第7話 対峙
ヨハンは公都の外を目指して、ただひたすらに走り続けた。
途中、兵士の手が回っていない地域で、公都を蹂躙する澱魔を目の当たりにしたが、対処している余裕などあるはずもなく、口の端から血が滴るほどに唇を噛み締めて堪えながら、ただひたすらに走り続けた。
立ち止まっている暇はない。が、向かう先にいる人物を認めた瞬間、ヨハンは思わず足を止めてしまう。
血に染まった大剣型の武装媒体を握り、血だまりに倒れ伏した仮面の魔法士の傍に佇む、その人物は、
「レグロ……」
そう呟くヨハンを、レグロは鳶色の瞳で一瞥し、マイクのそれよりも一回り大きい大剣媒体の光刃を解除する。
その瞬間、光刃という支えを失った血が、足元にいる魔法士だったものの仮面をおぞましい赤に染め上げた。
レグロが武装媒体を解除したこと、周囲がやけに静かになっていることを鑑みるに、どうやらこの辺りにいる敵は、レグロの足元にいる魔法士で最後のようだ。
(澱魔も含めて一人で片づけたってことか。相変わらず、凄まじい戦闘力だな)
今朝の会議の際、レグロが、ザック将軍から直々に、緊急時は遊撃として独自に判断して動くよう命令されていたことを思い出す。
単独で動くことを許されるだけの実力はもちろんのこと、それに付随する責任を負い、最良の結果を導き出してくれるだろうという信頼を勝ち得ているからこそ、レグロ・ランティアはブリック公国一の剣士と呼ばれているのだ。
一瞥する前からこちらの存在に気づいていたのか、レグロは突然の邂逅にも眉一つ動かすことなく、短く簡潔に訊ねてくる。
「いくのか?」
数瞬沈黙を挟んだ後、ヨハンもまた短く簡潔に答える。
「ああ」
「今朝の会議の決定どおり、お前一人でか?」
「ああ。あの大きさだからな。僕一人でないと存分に戦えない」
「だろうな」
レグロは有るか無きかの微笑を浮かべた後、こちらに向かって歩き出し、ヨハンの脇を通り過ぎたところで足を止めた。
「ヨハン……子供の頃の約束、覚えているか?」
「僕は魔法で。お前は剣で。この公都を護る……だったな」
「今がその時などと言うつもりはない。ここ五年燻りっぱなしの、今のお前を認めるつもりもない。だが、あえて言わせてもらう。剣でも魔法でもなく、俺とお前でこの公都を護るぞ」
「ああ……!」
転瞬、二人は地を蹴り、正反対の方向へ駆け出していく。
片や、公都に迫る炎の巨人を倒すために。
片や、公都を蹂躙する痴れ者を斬り捨てるために。
走り、走り、走り続ける。
振り返ることなく、走り続ける。
敵の掃討と住民の避難が進んでいるのか、レグロと出会って以降、人はおろか澱魔一体見かけることはなかった。
やがて、外壁の一角に設けられた、公都の外へ続く大門にたどり着く。
公都内にいる魔法士と澱魔の掃討に駆り出されたのか、外壁の上はおろか、堅く閉ざされた大門の周囲にも兵士の姿は見受けられなかった。
ヨハンは大門の開閉装置の場所を知らない。
ゆえに、ヨハンには大門を開けることはできないが、
「もうここからは魔法を使っていいということですね、セルヌント公」
魔法を使えば、越えることができる。
そのことを知っているセルヌント公が、ヨハンに魔法の禁を破る踏ん切りをつかせやすくするために、大門を閉ざしたまま兵士たちに持ち場を離れさせることで、わかりやすい〝境界線〟を用意してくれたのではないかと、ヨハンは思う。
セルヌント公ならば、それくらいのことはやりかねないことを知っているから、なおさらに。
大門の前にたどり着いたヨハンは足を止め、深呼吸をしてから、懐かしむように噛み締めるように呪文と魔名を唱える。
「舞い踊れ、風の精よ――〝シルフィーロンド〟」
直後、唐突に巻き起こった翠風が、ヨハンの体に纏わり付いた。
その身に纏った翠風の力を借り、術者の機動力を劇的に向上させる魔法だった。
ヨハンは確かめるように一、二度小さく跳ねた後、ありったけの力で地を蹴って飛び上がる。
翠風の力を借りた跳躍力は人間の域を逸脱しており、ヨハンの体をグングン空へ押し上げていく。
