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序「導かれた果て」

   序


 夜になり、雷雨はさらに激しさを増していた。

 鬱蒼と茂った木々を篠突く雨が打ち、荒れ狂う風が揺らす。その豪快で奇怪な(さま)を瞬間瞬間でモノクロに切り取りながら、雷が(とどろ)く。さながら山そのものが巨大な意思を持って暴れ狂っているかのようだ。

 俺はそんな山の中をひたすら彷徨(さまよ)っていた。

 麓の小さな村からこの山に這入(はい)ったのは昨日の昼すぎだ。深山幽谷(しんざんゆうこく)。手つかずの自然に覆われたこの山は人が通れる道なんてなく、そこに分け入っていくのだから相応の備えはしていた。遭難しても一週間は耐え抜けるはずだった。

 しかし昨晩、足を滑らした俺は急斜面を転がり落ちた。その際にリュックを紛失し、折角の備えは無駄となった。水も食糧もすべてがリュックの中だった。残ったのは腕時計くらいだ。状況は途端(とたん)切迫(せっぱく)し、下山しようと決めた。

 だが、俺は自分の認識が甘かったと痛感させられた。山なんてものは下り続けていれば抜けられるだろう、なんて考えは通用しなかった。下っていたかと思えば平坦になり、登るのを避けて進んでも結局登ることになり、そうこうしているうちに自分のいる場所が分からなくなった。懐中電灯もないのに夜の山中を無理に歩き続けたのも悪かっただろう。しかし、とにかく動いていないと不安で堪らなかったのだ。

 追い打ちをかけるように今日の午後からは雨も降り始めた。夏だから丁度良いかと思っていたら、次第に激しさを増して、挙句(あげく)には暴風を伴った雷雨となった。

 俺はおそらく、死ぬのだろう。

 恐れを抱く暇さえ与えられない、無慈悲な暴力の嵐。大自然の猛威を前に、人間に為すすべなんてない。俺はあまりに無力だった。既に充分すぎるほど、自分の運命を思い知らされていた。

 運命……。

 そう、まさしく運命なのだろう。俺がこの山の中で遭難し、命を落とすというのは……。

 それでも、歩みだけは止めないでいた。じっとしているのは耐えられなかった。動いていれば、少しは気が紛れる。雷だって、瞬間的にではあるものの辺りを照らしてくれる光源とでも考えれば、いくらか救われる。だから当てがなくとも進み続けた。

 しかし、それもそろそろ限界だろう。意思がどうであったところで、身体が動かなくなれば意味がない。

 疲労もさることながら、全身に鈍い痛みがある。斜面を転げ落ちただけでなく、木の幹や伸びきった草やぬかるんだ地面に足を取られて何度も転んだのだ。さらに、泥にまみれたかと思えば豪雨に洗い流されるという繰り返しに遭い、芯まで冷えきってしまっている。頭痛も酷く、空腹のせいもあってか、意識まで朦朧(もうろう)とする始末だ。

 終わりは近い……。

 そのとき、また雷が瞬いた。

 ――俺は自分の目を疑った。

 が、すかさず視界は闇に覆われ、遅れてやって来た雷鳴に身体が腹の底まで震わされる。

 今のは……。

 俺は立ち止まり、目を見開いたまま、次の雷光を待った。間もなく、その天地を繋ぐ(まばゆ)い閃光は再び辺りを照らした。刹那の間に、俺は視線を正面からその上方へと素早く動かした。

 見間違いではなかった。目の前に、唐突に石の階段が現れたのだ。そしてそれを登った先には、寺院なんかで見かける四脚門のようなものがあった。

 思わず、周囲をきょろきょろと見回す。整備された道なんて見当たらない。この階段はどういうわけか、こんな山の中にぽつんと孤立しているのだ。

 奇妙……。もしかして、幻か? だがその一段目に、俺の足は確かに乗った。次いで二段目、三段目と上っていく。幻ではない……。

 現実味というものが置いてけぼりを食らっている感覚。つい先程まで、これ以上ないくらい現実的な死という結末に向かっていたのに。

 とうとう俺は階段を上りきっていた。不思議、あまりにも不思議……そう内心では戸惑いつつも、門の扉を押す。身体が勝手に動く……そこに俺だけでなく、他の何者かの意志が介在しているかのよう……。扉は重いが、開けられなくはなかった。通れるだけの隙間を開けると、俺は門をくぐった。導かれるように。

