第8話 ヨハンの魔法
その身に纏った翠風――〝シルフィーロンド〟をそのままに。
周囲に吹き荒れさせた吹雪――〝ブリザードグリム〟をそのままに。
ヨハンは災厄と呼ぶにふさわしい炎の巨人を相手に、大立ち回りを繰り広げていた。
巨人が右手を振るった瞬間、肘から下が枝分かれし、幾百に及ぶ炎の鞭となってヨハンに襲いかかる。
クオンやレグロならば、その場に留まりながら炎鞭を捌くことができるのかもしれないが、そんな達人じみた見切りは自分には不可能だと割り切っていたヨハンは、躊躇なく全力で真横に飛ぶ。
翠風の力を借りたヨハンの体は一瞬で十数メートルの距離を移動し、遅れて振り下ろされた炎鞭が、数え切れない灼熱の暴威を地面に刻みつけた。
ヨハンは着地と同時に地を駆け、呪文と魔名を唱えながら巨人の側面に回り込む。
「我が掌に握りし大海、矮小なる身では受け止めること叶わず――〝オーシャンズリジェクト〟!」
両の掌を斜め前方に掲げた瞬間、ヨハンの身をすっぽりと覆えるほどに大きい、球状の水塊が具象する。
両の掌を前に突き出すのに合わせて水塊は発射され、巨人の脇腹に直撃すると同時に爆発。二〇メートルを超える巨体が傾ぐ。
人一人覆う程度の水塊に、大海の水を丸ごと圧縮していたのではないかと思えるほどに激烈な衝撃だった。
巨人は体勢を立て直しながらも左手を振るい、再び幾百の炎鞭を振るってヨハンに攻撃を仕掛ける。
だが、その時にはもうすでにヨハンはその場から離脱しており、吹雪によって白く染まりつつある地面を灼くだけの結果に終わる。
風属性魔法によって劇的に向上した機動力を如何なく発揮し、相手を攪乱しながら詠唱時間を稼ぎ、相手の弱点となりうる属性の魔法で攻撃する戦術。
使える属性に得手不得手のない魔法士にとっては基本戦術の一つにすぎないが、ヨハンほど高い次元で実行できる者はそうはいない。
まさしく、天才魔法士の面目躍如たる戦いぶりだった。
(いける……! ディザスター級が相手でも、僕の魔法は通用する……!)
そう思った矢先、巨人を構成する炎の色が変化し始めていることに気づき、眉をひそめる。
自然の炎では有り得ない色に。
赤から、黒に。
超常の気配を感じ取ったヨハンは戦慄に耐えながらも、巨人から距離をとり、今自身が使える中で最大最強の威力を誇る水属性魔法を発動する。
「我願う、蒙昧なる愚者に裁きが下ることを、我願う、断罪の先に救いがあらんことを――〝サフィールジャッジメント〟!!」
魔名を叫んだ直後、天空に直径五〇メートルに及ぶ巨大な魔法陣が浮かび上がる。
魔法陣が蒼く輝いたのも束の間、その直径に比するほどに巨大な水の奔流が魔法陣から放たれた。
水の奔流は直下にいる巨人を飲み込み、押し潰す。
その様は、さながら天地を繋ぐ水柱のようだった。
超自然的な水の奔流は大地に穴を空けることなく、その水圧をもって巨人のみを一方的に蹂躙する。
これで決まってくれ――と、ヨハンは心の底から願う。
そんな願いを踏み潰すように、地面に押し潰されていた巨人の色が、その身を構成する炎の色が、完全なる黒へと変化する。
その瞬間、巨人の熱量が〝サフィールジャッジメント〟の水量を上回り、蒼き水の奔流が、黒き炎の体に触れた端から蒸発し始める。
やがて蒼き水の奔流は止み、耐えきった巨人はゆっくりと立ち上がる。
そして、右の掌を天に掲げた。
その掌上に黒き太陽が生まれた瞬間、強烈な悪寒がヨハンの背筋を走り、一も二もなく防御魔法を発動する。
「白き安らぎよ――〝ホワイトサンクタス〟!」
氷の結界がヨハンを覆った瞬間、黒き太陽が爆ぜ、全方位に無数の熱線が放射される。
熱線に込められた破滅的な熱量が、いまだ吹き荒れていた吹雪を完全に消し飛ばし、氷の結界をも溶かしていく。
「く……ッ!」
このままでは耐えきれないと思ったヨハンは、再び〝ホワイトサンクタス〟を発動。
氷の結界を二重に展開することで、かろうじて熱線を凌ぎきった。
再び、巨人が右掌を天に掲げ、黒き太陽を創り出そうとする。
当然、それを黙って見ているヨハンではなく、
「唸れ――〝ブルーシェル〟!」
三発の水の砲弾を発射。
水の砲弾は、巨人の右手に直撃すると同時に三発全てが蒸発するも、その際に生じた衝撃で右手を弾くことに成功し、黒き太陽の生成を阻止する。
だが、この程度のことで攻撃を緩める巨人ではなく、弾かれた勢いを利用して右手を振りかぶり、ピタリと動きを止める。
何がくるかわからない――そう思ったヨハンは、己の臆病さを自覚しながらも全力で地を蹴り、翠風の力を借りて大きく大きく飛び下がる。
わずかに遅れて、巨人は振りかぶっていた右手を、薙ぐようにして振り下ろした。
刹那、振り下ろした右手から放射された黒炎が、ヨハンの眼前を薙ぎ払う。
大きく飛び下がらなければ、黒炎に呑まれていたところだった。
(まさか、自分の臆病さに感謝する日がくるとはな……!)
