。

「私達は絶望しました。その中で、風櫛は真っ先に白蓮様の後を追いました。自らの手首を切ったのです」

「ま、待ってください。風櫛ちゃんの手首は切れてなんか――」

「私達はその風櫛の遺体を三途の池に投げ込みました。このときはその行為に深い考えはありませんでした。ただ、遺体を放っておくわけにもいかず、ならば白蓮様と同じようにと……。もっとも、そのころには既に白蓮様のご遺体は池の底にはありませんでしたが」

 綿鳥さんは少し横に移動し、俺に彼岸花畑を見せるようにした。

「白蓮様のご遺体は、その土の中に埋まっています」

 鍾乳洞の中に、どういうわけか盛られている土。これこそが白蓮の墓だった? 花帯さんが白蓮にお会いになられて云々と云ったのも、彼岸花を指した比喩的な表現ではなく、そのまま白蓮の遺体が埋まっている場所に行ってという意味だったのか?

「白蓮様のご遺体が池の底に沈んだままとなっているのを、私達が良しとしたはずもありません。私達はどうにかそのご遺体を引き上げ、土葬しようと決めたのです。本来なら火葬こそが望ましいと分かっていましたが、白蓮様のお身体が燃えて無くなってしまうというのが私達には耐えられませんでした。ですから私達はこの、彼岸邸の最奥とでも云うべき場所にご遺体を安置とばかりに埋め、祀ろうと考えたのです。土はそのために運び入れました」

 ところどころは理解できるし、納得がいく。なのに全体像は反比例して滅茶苦茶になっていく。なんだこれは……なにが噛み合わないんだ……。

「自害した風櫛の遺体を白蓮様と同じく此処に埋めようとは思いませんでした。白蓮様は特別であって、そこに風櫛を並べるのはあり得ませんでした。また、白蓮様が自害なされたのを受け、私達は下らぬ争いをしていたことを猛省してはいましたが、それでも抜け駆けするようにさっさと自害した風櫛が白蓮様と同じ場所で眠りにつくのは許したくありませんでした。そこで、三途の池に投げ込んだのです。その底は限りなく此処に近い場所でもありますから、それで充分だろうと考えられました」

 噛み合わないのはそこだ。風櫛ちゃんの死についてだ。彼女の死にまつわる説明が、俺が認識しているそれと食い違っているのだ。なぜ……と、問い質そうとした俺を再び遮って、綿鳥さんは告げた。

「数日後、風櫛は蘇生しました」

 まさしく絶句だった。

「彼女は彼岸に到達できなかったのです。悟りを開かないうちに自害した彼女は、また此処に送り返されたのです。蘇生譚よろしく、今度こそ課された業を成すために」

 死んで甦った。彼岸に至れず、戻ってきた。白蓮と違って風櫛ちゃんはまだ到彼岸を達成できていなかったから。俺が感じていた齟齬(そご)とはつまり、風櫛ちゃんの死について、俺の見たそれが初めてのものと考えていたのが原因だった。綿鳥さんが今まで話していたのは、彼女の一度目の死についてだった。

「馬鹿な……」

 こんな話、信じられるわけがない。綿鳥さんはどういうつもりなのだ? だが茫然とする俺をよそに彼女はつらつらと、まだ嘘八百を並べ立てていく。

「またこのときに、此処に大量の彼岸花が咲きました。白蓮様の死体の上、三途の池の下に、天上の花である曼珠沙華が。その花言葉は〈再会〉です。私達は白蓮様のご意向を知りました。三途の池こそが此岸と彼岸を結ぶ生死の海であり、私達と白蓮様を繋いでいるのだと。私達が真に悟りを開いた後にこれに這入れば、彼岸にて白蓮様と再会を果たせるのだと。そうして私達は波羅蜜に基づき、白蓮様との再会を目指す生活を始めたのです。三途の池という呼称も、このときに付けたものでした」

「…………」

 分かった。綿鳥さんが淡々と述べるものだから正気を疑ったけれど、それが白蓮亡き後の彼岸邸の縁起なのだ。俺が朝に御堂で考えた経緯がやはり当たっていたのだろう。指導者を失って途方に暮れた尼僧達が、新たにでっち上げた信仰。そうしなければ彼女達は生きる意味、目的を獲得できなかったに違いない。

 白蓮は尼僧達にとって生きる支えだった。天涯孤独の身であったところを彼に救われ、導かれた彼女達。だから白蓮が死んでしまっても、彼に一種の神格化を施すことで拠り所としての役割を存続させるしかなかった。こうして、本来の仏教からは程遠い、白蓮教とでも云うべき歪な体系は構築されたのである。

