4、父の背中(コハク視点)
その日の夜、時刻は夜の十時半を迎えた頃。
結局僕はケンさんが帰った後、桜に連絡出来ずに気が付くとこんな時間になっていた。
声が聞きたい、笑顔が見たい、桜に会いたい……
携帯に手を伸ばしては、ボタンを押すのに躊躇って、それを散々繰り返して自分が情けなくて嫌になる。
桜は僕の事、どう思ってるんだろう。
責任じゃなくて自分の意思で、僕に会いに来たとは言っていたから少なくとも嫌われてはいないはず。
でもたまたまテレビから聞こえてきた、『初恋は実らない』って言葉に怯え、中々行動を起こせずにいた。
今の偽の恋人なんてあやふやな関係はいつ崩れ去ってもおかしくない。
もし桜に好きな人が出来たりしたら……考えただけで胸が張り裂けそうだ。
後一週間待てば、学校で会えるようになる。
しかし、もしその間に悪い虫でもついてたりしたら……悪い方に傾く思考を一喝し、僕は携帯にまた手を伸ばした。
そして、震える手でラインに必死に文字を打ち込んだ。
『もう寝ちゃったかな?』
もっと気の利いた言葉を打てなかったのだろうか。そう後悔しつつも、携帯の画面をじっと見つめて返事を待つが何の反応もない。
諦めかけたその時、桜から返事がきた。
どうやら数学の課題をやっているようで、中々進んでいないようだ。
これはチャンスと思い、『分からない所教えようか?』とすかさず返信すると『え、いいの?』と、乗り気な返事がきた。はやる気持ちを抑えて僕は桜に電話をかけた。
「こっちの方が早いと思って。今どこの問題?」
「プリント二枚目の問三なんだけど……」
久しぶりに聞く彼女の声に、僕の胸は締め付けられるようにキュッと苦しくなる。
でもそれは不快感からくるものではなく、嬉しさからくる心地のよい感覚だ。
この時僕は、どうしようもなく桜の事が好きで堪らない事を思い知らされた。
それから、桜の課題を手伝い何とかプリント一枚分は終わらせる事が出来た。
それでも後九枚残っている事を不憫に思い、明日続きをしないかと誘ってみる。
桜は嬉しそうに声を弾ませて了承してくれ、その日僕は天にも昇る気持ちで眠りについた。
幸せすぎて少し寝坊した僕は翌朝、慌てて身支度を整え家を出た。
その時の僕は、まさかあんな光景を見てしまう事になるとは夢にも思っていなかった。
もしも時間を巻き戻す事が出来るとしたら、僕はこの時間まで巻き戻したい。
そして、あんな過ちを犯した自分をボコボコに殴ってやりたい気持ちで一杯だった。
***
桜に叩かれたジンジンと痛む頬に手を置いて、僕はその場から動けなかった。
本当は、すぐにでも彼女を追いかけて謝罪しなければならないのに、僕の両足は鉛のように重たくて動かす事が出来ない。
口内に広がる鉄の味がひどく苦く感じた。
しかしそれではいけないと思い、鉛のような足に鞭を打って桜を追いかけて家を飛び出した。
色々な場所を捜してはみたけれど、家を出るのが遅かったためか、結局彼女を見つける事が出来なかった。
家まで行って謝罪に行くべきなんだろうけど、僕は彼女の家を知らない。
電話をかけても繋がらないし、メールもラインも返事が来ない。
いつの間にか、明るかった空は夕焼け空へと変わり、その夕日さえも沈もうとしていた。
仕方なく家に帰ると、父がテレビを見ながらリビングでくつろいでいる。
「コハク……少し見ないうちにお前、立派な男の勲章つけてるではないか」
「父さん、帰ってたんだ……後ろ向いて笑うの止めてもらえる?」
僕の顔を見るなり、父はクルリと身体を翻してテーブルをバンバンと叩きながら爆笑している。
「いや、しかし、その顔を見て笑うなと言う方が無理な注文であろうが!」
父は笑いが収まらないのか片手でお腹を押さえながら、プルプルと震えるもう片方の手で、妖術で葉っぱを変化させた手鏡を差し出してくる。
笑いすぎて加減が狂ったのか、ひどく歪な形をしたその手鏡。
仕方なく受け取って確認すると、鏡に映った僕の左頬にはくっきりと赤い紅葉マークがついていた。