さらに地を蹴り、巨人との距離を充分に離したところで、今度は氷属性で最も威力の高い魔法を発動する。
「白銀の陣よ、行く手を阻みし者を躙り、嬲り、押し潰せ――〝グレイシアファランクス〟!」
黒炎によって上昇していた気温が踵を返すように下がり始め、瞬く間に氷点下まで冷え込んでいく。
続けて、ヨハンの周囲に百を超える氷の攻城矢が具現する。
ヨハンが右手を頭上に掲げ、振り下ろした瞬間、一本一本が必殺の威力を秘めた氷の攻城矢が密集陣形を組んで巨人に殺到した。
氷の攻城矢は炎の巨人に触れた端から溶けていくも、その後ろに続く攻城矢が溶けゆく攻城矢の末端に突き刺さり、押し込んでいく。
圧倒的物量が黒炎の熱量を上回り、二〇メートルの巨体を飲み込んでいく。
だが、それでもまだ足りなかった。
〝グレイシアファランクス〟をもってしても、災厄の命には届かなかった。
圧倒的物量に押し込まれた巨人は、地面を灼き削りながらも、その身を穴だらけにされながらも、両腕で頭と胸を守って百の攻城矢を耐えきった。
おまけに、穴だらけになった体はすぐさま黒炎によって埋められ、ものの数秒で修復されてしまったものだから、実質無傷で〝グレイシアファランクス〟を耐えきったことになる。
だが、
(それでも戦果としては充分だ……!)
様々な生物と同じ形をしている澱魔は、体の一部が欠損しても立ちどころに修復する力を持っている。
けれど、急所に関しては土台となっている生物に則っており、脳や心臓にあたる箇所がやられたり、首を刎ねられたり、体を両断されたり、土台となっている生物が即死するほどのダメージを受けた場合は修復の力が働かず、絶命に至る。
巨人は、確かに守っていた。
急所にあたる脳と心臓を。
それはすなわち、〝グレイシアファランクス〟が巨人の命に届きうることを示している。
ならば、
(このまま押し切れば、倒せるかもしれない!)
「白銀の陣よ、行く手を阻みし者を躙り、嬲り、押し潰せ――〝グレイシアファランクス〟!」
ここぞとばかり、もう一度〝グレイシアファランクス〟を発動し、氷でできた百の攻城矢を具現する。
右手を頭上に掲げ、振り下ろそうとしたその時、巨人の周囲に突如として具現した〝それ〟を見て、ヨハンは瞠目する。
いつの間にか巨人の周囲には、百に及ぶ黒炎の攻城矢が具現していた。
(まさか僕の魔法を学習し、応用したのか!?)
内心の狼狽を押し殺し、右手を振り下ろして〝グレイシアファランクス〟を発射する。
ほぼ同時に、巨人は掌を前に掲げ、黒炎の攻城矢を発射する。
銀と黒の密集陣形がぶつかり合い、生じたエネルギーが衝撃波となって地面に燻っていた黒炎を吹き散らす。
ヨハンは翠風の力でなんとか衝撃波に耐えながらも、銀と黒の相克を睨みつけ、わずかにこちらが押されていると判断するや否や、横に飛んで攻城矢の射線から離脱。とうとう銀に押し勝った黒の密集陣形が、一瞬前までヨハンが立っていた空間を蹂躙した。
「クソ……!」
思わず、悪態をついてしまう。
知性も感情もないはずなのに、学習し、応用する。ディザスター級が澱魔の枠から大きく外れているのは、何もサイズだけに限った話ではなかった。
それを示すように、巨人は黒炎の攻城矢をさらに応用し、自身の周囲に百を超える黒き太陽を生成する。
(これだけの数となると、ただ〝ホワイトサンクタス〟を重ねがけした程度では凌げない……ならば!)
