3、恋煩い(コハク視点)
病院から退院して三日が経った。
全然出来ていなかった学校の課題をさっさと終わらせ、僕は暇をもて余していた。
暇になると、考えるのはいつも桜の事ばかり。
たった三日会ってないだけなのに、寂しくて仕方がない。
これならもっと入院していた方がよかったなどと、邪な考えが頭をよぎる。
その時、チャイムか鳴ったので玄関へ向かうと、ケンさんが訪ねてきていた。
「悪ぃな退院の時、顔出せなくて。これ、退院祝い」
そういってケンさんは、軽く手を掲げて紙袋を見せる。
お礼を言ってリビングに通し、ブラックのアイスコーヒーと灰皿を出した。
「おーさんきゅ。あれから調子はどうだ?」
そう言うと、ケンさんはアイスコーヒーを一口飲んだ。
「身体はもう何ともありません。ただ、桜の記憶はまだ戻らなくて」
僕の言葉にケンさんは、持っていたグラスをおき、眼鏡をクイッと上げてこちらを見た。
「ほぅ、もう名前呼び捨てしてんのか。基本他人は苗字でしか呼ばないお前が珍しいな」
「それは……彼女ともっと仲良くなりたかったので」
恥ずかしくなって、僕は少しだけ視線を逸らして答えた。
確かに僕は、基本苗字にさん付けか君付けでしか呼ばない。
むしろ、それさえ呼ばない事の方が多いかもしれない。
正体がバレるわけにはいかないので、必要以上に仲良くならないためという理由もあるけれど、正直言うと興味がない人の顔と名前が一致しないという点も大きい。
でも、彼女は違った。
桜の笑顔を見て、僕の心はおかしくなった。
あの時、純粋に仲良くなりたいという感情が自然とあふてきたんだ。
その心はとどまる事を知らなくて、日に日に強くなっていって僕の心はかき乱されてばかり。
気がつくと、何をするにしてもまず桜の事を考えてしまっていて、相当重症な恋煩いにかかってしまった。
「知ってたか、コハク。偶然通りかかって見かけたんだが、お前の検温行くのにナースセンターが戦場のようになってたぞ」
ニヤニヤとした顔でケンさんはそう言って、煙草に火をつけた。
「それは知りませんでした」
「それにお前の病室の前に、いつも女の人だかりができてたぞ」
「なんかやけに視線を感じてたのはそのせいだったんですね」
ちょっと部屋から出て売店行ったりして帰ってくると、部屋の前になんか手紙付きで色々置かれてる事が結構あった。
封を開くと、好きですとか、一目惚れしましたとか色々書かれてたけど、正直興味なかった。
桜に見られて変な誤解されても嫌だし、貰ったものは全部ナースセンターに持っていって処分してもらっていた。
結構それで往復させられてかなり迷惑だったのが現実だ。
「それだけモテてんのに、お前の目に映る女は一条だけなんだな」
「……そうみたい、ですね」
今まで僕にとって可愛く見えて、一緒に居たいって思えたのは桜だけだ。
昔、父が言ってた事が今になって分かった気がする。
『私にとって雪乃以外女に見えない。いつかコハク、お前にもそういう女が現れたら……その時は、何があっても守り抜けよ。それが、我々白狐一族の血を引く者の宿命だ』
父にとっての母がそうであるように、僕にとって桜はきっとそういう存在なんだろう。
「記憶なくても本当変わらねぇな。お前の場合、たとえ何度忘れようが、その度に何度でも恋しそうだな。同じ相手に」
ケンさんは一息で白い煙を吐き出して、遠くを眺めながら静にそう呟いた。
「それ、どういう事ですか?」
「そのままの意味だ」
「僕はもしかして……」
記憶を失う前も、桜の事が好きだったのだろうか。
「本当、親子揃って盲目な奴等だよまったく」
そう言ってケンさんは、ククッと喉で笑った。
「父さん程じゃないですよ」
父の目にはきっと、母しか映っていない。
そう思えるくらい、母と周囲に対する態度が違う。
どこかへ食べに行こうとして、母と僕が違うものが食べたいと言った場合、迷いなく父は母の言うことを聞く。
母と僕が海で溺れていたら、迷いなく父は母を最初に助けて、僕には掴まるものを投げてくれたらいいい方だ。
むしろ、そのまま忘れられる可能性が高いから。
母が僕の事を言ってくれなければ、確実に気付いてもらえない。
実の息子でさえその扱いだから、他人にはどうなのか考えるだけで恐ろしい。
「俺から見たら対して変わらんな」
「あそこまでは酷くないです!」
少なくとも、そう信じたい一心で僕は強く言った。
僕の言葉に、ケンさんは何かを思い出したのか、ツボにハマったかのように腹を抱えて爆笑している。
その様子を僕はジト目でしばらく眺めていた。
一通り笑って落ち着いた後、爆笑し過ぎて悪いと思ったのか、ケンさんゴホンとわざとらしい咳払いをして真剣な顔をして尋ねてきた。
「コハク……お前は記憶を取り戻したいか?」
「出来ることならすぐにでも取り戻したいです。でも、過去の話を聞いても全然実感わかなくて。今の僕が何のためにここに居るのか、理由さえも分かりません」
ケンさんは僕の言葉を聞くと、ニヤリと口角を上げてこう言った。
「一つだけお前にヒントを与えてやろう。お前が聖学に転校してきたのは、全てはお前自身の意思だ」
「僕自身の意思……」
「『でも、だって、僕なんか……』昔はよくそう言って、やる前から諦めていただろう。そんなお前を変えてくれたのは誰だ?」
幼い頃の僕は、本当に何も出来なかった。妖界でも人間界でも中途半端で、普通の人が当たり前に出来ている事をするのでさえ、難しかった。
だから僕達は、二つに分かれたんだ。妖怪に特化した人格と、人間に特化した人格に。
生きる希望をくれたあの子に、優しさを教えてくれたあの子に、認めてもらえる自分になりたかった。隣りに並んでも恥ずかしくないように、だから僕達は必死に頑張ったんだけど……あれ、あの子って……誰だっけ?
「分かりません……」
心にポッカリと空いた大きな穴はもしかすると、あの子の事なのかもしない。忘れているのが桜の事だけだとしたら、あの子の正体は……
「お前はある目的のためにここに来て、それを達成した。だが、大切なものを守るために大怪我をして、大事な記憶を失った。それだけ言えば、何となく想像出来るだろ」
今の僕に大切なものなんて一つしかない。
もしそれが、今も昔も変わらないとしたら……
「僕は桜を守るために怪我をした……それってつまり……僕は彼女のためにここに来たって言うことですか?」
僕の質問に、ケンさんははっきりと肯定も否定もしなかった。
「それがお前の行動理念の全てだと、俺は思っているが」
「そうだったんですね……少しだけ分かる気がします」
ケンさんのその言葉で、僕の考えは間違いではないと教えられた気がした。
「まだ夏休みも残ってるんだし、一条を遊びに誘ってみたらいいじゃないか。それが多分、記憶取り戻す一番の近道だと思うぞ」
「入院中、遊ぶ約束はしたんですけど、いざ連絡をとろうと思うとドキドキして手が震えて……」
僕の言葉にケンさんは一瞬哀れんだ目をした後、
「……まぁ、頑張れ。さて、お邪魔したな。そろそろ帰るわ」
そう言って、僕の肩をトントンと叩いて帰っていった。