とりあえず、そのままにしておくといつまでも聞こえる父の笑い声が耳障りなため、僕は頬に湿布を貼って紅葉マークを隠した。
するとやっと落ち着いたのか、父は笑いすぎて出てきた生理的な涙を手で拭いながら話しかけてきた。
「うまくやれてるかと、様子を見に来たわけだが……中々苦戦しているようだな。コハク、記憶は戻ったのかい?」
「断片的に少しだけ」
未だにチラチラと僕の湿布が貼られた左頬を見る父に苛立ち、僕はムスッとして答えた。
「それなのに、もう事に及ぼうとしたわけか……お前、あの子の事どう思ってるんだい?」
父は切れ長の瞳を大きく見開き、さっきとは打って変わって真剣な表情で尋ねてきた。
「……笑顔が可愛くて、優しくて、一緒に居たらドキドキして、気付いたらずっと彼女の事ばかり考えてる」
急に真剣に尋ねてきた父に戸惑いながら、僕は正直な気持ちを言った。
「つまり、惚れているのであろう?」
「……うん」
直球で言われた事が恥ずかしくて、僕は小さく頷いた。
「で、どうしてそんな事になっているのだい?」
「他の男とは楽しそうにしてたのに、僕の前ではなんか苦しそうで……悔しくて……」
僕の知らない桜を知っている幼馴染みの男に醜く嫉妬して、僕は桜に辛く当たってしまった。
『今のコハクはコハクじゃない』
そう言われて、今の僕の存在を、君を想う気持ちを、全否定された事が悲しかった。
僕は桜の事が好きで仕方ないのに、彼女の目に映るのは過去の自分なんだと思い知らされた。
過去を忘れた僕の存在なんて、彼女にとってどんな存在なのか考えるのが怖かった。
もし記憶を思い出せなかったら、桜は何れ僕の前から居なくなってしまうかもしれない。
それなら今の僕を教えてあげようって、新たな絆を結びたいってエスカレートした思考に歯止めがきかなくて……気付いたら、桜の事を押し倒してた。
怯えるようにこちらに向けられた桜の視線から逃げるように、彼女の口を己の唇で無理矢理塞いだ。
そして、たまらなく愛しい彼女の唇に、何度も自分の欲望を流し込んで愛情を伝えたつもりだった。
次第に桜の抵抗は弱まり、彼女はやっと僕を受け入れてくれたんだと思った刹那、唇を開放して僕の瞳に映ったのは、大粒の涙をポロポロと流す哀しそうな桜の顔。
どうして僕は、彼女にこんな顔をさせているのか後悔した瞬間、頬に感じた強烈な痛み。
『どうして……どうしてこんな事するの?』
悲痛な声で尋ねてくる桜に、僕は彼女の名前を呟いただけで、その先に続く謝罪の言葉も、理由を述べる事も出来なかった。
『コハクの事、大好きだったのに……無理矢理こんな事しなくても、私は貴方の事、愛してたのに……コハクの馬鹿!』
信じられない言葉を残して、桜は僕の前から逃げるように去っていった。
「自分の気持ちは伝えたのかい?」
父の言葉に僕は現実に引き戻された。
「……伝えてない」
僕の気持ちを伝えていれば、桜にあんな顔をさせずに済んだのだろうか。
自分の事しか考えられなかった愚かな自分が本当に嫌になる。
「ふむ、一番最悪なパターンをやってしまったのか……コハク、もう桜ちゃんに口すら聞いてもらえないぞ、当分」
「……っ」
気の毒そうにこちらを見ている父の視線に、いたたまれない気持ちになった。
「女ってのは身体の繋がりより、まずは心の繋がりを大事にするんだ。心を満たしてない状態で事に及ぼうとすると、まぁ今のお前みたいになるわけだ。いくら好きな男とはいえ、順番すっ飛ばしてそんな事されたら……どれだけ辛いか考えてみろ。遊ばれてるとか、身体だけが目的とか思われても仕方ないだろうな」
「僕はなんて事を……」
桜がどんな気持ちで僕の行為を受けていたのか考えると、胸が苦しくて仕方なかった。
どうして、きちんと気持ちを伝えなかったのだろうか。
嫉妬心に捕らわれて、僕は自らの手で……大切なものを壊してしまった。
「まぁ、やってしまった事は仕方がない。誠心誠意謝るしかないだろうな」
父は僕の頭をポンポンと慰めるように優しく撫でた。
「連絡しても返事がこないんだ」
きっと、愚かな僕に幻滅してしまったのだろう。
