5、正義のヒーロー
カナちゃんを私の部屋に案内して座らせた後、私はアイシングの準備のため一旦部屋を出る。
お母さんに事情を説明して、後で病院まで車を出してもらうようお願いし、タオルと氷のうとテーピグを持って部屋に戻った。
固定していたシャツの切れ端をほどき、タオルでくるんだ氷のうで患部をそっと冷す。
とりあえずここまでやれば一安心かな。
「すごいな、桜。めっちゃ手慣れてるやん」
処置を終えて一息ついた私に、カナちゃんは驚いたように目を丸くさせてこちらを見ている。
「空手で怪我は付き物だったからね。二十分冷やしたら病院に行くよ」
「そこまでせんでも大丈夫やて」
そう言ってニヘラと笑ったカナちゃんに、私の中の眠れる獅子が牙を出した。
「カ・ナ・ちゃん? 捻挫なめたらあかんぜよ! ちゃんと病院で見てもらって治さないと、後々クセになりやすくなるよ? 一生捻挫に苦しみ続けて生活するのは嫌でしょ? ねぇ、そうだよね?」
ニコニコと笑いながら、グリグリと氷のうを押し付ける私の有無を言わせない態度に、「す、すんまへんでした!」と、半泣き状態で謝ってくるカナちゃん。
「分かればよろしい」
その時、お母さんがジュースとお菓子を持ってやってきた。
「桜、カナちゃんいじめたら可哀想でしょう。ごめんね」
「いじめてないよ!」
「ええですっておばさん。桜怒らせた俺が悪いんですから」
「フフ、相変わらず仲良さそうで安心したわ。ここに引っ越してきて正解だったわね」
聞き逃す事が出来ない言葉に私は念わず尋ねる。
「お母さん、カナちゃんがここに引っ越した事知ってたの?」
「ええ、もちろん」
な、なんですと?!
母は悪びれもなく普通に笑っている。
「何で教えてくれなかったの?」
もう二度と会えないと、当時は本気で思っていたのに。
「縁があるならまた再会するでしょうと思って。桜、こう見えてもカナちゃんが引っ越した後、毎日わんわん泣いてたのよ」
「ほんまに?」
「む、昔の事だよ」
恥ずかしくなって私は目を逸らした。
「それでも俺は嬉しいわぁ」
「あんな急に居なくなったら誰だって寂しいって思うでしょ!」
ふわっと天使のような笑顔を浮かべるカナちゃんに、あれは不可抗力だと私は必死に説明した。
するとカナちゃんは、「なぁ、もっと教えてその時の事」と言ってニヤニヤと口元を緩ませて意地悪な顔でこちらを眺めている。
「忘れた」
「目が泳いどんで」
「たった今忘れた」
「ほんなら思い出して」
「思い出したけど、たった今忘れた」
気が付くと、私達の様子を見て嬉しそうに目を細めて母が笑っていて、「十分後に出発よ」と言い残して部屋を出ていった。
「ねぇ、カナちゃん……何で怪我してる事、隠そうとしたの?」
「正義のヒーローは、格好悪いとこ見せたらあかんねんで」
そう言って、ニカッと無邪気に笑って答えるカナちゃん。
「確かに……今日のカナちゃんは正義のヒーローみたいだったけど」
幼馴染みなのに水くさいではないかと、思わずには居られなかった。
昔からそうだった……私が指摘しないと、自分からは絶対に言ってはくれない。
心配かけたくないのかもしれないけど、友達なんだから私はもっと頼って欲しいと思っていた。
「惚れ直した?」
「最初から惚れてない」
「ぐはっ! 今ので瀕死のダメージ受けたわ、酷いでほんま」
「やくそうでもあげようか?」
「おう、それは助かる」
「じゃあ庭からドクダミでも拾ってきてあげる」
「あかん、俺に止め刺す気か」
「ばれた?」
だから私はすぐ冗談を言ってくるカナちゃんに、笑顔でわざと皮肉を込めて冗談で冷たく返す。
「うぅ、桜が冷たい……」
でもやりすぎると、カナちゃんはいじけて捨てられた子犬のような目でこちらを見てくる。
あまりいじめても可哀想なので、ここらで一度持ち上げる。
「でも、格好良かったよ」
「ほんま?」
「うん、本当だよ」
すぐに明るい笑顔を取り戻してくれるものの、ここで調子にのりすぎるのがカナちゃんの悪い癖でもある。
「じゃあ、コハク君とどっちが格好ええ?」
早速地雷な質問を投げ掛けてきた。
「勿論コハク」
「即答かい! そこはもうちょい花をもたせてやな、せめて考えるフリとかしてくれてもええんとちゃうか?」
「う~ん……コハク」
「今更ええわ! 今ので無駄に二度ショック受けたやん」
自分の気持ちに嘘はつけない。
そして無駄にカナちゃんに期待をもたせるのもよくない。
しかし、目の前でショックを受ける彼に感化され出した苦肉の策。
「じゃあ、仕方ないから今日はカナちゃんでいいよ?」
「あかん、同情とか止めて。余計虚しくなるから……」
しかしそれは、逆に彼を傷つけただけのようだった。
「ごめんごめん、でも今日のカナちゃんは本当に格好よかったよ」
今度は真面目にカナちゃんの目を見て笑顔で気持ちを伝えると、「おおきに。でも、昔の桜には敵わんけどな」と言って、カナちゃんはククっと喉で笑った。
「私、何かしたっけ?」
何の事か分からず、私が首を傾げて尋ねると、 昔を思い出すかのように、カナちゃんは目を細めて笑って教えてくれた。