 暗闇に包まれ、シルエットが辛うじて分かるだけだが、前方にあるのはどうやら瓦葺きの日本家屋らしい。玄関が見えている。どのくらいの大きさなのかは分からない。俺が今いる前庭は周りを石垣に囲まれており、それは玄関の両脇から始まってそれぞれ門まで続いている。よって屋敷の幅を見ることができず、両脇に回るのも封じられているのだ。ただ玄関が見られるのみで、どこかの部屋に明かりが点いているかどうかさえ分からない。

 人は住んでいるのだろうか。少なくとも門構えは立派だ。外観がほとんど窺えないのでどのくらい古い屋敷なのかは分からないが、廃屋と()うまで荒れている様子はない。いや、そもそも、なんのための屋敷なのだ? こんな場所、辺鄙(へんぴ)にもほどがある。

 あるいは、俺は知らず知らずのうちに山を抜けるすぐ間近まで来ていたのだろうか。この屋敷の存在が逆説的に、此処がそう辺鄙でもないことの証明なのかも……。

 ……考えていても仕方ないか。いずれにしても、この屋敷に這入ってみない手はないのだ。もう俺は疲労困憊で、これ以上は歩けそうにない。この屋敷が無人であったとしても、雨風凌げる寝床が見つかっただけで僥倖(ぎょうこう)以上なのだ。これで食糧があれば云うことはない。

 俺は門から玄関まで続く石畳の道を進んだ。途中、なにか威圧感めいたものを感じて右手を見ると、そこには天を覆い尽くさんばかりの巨大な樹木が不気味に(そび)えていた。石垣の向こうはこれまで同様に木々が密に茂っているのだが、その樹木はひときわ大きかった。野放図に広がるその黒々としたシルエット……菩提樹(ぼだいじゅ)、だろうか。

 玄関まで辿り着いても、インターホンの類は見当たらない。とりあえず戸を叩いたが、この雷雨では家人がいたとしても音が届かないだろう。

 仕方なく戸に手を掛けて横に引くと、少々立てつけが悪かったものの、錠は掛かっていなかった。内部に灯りは見えず、まさに一寸先は闇だ。

 本当に大丈夫なのだろうか……。山の中を彷徨っていたときとは別種の不安……なにか背筋がぞっと冷えるような、そんな居心地の悪い嫌な予感が……。

 そこで不意に視界がモノクロに転じると同時、これまでの比ではない、耳を(つんざ)かんばかりの強烈な雷鳴が轟いた。背後から正体不明の衝撃を感じて、俺は前のめりに倒れそうになった。片足を前に踏み出し、辛うじて持ち堪えた。

 振り返って見ると、まさにあの巨大な菩提樹が倒れていく最中だった。落雷したのが丁度そこだったのだ。

 樹齢数千年にも及ぶであろうその立派な大樹は軋み、悲鳴を上げながら、俺が今さっきくぐってきた門に真上から圧し掛かる。激しい雨風の音に負けない破壊音と、大地を揺さぶる重厚な振動。門と石垣の一部は潰れ、大樹の下敷きとなった。

 その光景は俺の脳内にもまた、雷に打たれたかのような(ひらめ)きを喚起した。

 一瞬で入口を塞いでしまった巨木の残骸を見ながら、しばらく呆気に取られる。

 滅茶苦茶に吹き荒れる雨風、生き物の如く(うごめ)く山の中で行き着いた怪しい屋敷……。

 ……俺はこの場所を、知っている?

 再び雷鳴が響き渡った。

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