10年前のあの日
3章です。
10年前――
桜満開の出会いと別れの季節。
まだ幼き頃の柏崎 葵もまた、全ての者が通る別れの時を過ごしていた。
「あおいちゃん.......」
弱々しく呟いたその声に葵は純粋な笑顔で返した。
「なんでそんな悲しい顔をするの? ちょっと離れ離れになるけど.........でも、すぐまた会えるよ」
葵が慰めるも、腰まで伸びた薄い茶髪を揺らす白いワンピース姿の少女は、クマのぬいぐるみを大事にそうに抱えながら泣きそうに目を潤ませていた。
柏崎 葵は幼稚園卒業と共に引越しをする。
理由は、父の死に伴い今のマンションに住み続けるには母一人の収入では到底間に合わず、家賃の低い場所に住まざるを得なかったからだ。
葵は幼いながらもそのことに気付いていたが、それを誰かに言うことなど出来るはずもなく、ただ引越すという事実だけを周りに伝えていた。
「はぁ、しょうがないなぁ。そんなに泣かれたら私も引越しするに出来ないよ」
葵はそう言うと、前髪を止めていた水玉の髪留めを外して手に取った。
「これ、もしよかったら受け取ってくれるかな?」
「えっ、でもこれは.......」
少女はその髪留めをよく知っていた。
葵がよく着けているそれは彼女のお気に入りのものであることは、彼女を知る誰もが知っている。それ以上に、少女はその髪留めについて葵から話を聞いたことがあった。
「うん、そうだよ。お父さんからの誕生日プレゼント。私にとっては大事な大事な宝物なんだ」
「そんなの受け取れるはず――」
「ううん。受け取って欲しい。それで大きくなって、また会った時は返してよ」
悲しむ彼女に目的を与え、今の悲しさと今後何かあった時に抱くであろう悲しさを彼女が乗り越えられるように自分の一番大切なものを葵は託す。
すぐまた会える――そう言ったものの、いつ会えるかなんて分からない。もしかしたら、一生会えないかもしれない。だけど、今その言葉を使うのは泣きそうな彼女を相手にあまりに酷すぎた。
「.........分かった。忘れない。絶対に返すから、だからあおいちゃんも私のこと忘れないでね」
少女は葵の差し出した髪留めを受け取り、大事そうに両手に握りしめた。
「忘れるわけないよ。一番の友達なんだから」
葵の言ったその言葉は本心からだった。
「ねぇ、あおいちゃん」
「うん?」
「やっぱり、引越す理由は言えない?」
葵は返答に困った。
自分の思いに応えて髪留めを受け取ってくれた相手に、これでもなお引越す理由を隠し続けるのか。
いっそのこと話して楽になりたい。相談にのって貰いたい。助けて欲しい。しかし、そう思えば思うほど彼女に話せない、話すわけにはいかなかった。
「.......ごめんね」
胸にトゲが刺さったような痛みを感じる。
――嘘をつく。
「私にも言えないの?」
「理由、お母さんから聞かされていないから」
――嘘をつく。
葵も内心では初めてついた嘘と一番の友達を裏切った罪悪感に押しつぶされ、今にも泣きそうになっていた。
父が亡くなった時、散々涙を流した。そして、もう泣かないって決めた。母に心配させないって決めた。泣きたくてもここで泣いたらダメだ。
葵は涙を抑えながら、本当に理由を聞かされていないと思われるよう申し訳ない表情をつくりあげた。
「.......言えないんだね」
そんな葵の嘘は簡単に見破られた。
葵の嘘は完璧でその表情も子供が演技で生み出せるようなものではなかった。
それでも――嘘をつこうとも、表情をつくりあげようとも、言葉や顔に目を向けずとも二人の仲の間で、それが嘘か本当かを見抜くことは難しいことではなかった。
彼女に頼めば、払えない家賃の問題も、これからどうなるのか見当もつかない自分の未来も、全てなんとかなることは間違いなかった。彼女の家にはそれをなんとかするだけの力があった。
しかし、それを彼女に頼めばどうなるのか?
葵はこの先の自分の生活よりも、ここで彼女に頼むことで自分たちがもう友達でいられなくなるかもしれないことの方が怖かった。
柏崎 葵はその歳の子供にしては賢すぎた故に、子供にしか出来ないことが――何も考えず人に頼るということが出来なかった。
「なにか理由があるんだよね? その、誰にも言えない理由が」
葵は口を開かない。
黙っているということはそういうことだと思って欲しいと、葵は自分勝手を理解しながらも願う。
「.......うん。なら、聞かない。あおいちゃんを信じてるから」
願いは通じる。葵はその言葉に何も返せなかった。
初めて葵は『友達』という言葉を正しい意味で理解したと思った。
友達とは、こちらの考えを尊重してくれる人間のこと。
自分が理由を話せば、そう考えていたのなら仕方がないと許してくれ、自分が理由を話さなければ、話せないには訳があると話さないことを許してくれる。
父の死に、親しい人間との別れ――大事なものを失っていく葵の中で『せめて友達だけは理想の姿でいて欲しい』という強い願望が『友達』という言葉への理解に繋がった。
その日、葵は一番の友達と別れ、引越しした。
そして、10年――
葵に友達が出来ることはなかった。
3章のプロローグなのでいつもより文字数は少なめです。
全体見てると、これまで以上に長くなりそうなのでどうぞお付き合い下さい。