「それだけ、お前がしたことは彼女を傷付けたんだ。まずは頭を冷やせ、そしてどうしたらいいかよく考えてみろ。ちなみに、私が雪乃を怒らせた時は……半年ぐらい口聞いてもらえなかったぞ」
「半年……」
父の言葉がズシっと僕の心に重くのし掛かる。
もしかすると、もう二度と口を聞いてもらえないかもしれない。
嫌われても仕方がない事を僕はやってしまったのだから。
「まぁ、そう気を落とすな。お前に一つ朗報を持ってきたんだからな」
ニコニコと満面の笑みを浮かべて父はこちらを見ている。
「朗報?」
父の笑顔が胡散臭い。僕はあまり期待せずに言葉の続きを待つ。
「お前の記憶は心力の使い過ぎで失われている。取り戻したいと思うなら、誰よりも桜ちゃんを幸せな気持ちで満たしてあげるんだ。そうすれば、自然とお前の元に戻ってくるだろう」
「……何で、それを最初に教えてくれなかったの?」
「記憶が無くても、同じ女に再び恋をするなんて……中々ロマンチックであろう?」
そう言って父はニヤリと口角を上げて、意地の悪い笑みを浮かべた。
「僕が桜の事好きになったから、種明かしに来たわけか」
相変わらずな父の態度に僕は思わずため息をついた。
昔からこの人は本当に変わらない。
人を手のひらの上で転がしてその過程を楽しんでいる。
「流石は私の息子だ、察しがよくて助かるよ。まぁ……少しばかりタイミングが遅かったみたいだがな」
「全くだよ!」
「まぁまぁ怒るときれいな顔に皺が増えるぞ……今は立派な勲章が刻まれているようだがな……」
父は思い出したかのように、ククッと喉で笑っている。
「そんな事ばかり言ってると、母さんに言いつけるよ?」
「すまない、コハク! 私が悪かったから、雪乃には黙っておいてくれないか。この通りだ、頼む!」
僕がジト目で睨みながらそう言うと、父の額は急に床と仲良くなったようで、ピタリとくっついている。
「じゃあとっておきの話をしてあげよう!
お前の大好きな桜ちゃんの事だ! 聞きたいだろう?」
「桜の事?」
桜の名前を聞いた途端直ぐに反応してしまう単純な僕の心は、相当彼女に飢えているらしい。
「お前が生死の境を彷徨ってた時の話だ。私は桜ちゃんの意思を問うために彼女に会った。その時あの子は、『コハクが私の事を覚えていなくても傍に居て支えたい』ってそれは健気に語ってくれたよ。あそこまでお前の事を思ってくれる子は他には居らぬよ」
「桜が……そんな事を……」
父の言葉に僕の胸はキュっと締め付けられるような痛みを感じた。
桜が最後に言ってくれた言葉を思い出し、過去の自分は相当幸せだったに違いないと思わずにはいられなかった。
だけど、今の僕にはその幸せを自ら汚してしまった事実が重くのしかかってくる。
「だから雪乃には……」
本当に母の事になると父は人が変わる。
よほどカッコ悪い所は見せたくないのか、いつも必死だ。
その片寄った恋愛観を幼い頃から見てきたせいで、僕も父の影響を受けているのだろうか。
でも、何があっても母を死ぬ気で守り抜く父の背中は少しだけ僕の憧れだったりもする。
あそこまで、本気で人を好きになれて、父はきっと幸せなんだと思うから。
「分かったよ。それで、父さんはどうやって母さんと仲直りしたの?」
桜と仲直りするのに、少しは参考になるかもしれないと、僕は父に尋ねてみた。
「それはだな………来る日も来る日もめげずに雪乃の元に通い続け、ゴミを見るような目で見られてもひたすら耐え忍んで謝り続け、そして半年が経った頃、『迷惑だからもう来るな!』とやっと口を聞いてくれたのだ」
うんうんと懐かしそうに頷きながら、父は語ってくれたけど、ツッコミ所満載な話に、僕はかなり呆れていた。
それ、仲直りしたんじゃなくて、苦情言われただけなんじゃ……
父の感性は何かがおかしいと思ってはいたが、最近益々酷くなってきた気がする。
「まぁ、その後ケンが取り持ってくれて何とか許してもらえたんだがな」
「全然参考にならない話をどうもありがとう」
やはり相談するのは父よりケンさんの方がいいと、僕はこの日再認識させられた。