外壁を越える高さまで到達すると、壁上に着地し、数キロ先にいるディザスター級を、一歩歩くごとに平原を紅に染める炎の巨人を睨みつけた。
距離が離れていたことと今までヨハンが走っていた位置の関係で、〝下〟にいた時は、炎の巨人の姿は、高さ一〇メートルの外壁に隠れていたが、
「これは……外壁の倍くらいの大きさはありそうだな」
目測ゆえに誤差はあるだろうが、それでも、畏怖すら覚えるほどに炎の巨人が巨大である事実に変わりはない。
人智を超えた威容を前に、ヨハンは思わず息を呑んでしまう。
魔法の使用が禁止されたのはヨハンが一三歳の時。
魔法士として初めて実戦に臨んだのはヨハンが一二歳の時。
実戦経験は、わずか一年しかない。
いくら天才魔法士と呼ばれたヨハンでも、五年という空白は、一年という実戦経験の短さは、相手がディザスター級という事実は、絶望的なまでに重い。
「大丈夫。魔法さえ使えれば僕は誰にも負けない。誰にもだ。だから心配いらない。二度と会えなくなるなんてことはありえない」
クオンにかけた言葉を、そっくりそのまま反芻する。
(そうだ……僕は負けないと言った。心配いらないと言った。もう二度と会えなくなるなんてことはありえないと言った。クオンはその言葉を信じて、送り出してくれた)
事ここに及んで弱気の虫が顔を出す自分を情けなく思いながらも、今一度の覚悟を決めたヨハンは外壁から飛び降り、翠風の力を借りて危なげなく大地に着地した。
いよいよ公都の外に出たヨハンはすぐさま地を蹴り、風の如き速さで平原を駆け抜けていく。
相対距離が瞬く間に縮んでいき、視界の彼方に映る炎の巨人がみるみる大きくなっていく。
そして、対峙する。
運命づけられていたかのように。
宿命づけられていたかのように。
立ち止まったヨハンは、身に纏う翠風をそのままに、炎の巨人を見上げた。
澱魔ゆえに人間を見逃す気はないのか、立ち止まった巨人は、その身を構成する炎を滾らせてヨハンを見下ろした。
もっとも、巨人の顔には、目も、口も、鼻も、耳もないため〝見〟下ろすという言い回しは些か不適切かもしれないが。
不意に、巨人の顔から、腕から、胴から、脚から、〝何か〟が次々と膿み出されていく。
見た目は炎の幽霊で、大きさは一メートルそこそこ。例によって顔はなく、澱魔なのかどうかすらも判然としない。
その数が一〇〇に達したところで、巨人は再び歩き出した。
これで充分だろうと言わんばかりに。
わざわざ自分が相手するまでもないだろうと言わんばかりに。
巨人は歩調を崩してまでヨハンを踏み潰そうとはせず、ただ公都へ向かうためだけに足を前に送り出し、ヨハンを跨いでいく。
巨人が通り過ぎたところで、幽霊どもがヨハンを取り囲んでくる。
お前の相手など幽霊で充分だと言わんばかりに。
「このまま行かせると思っているのか、化け物……!」
不意に、ヨハンの双眸が底光りする。
「氷の女王よ、その威厳を以て彼の者を閉ざせ――〝ブリザードグリム〟」
冷厳なる言の葉が紡がれた刹那、唐突に吹き荒れた吹雪が、巨人を、幽霊どもを包み込んだ。
吹雪を構成する雪の一片が幽霊に触れた瞬間、まるで炎に溶かされた雪のように、炎で構成された幽霊の体の一部が溶け消える。
当然、幽霊に触れた雪は一片だけに留まらず、幾千幾万の雪片が、百の紅蓮を純白に染め上げていく。
一片一片が炎を消し去る凍度を持つ、超自然的な吹雪。
当然、術者であるヨハンが雪片に触れても、ただの雪ほどの冷たさも感じることはない。
呪文の一語一語に込められた意味を正しく理解し、父ダルニスに勝るとも劣らぬ絶大な魔力をしっかりと魔名に乗せることで発現した、まさしく魔法と呼ぶにふさわしい吹雪だった。
だが、
「この程度でやられてくれたら苦労はしない、か」
幽霊とは熱量の桁が違うのか、巨人にとって〝ブリザードグリム〟の一片は、真実ただの雪でしかなく、水蒸気を上げながら幾千幾万の雪片を蒸発させていた。
しかし、どうやら無視できる〝敵〟ではないと判断したらしく、公都へ向かう足を止めた巨人はゆっくりと振り返り、今度こそ明確な敵意をもってヨハンを〝見〟下ろした。
対峙しているだけで肌が焼けるような熱量。