「背景は分かりました。彼岸邸と貴女達の根底にある事情は。……次は綿鳥さん、貴女が今回の殺人を犯した理由を話してください」

 そこに天波の消失も関わっているはずだ。俺にはそんな気がしていた。なぜなら、連続殺人の発端は天波の消失だったからだ。非常に近いときに起こったこの二つが、まさか無関係ということはあるまい。

 だがここまできたというのに、

「私は誰も殺していません」

 綿鳥さんの返答は無粋も甚だしいものだった。

「往生際が、悪いですよ。それとも俺が貴女の犯行を説明してみせないうちはまだ認めないとでも云うつも――」

「紅郎さん」

 初めて、綿鳥さんは俺の名前を呼んだ。

「貴方は以前にも此処に来たことがありますね。今回の滞在より、ずっと前にです」

 当てずっぽうではない、確信していると分かる口振り。俺の視界が揺らいだ。

「それは……」

 話を逸らされているのは明らかなのに、俺は無視できない。一斉にフラッシュバックする、この屋敷に来てから幾度となく覚えた既視感の数々がそれを許さない。

「……憶えていないんです。たしかに俺はこの屋敷に初めて来たという気がしません。でも、思い出せないんです」

 記憶喪失? いや、そんなんじゃない。咲乃は記憶を失っていたが、俺は違う。これまでの人生、この後悔だらけの人生を振り返ることができる。ただし……。

「断片が、抜け落ちてるんです。昔からそうでした。俺は記憶と……それから意識が(まれ)に途切れるんです」

「この彼岸花畑の景色を繰り返し夢に見たと、そう云っていましたよね」

「……云いましたか?」

 憶えがない。あ……でも花帯さんもいつだったか、俺がこの鍾乳洞の存在を知るよりも前に、俺が彼岸花畑について質問をしたと云っていた。俺は憶えていないのに。憶えていないのに。

「俺は幼いころから、おかしな夢ばかり見るんです。ほとんどが、その、狂気に支配されているような恐ろしい夢で……。内容は全然思い出せないんですけど。だから、だから此処に来る前からこの彼岸花畑の情景を夢に見ていたのも、そんなに不思議じゃないと云いますか……不思議であるのが当たり前だから、納得できたと云いますか……」

 舌が回らなくなる。頭が痛い。早まる鼓動に合わせるように痛みが襲ってくる。

「知らない場所を夢に見るなんて、あり得ません。貴方は此処を知っていたのです。以前にも一度訪れて、見たことがあるのです」

 綿鳥さんの言葉も、頭痛と波長を合わせるかのように脳内に響き渡る。

「夢とは、過去に体験した出来事や知った事象によって形成されます。経験のない行動を取り、知らない情景を見るにしても、それは過去の似姿として形作られます。夢は回想、換言すれば追体験という考え方が一般的なのはそのためです」

 自分の頭の中で起きる以上、自分の知り得ないことが見られないのは当然だ……。綿鳥さんの云わんとしているところは分かる。つまり、この彼岸花畑を知らないうちから、此処の景色を夢に見るわけがないということ。

「すべての夢は欲望充足のかたちです。具現し得ない内なる欲望が夢の中で発散されるのです。どんな人間も非道徳的な欲望を抱えていますが、それを抑圧して生きています。それが溜まっていくと理性では抑えが利かなくなってしまうために、夢がその負担を軽減する役割を担っているのです」

 綿鳥さんの話は、またも転換を見せた。俺は着いていくのに精一杯となる。

「欲望、充足……? そんなはずがない。俺の夢は苦しいものなんですから……」

「悪夢や不安夢というものは、顕在的な夢内容が苦痛であるというだけです。潜在的な夢内容が欲望充足であるというのを否定はできません。欲望もまた潜在的なところが大きく、思いも付かないような残酷な真似を自分でも気付かずに望んでいるという場合は多々あります。夢は本人も知らないうちに本人も知らない欲望を叶えているのです」

 なんの話だ、これは。いつの間にか俺と綿鳥さんの立場が逆転しているではないか。俺は立て直そうと思うのだが、思うのだが、口を開こうとすると頭が割れんばかりに激しく痛む。吐き気まで催す始末だ。

「なぜ、睡眠状態が夢形成を可能にするのか。その状態が内部心的な検閲(けんえつ)の働きを低下させるからです。人が意識できる欲望は顕在的な欲望だけであり、潜在的な欲望を知るには、それが顕在する必要があります。このときに検閲が行われます。超自我が対象を常識や倫理観、道徳観と照らし合わせ、意識の俎上(そじょう)に乗せても問題がないか判断するのです」

 だが夢の中では検閲の働きが鈍るから、潜在的な欲望の具現した映像が見られる……。欲望充足のために……。知っている。俺は昔から悪夢に苛まれてきたから、こんな話はとうに知っているのだ。今更、聞きたくない。聞きたくない聞きたくない。