ヨハンは決断する。
即興で魔法を改編することを。
「連なり纏いし安らぎよ、その純白を以て我を護れ――〝ホワイトホーリネス〟!」
直後、光輝く氷の結界が十重二十重に展開され、ヨハンを護る。
ほぼ同時に百の黒き太陽が爆ぜ、生じた幾万に及ぶ熱線が、巨人の周囲に存在する全てを灼き尽くしていく。
ただ一つ、〝ホワイトホーリネス〟の結界だけを例外に。
即興で魔法を改編し、元の魔法よりも強力な魔法を生み出す。
それこそが、ヨハンを天才魔法士たらしめている最大の理由であり、父ダルニスに勝る唯一の分野であり、できれば使いたくなかった奥の手でもあった。
(改編魔法を使った場合、普通に魔法を使った時以上に世界の理を歪め、より多くの澱魔を生み落とすと父上は言っていた。それに、改編魔法は普通の魔法よりも魔力の消費が激しいから使用は控えていたが……)
熱線が止み、〝ホワイトホーリネス〟を解除したヨハンは決然と、黒炎の巨人を見上げる。
(四の五の言っている場合じゃないな……!)
再び巨人が無数の黒き太陽を生成すると予測したヨハンは、それよりも早くに水属性最強の魔法を詠唱し始める。
「我願う、蒙昧なる愚者に断罪が下ることを、その先に救いがあらんことを――」
予測どおり、巨人の周囲に黒炎が次々と集約し、太陽に変じようとするも、
「――〝サフィールジャッジメント〟!」
一手早かったヨハンが天空に巨大魔法陣を浮かび上がらせ、そこから放たれた蒼き水の奔流をもって、黒き太陽が出来上がる前の黒炎を飲み込み、押し潰した。
しかし、先と同じように、炎が黒くなった巨人に〝サフィールジャッジメント〟は通じず、蒼き水は巨人の体に触れた端から蒸発していく。
しかしそれは、巨人の体に触れるまでは水が蒸発していないことを意味しており、水圧を完全に殺しきることができていないことも意味していた。
事実、一度目の〝サフィールジャッジメント〟で地面に押し潰された巨人は、蒼き水の奔流が止むまで立ち上がることができなかった。
それはつまり、
(身動きはとれない。そうだろう? 災厄ッ!!)
水圧に負けて片膝をつく巨人に、ヨハンは獰猛な笑みを向ける。
「とどめだ……白銀の陣よ、その武力を束ね、行く手を阻みし者を貫き、圧し、薙ぎ払え――〝グレイシアペネトレイト〟!!」
百を超える氷の攻城矢が具現するのに合わせて、ヨハンは右手を頭上に掲げる。
百の攻城矢はヨハンの掌上に集約し、巨人に比するほどに大きい、一本の巨大攻城矢に変貌を遂げる。
巨大攻城矢に気づいた巨人が、黒炎の攻城矢を具現しようとするも、いまだ巨人を圧する蒼き水柱がそれを許さず、鏃一つ具現させることなく押し潰していく。
ヨハンは巨人の左胸――人間でいう心臓に位置に狙いを定めると、
「いけええええええええええええええええええッ!!」
掲げていた右手を振り下ろし、絶対零度の巨大攻城矢を撃ち放った。
巨人は、水圧に抗いながらも両腕を交差させて左胸を守ろうとするも、巨大攻城矢は問答無用でその守りを突き破り、
巨人の左胸を貫いた。
左胸にポッカリと穴が空いた巨人は時が止まったかのように静止し、その身を構成する炎の色が黒から赤に戻っていく。
力を失った巨人は〝サフィールジャッジメント〟の水圧に押し潰され、火の粉一粒残すことなくこの世から消え去っていった。
やがて水の奔流が止み、天空に描かれた巨大魔法陣が消失する。
「は……はは……思ったよりは……たいしたことなかったな……」
ヨハンは怪我らしい怪我を負うことなく炎の巨人を、ディザスター級の澱魔を討伐した。
そのこと自体は紛うことなき事実だが、その事実ほど、言葉に出したほど余裕ではなかったことはヨハン本人が嫌というほど理解していた。
巨人の攻撃は、どれ一つとっても必殺の威力を秘めており、人間一人を殺すには過剰としか思えないほどに苛烈だった。
まともに攻撃をくらうことは死を意味していた。
常に綱渡りを強いられる、ギリギリの戦いだった。
緊張の糸が切れたせいか、今さらながら恐怖がぶり返してきたヨハンの膝がガクガクと震え出す。
ディザスター級を討伐した達成感よりも、死なずに済んだという安堵感の方がはるかに勝っていた。
「まだだ、まだディザスター級を倒しただけだ……! 気を引き締めろ……!」
己を叱咤し、膝の震えを抑えながら公都に視線を向ける。
敵の魔法士の手によるものか、澱魔の手によるものか、公都のそこかしこで火の手が上がっているのが見え、ヨハンは歯噛みする。
ヨハンの言葉どおり、まだディザスター級を倒しただけで、この事態を引き起こした脅威の根源は依然取り除かれていない。
残り魔力にまだ余裕があることを確認した後、ヨハンはいまだ発動し続けている〝シルフィーロンド〟の力を借りて、すぐさま公都を目指して駆け出した。