対峙しているだけで身が竦むような圧力。
それらを前にしても、ヨハンの心は不思議なほどに落ち着いていた。
つい先程、弱気の虫が顔を出したのが嘘のように。
土壇場になって肝が据わった自分に内心驚きながらも、ヨハンは覚悟を示すように、宣言するように、裂帛の気を炎の巨人にぶつけた。
「倒させてもらうぞ災厄!! 僕たちの公都を護るために!!」
◇ ◇ ◇
「ハァ……ハァ……ハァ……」
澱魔を戦斧媒体で両断したカルセルは、残敵がいないことを確認してから光刃を解除し、荒くなった息を整える。
「こっちも片付いたぞ」
「私もよ」
カルセルと同じようなタイミングで澱魔を退治し終えたマイクとオリビアが、カルセルと同じように疲れた顔をしながら、こちらに歩み寄ってくる。
ちょっと休憩しない?――と、カルセルが言おうとしたその時、情報伝達役の兵士がこちらに駆け寄ってくるのが見え、出かけた言葉をひとまず呑み込む。
「何かいい話でもあるのか?」
冗談半分にマイクが訊ねると、伝達兵は「いい話というほどではありませんが」と前置きした上で答えた。
「確認できた範囲になりますが、生きている住民の、公都外への避難はほぼ完了しました。現在二人の士団長と二〇〇人の兵士を護衛につけ、ディザスター級が現れた方角とは反対側にある町村に移動を開始しています」
「今から移動か……」
カルセルは空を仰ぎ見る。
日はもうだいぶ傾いており、じきに西の空はディザスター級の炎とは別種の赤に塗り変わることだろう。
「町でも村でもいいから、夜になるまでにたどり着ければいいけど……」
「きびしいだろうな」
カルセルの言葉に、マイクは沈痛な面持ちで応じた。
「そもそも公都の人口五〇〇〇強に対し、周辺の町村の規模は数十数百程度。どれくらい生き残っているかは知らないけど、とてもじゃないけど抱えきれるとは思えないわ」
事実を確かめるように言ったオリビアの言葉が、皆の肩に重くのしかかる。
「仮面の魔法士と澱魔の退治は、どの程度進んでるんだ?」
マイクの問いに、伝達兵は慌てて背筋を伸ばしながら答えた。
「澱魔に関しましては、外壁の周辺は完全に沈黙していますが、城の周辺にはいまだ相当数の澱魔が跋扈しています。魔法士に関しましては、確認されているだけで五人、捕縛ないし殺害したという報告を受けましたが、総数がわからない以上、どの程度退治が進んでいるかはわからないのが現状です」
「さっさと退治して、住民を呼び戻してやりたいところだが……クソッ!」
悪態をつくマイクをよそに、カルセルはしばし黙考する。
これ以上の伝達事項はないのか、伝達兵が一礼してから走り去っていったところで、黙考を終えたカルセルが二人に提案する。
「なあ、澱魔の対処はこれくらいにして、オイラたちは城に向かわないか?」
二人はカルセルの提案に意外そうな顔をするも、すぐに納得したように頷き、
「そういえば、朝礼で報された《終末を招く者》だかなんだか知らん怪しい連中の手口が、国の要人の暗殺って話だったな」
「公都内で暴れている魔法士と澱魔が陽動だとしたら、セルヌント公が危ないわね」
「じゃあ……」
「ああ。乗ったぜ、カルセル。その提案」
「クオンが魔法士を追いかけていったのも城と同じ方角だから、運が良ければ合流できるかもしれないしね。ただ……」
オリビアは数瞬迷うような素振りを見せた後、苦く笑いながら言葉をつぐ。
「ちょ~っと休憩してからにしてほしい、かな」
カルセルとマイクは顔を見合わせ、微笑を零した。
「オイラは異議なし」
「右に同じだ。さすがに俺も、ちょ~っと疲れたしな」
オリビアと同じような発音で「ちょ~っと」と言いながら、マイクは地面に腰を下ろし、彼に寄り添うようにオリビアも腰を下ろす。
カルセルも、マイクたちよりも少々重い腰をドカッと下ろしながら、ディザスター級が見えた方角を、その先に見える白煙を仰ぎ見る。
(そっちは任せたよ、ヨハン。クオンちゃんのことも含めて、こっちはこっちでなんとかするから)
三分ほど休んだところでカルセルたちは立ち上がり、周囲に魔法士と澱魔がいないことを確認してから、ヌアーク城を目指して走り出した。