1、僕の心をかき乱す人(コハク視点)
初めて病室で桜を見た時、僕には彼女が誰なのか全く分からなかった。
会ったことない赤の他人、でもそれにしては彼女が僕に向ける眼差しがあまりにも優しすぎる気がする。
危ない所を助けてもらったクラスメイトなんて言ってたけど、とてもそれだけには思えなかった。
先生の診察と身体の検査を終え部屋に戻ってきた僕は、ベッドに腰かけて茜色に染まった空を窓からボーッと眺めていた。
どうやら僕は、あの子の事だけ綺麗にすっぽりと記憶が抜け落ちているらしい。
先生は脳の負担になるから、今は無理して思い出さなくていいと言うけど、僕はどうしても考えずにはいられなかった。
「起きてて大丈夫なの?」
その時、桜が僕の近くまで来て声をかけてきた。
「あ、一条さん。また来てくれたんだ。全然平気だよ、僕身体は人より頑丈だから」
まさか、彼女の事を考えていて本人が現れた事には驚いたけど、心配そうに僕を見つめてくる彼女を安心させるために、僕は窓際まで歩いてみせた。
「そうなんだ? でも、あんまり無理はしないでね」
大きな瞳をクリクリさせてこちらを見る彼女が、小動物を連想させて可愛いかった。
「うん、ありがとう。一条さんは優しいね」
彼女を見てると、僕は何故か自然と頬が緩む。
そんな僕を見て、彼女が不意に一瞬哀しげな表情をした。
しかし次の瞬間には、無理に笑おうとしているのか泣き笑いみたいな感じになってしまった。
「どうして僕は……君の事だけ覚えていないのかな?」
何故、そんな顔をするのか知りたくて、僕は彼女の瞳を見つめて問いかけた。
その言葉に、彼女は瞳を潤ませて今にも泣き出してしまいそうな顔をする。
「ごめん、僕が変な事を言ったから悲しませちゃったかな……」
それ以上見ていられなくて、気がつくと僕は、彼女の頭をポンポンと優しく撫でていた。
「絶対思い出すから、安心して?」
そして彼女の目線の高さまで屈んで、安心させるように優しく微笑んでいた。
正直、自分の行動が少し信じられなかった。
今まで僕は、女の子に笑顔で応対する事はあっても、こんなに優しく触れた事はない。
触れたいと思わないし、出来ればあまり近寄りたくないのが本音だ。
妖怪の女の子は高飛車で僕を視界には入れたがらないけれど、人間の女の子はやたらと恍惚とした眼差しで見つめてきて、その落差が怖い。
距離を詰められると無意識のうちに避けて予防線を張っている。
それでも空気読めない子はやたらとベタベタしてきて、本当にうんざりだ。
でも何故か桜を見ていると、僕の手は無意識のうちに彼女の方へ伸びていて、全然不快に思わない。
むしろ、もっと触れていたいと思う自分に気づいて驚きが隠せなかった。
「ありがとう、結城君」
美しい花が咲いたかのように柔らかくて温かい笑みを浮かべる桜。
その顔があまりにも可愛すぎて、胸がトクンと強く高鳴るのを感じた。
次第にそれは強くなり、心の奥底から際限なく温かいものがあふれてきて、身体全体をドロドロに熱く焦がしていく。
赤くなっているであろう顔を見られるのが恥ずかしくて、僕は思わず目を逸らす。
でも、彼女ともっと仲良くなりたいと思って照れ隠しに頬をポリポリとかきながら
「良かったら……名前で呼んでくれないかな?」
気付いたらそんな事を口走っていた。
「コハク君」
「君はいらない」
「コハク」
彼女の口から自分の名前を呼ばれただけなのに、僕の胸はまたトクンと高鳴るのを感じた。
もっと彼女のことが知りたい。
もっと色んな表情を見てみたい。
今まで抱いたことないような感情が次々にあふれてくる。
彼女の笑顔を見るたびに、僕の心臓はドキドキと刻む鼓動がどんどんと早くなっていく。
気が付くと、目の前で無邪気にニコニコと微笑む桜で僕の胸は一杯になっていた。
夢うつつな状態だったためか、自分の頭の上に獣耳が出ている事にも、彼女が背伸びして僕の頭上に手を伸ばしていた事にもすぐに気づけなかった。
「え……あっ、やめ……ッ」
彼女が嬉しそうに僕の獣耳に触れて、そのゾクッとした感覚で一気に現実に引き戻された。
情けない声をあげた羞恥心から、僕は潤む瞳で彼女を睨んだ。
「あ、ごめん……可愛くってつい……誘惑に負けた」
桜は焦ったようにじわじわと後ずさって逃げようとしていた。
「もしかして、桜は僕の秘密を知っていたの?」
しかし、僕がそんな彼女を逃がすわけがない。
彼女の反応は明らかに僕の正体を知った上での行動だったから。
「えーと……うん、まぁ……知ってました。でも大丈夫! 誰にも言わないから許して!」
桜の背中は壁に阻まれ、それ以上後ろへ下がることは出来ない。
慌てて横へ逃げようとする彼女の退路を僕は手で塞いだ。
「ねぇ……僕達、どういう関係だったの?」
真実を知りたくて僕は彼女の瞳をじっと覗き込んだ。
「た、ただのクラスメイトだよ?」
視線を泳がせながら彼女はそう言って、しまいには顔を横に向けてしまう。
益々怪しいと思い、僕は彼女の顎に手をかけ前を向かせると、強制的に視線を合わせた。
「ただのクラスメイトに、僕は正体をばらしたりしないよ」
「と、友達だよ」
だから、そんなに瞳を泳がせても説得力ないんだけどな。
「僕、友達にも正体はばらさないよ?」
僕の言葉に桜は苦しそうに顔を歪め、「……利害の一致した偽の恋人」とぼそりと呟いた。
(利害の一致した偽の恋人……偽の恋人…か)
何の理由があってそんなことをしてたのか理由は分からないけど、中々楽しそうだ。
桜の傍に居る口実が出来るわけだし、それはそれで悪くない。
「そうなんだ……ねぇ、桜。その関係継続出来ないかな?」
僕の言葉に彼女は瞳をぱちくりとさせて驚いている。
「え、どうして?」
「君と一緒にいれば、忘れた記憶を取り戻せそうな気がするんだ。ダメかな?」
これは僕の本当の気持ちだった。
今の僕は心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったように虚無感を感じる。
大切な何かが決定的に欠けた状態のように、僕がここに存在している理由自体を見失ってしまったような気分。
桜に関する事だけ忘れている以上、彼女は僕にとって間違いなく大事なキーパーソンだ。
どんな形でもいいから、どうか傍に居させて欲しい。その一心で、僕は彼女にお願いした。
「だめじゃないけど……」
戸惑いながらも、桜は了承してくれた。
「良かった。これからよろしくね、桜」
そう言って笑いかける僕に、桜は少し苦笑いしていた。