「睡眠状態では働きの鈍るこの検閲ですが、意識が覚醒すると元に戻ります。よって夢で見ていた潜在的な欲望は再び無意識の中に引っ込み、結果、顕在的な夢内容のみが思い出され、そこには苦痛しかないという事態が起こります。これが夢の忘却の仕組みであり、この場合、本来的には欲望充足のための夢が不安を煽る構図となるので本末転倒と云えます」

 内容の思い出せない、しかし恐ろしい内容とだけは分かる夢を見続けてきた俺。ならば俺の欲望は、その恐ろしい狂気の中にあるということ……。

「狂気の勃発はしばしば不安を伴う恐怖の夢に始まります。狂気と夢には数多くの一致があり、その果てに狂気を夢と錯覚する逆転現象が起こります。すなわち、不安定な現実を夢と勘違いするのです。不安定な現実とはまず、幻覚がその一形態です。熱病者の譫妄(せんもう)には夢の中にいる者と同じく、遥かな過去の思い出が浮かんでくる場合があります。覚醒している健康者が忘れてしまっていることを、眠っている者や病者は想起するのです。要するに、睡眠状態と同様に狂気の沙汰においても検閲の働きは低下するということです」

 夢の忘却と同じプロセスによる、狂気の忘却……。綿鳥さんはなにが云いたい? 俺にそんな話をして、なにを伝えようとしている?

「夢と狂気を特徴づけるのは、主に突飛な想念の繋がりと判断力の弱化です。夢と狂気においては自己意識の鈍化によって状況の認識ができなくなり、道徳意識の欠如が生じるのです。また、感覚器官の知覚にも変化が生じます。夢においては知覚が低下し、狂気においては一般にそれが大変高まります。さらに人格や性格的特異性の変化、逆転……すなわち倒錯が起こります。これだけの一致があれば、取り違いが生まれるのは至極当然です。狂気に囚われた体験を夢と勘違いし、夢の内容を狂気に憑りつかれた自分が実際に仕出かした事実と勘違いするのです」

「もう……やめてください。聞きたくない……聞きたくない……」

「夢においては頻繁に人格分裂が起こります。自分の知っている事柄が分断されて二つの人物に分け与えられ、この二人のうちの自分以外の者が、夢の中の自分自身の誤りを訂正するという具合にです。こうした現象は、まさに人格分裂とまったく同じ――」

「やめてくださいっ!」

 叫ぶと同時、脳の血管がひとつ残らずはち切れたかと思った。耐えきれず、その場に頭を抱えてうずくまる。

「紅郎さん、貴方は夢と狂気を混同し、普段はそれを潜在の領域に引っ込めているのです。記憶が抜け落ちているのは、夢内容を忘れているのと同様の理由からなのです。それでも睡眠状態、あるいは狂気の沙汰においてのみ顕在するそれらは、意識の領域にもわずかな残滓を残すのです。貴方が此処に導かれたのは、その残滓がためであったのです」

 貴方は狂っているのです――と、綿鳥さんはそれが神託であるかのように告げた。

 俺は彼女の意図を把握した。彼女は俺に、自らの罪を被せてしまおうとしているのだ。幼少期から悪夢に脅かされ、稀に意識と記憶の欠落が生じる俺のそんな弱みにつけ込み、複雑な論理で丸め込んでしまおうとしているのだ。これが彼女のやり方なのだ。なにせ泡月ちゃんを殺すにあたって、日本刀と琴糸で結ばれた戸を俺に開けさせた――俺に泡月ちゃんを殺させた彼女である。

 卑怯だ。なんて卑怯なんだ。

 俺は顔を上げた。彼岸花畑を背にして佇む綿鳥さんは、しとしと降りしきる雨に濡れて、法衣に肌色が透けている。その妖美な姿を目にして、俺は眼球の奥が熱く燃え上がるように感じた。視界が、まるで彼岸花のような紅色に塗り潰されていく……。

「綿鳥さん、貴女は出家する以前、白蓮の恋人だったんですね」

 今まで一度だってその飄々とした表情を崩さなかった彼女は、初めて動揺を表した。

 俺は立ち上がって、彼女に一歩一歩、近づいていく。

「知っていますよ、白蓮と貴女がそういう関係だったことは。貴女も白蓮も事故で自分以外の家族を全員失った。似たような境遇にあった貴方達は出逢ってすぐに惹かれ合い、やがて貴女は白蓮の子を孕み、それを産んだ。でも浮世を捨てて彼岸邸に出家すると決めた貴女達は、互いの想いを封印すると共に、自分達の子供を手離した」

 いよいよ表情を大きく引きつらせる綿鳥さん。すぐ間近まで迫った俺は、彼女が誰に似ているのかようやく思い至った。

 彼女は俺の母親によく似ている。

 恐れ戦いたその顔が不意にすうっと遠ざかり、俺は意識を失った……。

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