「幼稚園の頃、お前は俺がいじめられてると颯爽と現れて助けてくれてんやんか。まるで、正義のヒーローみたいに」
「懐かしい、そんな事もあったね」
カナちゃんの姿が見えなくなると、私は幼稚園の裏庭まで走ってたのを思い出した。
当時は空手が楽しくて、誰にも負ける気がしなかった若気の至りもあり、カナちゃんをいじめる体格の良い男子にも臆せず向かっていった。
今思うと、半分ぐらいは習った事を試したいっていう自己顕示欲を満たす欲求からくるものだったと思わずにはいられない。
それがまさか、彼の目にそういう風に映っていたとは思わなかったけど。
「でも本当はな、いつまでもお前に守られるだけの存在が嫌やった。だから、引っ越して俺は女のフリするの辞めたんや。今度は俺が、お前を守るヒーローになりたい思うてな。でも、まだまだやな。結局また迷惑かけてもうて」
そう言ってカナちゃんは、悲しそうに眉を下げて笑った。
「迷惑なんかじゃないよ! 大事な友達なんだから」
「桜……」
「昔から、私が辛い時は傍に居てくれたくせに……カナちゃんは自分が辛い時、私には隠して言わなかった。転校した時だって、今日だってそう……私は、もっと頼って欲しかったよ」
気が付くと、瞳から涙がポタポタと流れ落ちていた。
昨日まで普通に過ごしてたのに、次の日にはもういきなり転校するって先生の口から聞かされて、カナちゃんは何も教えてくれなかった。
そして次の日にはもう、本当に居なくなった。
連絡先も教えてくれなくて、あの後どれだけ私が悲しくて泣き腫らしたか。
どうして何も教えてくれなかったのかって、相談してくれなかったのかって、絶望したか。
私は大切な友達だと思ってたのに、カナちゃんはそうじゃなかったのかって、すごく辛かった。
「もっと転校する前に、ちゃんと話しとけば良かったな。お前がそんな思うてたなんて、全然知らんかったわ。自分の気持ち、隠さんときちんと伝えとけばよかった……ほんまに、ごめんな」
カナちゃんはそっと私をあやすように抱き締めた。
昔と違って大きくて包容力のあるその腕の中は、私に時の流れを感じさせた。
だけど、触れた箇所から感じる温もりは昔のままで、懐かしさも感じられる。
そして頭上から聞こえてくる、すすり泣きから始まり、徐々に酷くなる嗚咽と泣き声……何年経っても、やっぱり彼は変わらないなと思った瞬間だった。
そっとカナちゃんの背中に手を伸ばし、あやすように優しく撫でる。
泣いて謝りながら、彼はギュッと私の身体を強く抱き締めてくる。
その時、廊下から聞こえてきた母の声。
「桜~そろそろ行くわよ!」
「ごめ~ん、今カナちゃん泣いてるからもう少し待って!」
「了解、落ち着いたら出てきなさい」
「はいは~い」
何とも懐かしいやりとりを終えても、カナちゃんはまだ泣き止みそうにない。
どうするべきか、彼の背中をポンポンしながら考える。
そして、ある方法を思い出すが流石にこの年になってあの時みたいにあれをやるのはかなり恥ずかしい。
カナちゃんが中々泣き止まない時、私がよくしていた方法……それは、私の心臓の音を聞かせてあげること。
そうすると安心するのか、カナちゃんはすぐに泣き止んでくれる。
重要なのは、ここで赤ちゃんみたいだと笑って馬鹿になどしてはいけない。
早くしないと病院が閉まってしまう。
このまま待つと三十分はかかるだろう。
──背に腹はかえられない。
私はそっとカナちゃんの身体を離すと、彼の頭を優しく撫でてあやした後、膝立ちの体勢をとった。
そして心臓の音が聞こえるように、カナちゃんの頭を私の胸に押し付けるようにして抱き締めた。
突如静まりかえった部屋の中。
さっきまでわんわんと泣いてたカナちゃんは、一瞬ビクッとして面白いほどピタリと泣き止んだ。
私は彼の頭を優しく撫でながら話しかけた。
「カナちゃん、そろそろ病院行こう?」
すると、彼の身体はまたビクッと震えた。
今度は背中をポンポンと一定のリズムで叩き、落ち着いた所でまた声をかける。
「早くしないと病院閉まっちゃうよ? だから行こ?」
「……うん」
返事があったのを確認してゆっくりと身体を離す。
昔から思ってたけど、泣き方とは別として美形は泣いても美形だとつくづく思った。
小さい頃の泣いた後のカナちゃんはものすごく可愛かったけど、今は悔しいくらいにイケメンだ。
とりあえず、手の届く範囲にあったティッシュ箱を彼に渡して顔を拭ってもらう。
「ありがとなぁ」
そう言ってやっとカナちゃんは笑ってくれた。
私が彼の足にテーピングを施し立ち上がって「じゃあ行こうか」と声をかけると、カナちゃんが「待って」と私の腕をグイっと掴んだ。
「上、何か羽織って……桜の胸、大きいからそのまんまだと目立つ」
そう言って彼は、顔を赤くして目を泳がせていた。
その時やっと彼が目のやり場に困ると言っていた意味が分かり、妙に恥ずかしくなった私は急いでタンスからカーディガンを引っ張り出して羽織った。
それから病院で診察を受け、カナちゃんの怪我は幸い軽いもので骨などに以上はなく、二週間ぐらい運動を控えて安静にすれば大丈夫との事だった。
大事にならなくて良かったとほっと胸を撫で下ろしつつ、その日は眠りについた。