5、尊い涙
残った数学の課題は、次の日美香が教えてくれて何とか目処がつく。朝はクッキーの散歩、昼は課題、夜をストラップ作りに当てて、夏休みは残り三日となった。
そんな日の朝、クッキーの散歩をしていると、カナちゃんから電話がかってきた。
「あ、もしもし桜? 良かったら今日昼からどっか遊びに行かへん? 結局あれからゆっくり話もされへんかったし」
昼から残りの課題を終わらせようと思っていたわけだが、折角バイトで忙しいであろう合間に電話してきてくれた事を考え、了承することにした。
「うん、いいよ」
「ほんなら、昼の一時に聖奏公園の時計台前に集合な。動きやすい格好で来てや」
「おっけー」
それからクッキーと散歩を楽しんで、家に帰って軽くシャワーを浴びお昼ご飯を食べた。
部屋に戻って適当にタンスからジーパンとシャツを引っ張り出し、腕の傷を隠すために上から薄手のカーディガンを羽織る。
櫛で髪をといて1つに束ねて準備を整えると、私は聖奏公園に向かった。
時刻は待ち合わせのギリギリ1時前、時計台の前に来るもカナちゃんの姿が見当たらない。
「桜、こっち、こっち」
どこからか私を呼ぶ声が聞こえ辺りを見渡すと、少し離れた木の影からカナちゃんが姿を現した。
「どうして隠れてるの?」
「え? いや~暑いなぁ思うて影で涼んでたんやて」
わざとらしく手をうちわ代わりにパタパタと顔を扇ぎながら、カナちゃんはニコニコと胡散臭い笑みを浮かべている。
そして、話題を逸らすように突然の無茶ぶり。
「それより桜! 遅刻やで。遅れた罰として一発芸やって」
「まだギリギリセーフだよ!」
「ちっ、運のいい奴め。ほな行こか」
「うん……ってどこ行くの?」
私の質問にニッコリと口元に笑みをたたえるカナちゃん。
「地獄のマラソンツアーにご招待しまーす。ええか、今日はまわんで」
どうりで動きやすい格好で来てと言ってたわけだ。
思わず顔をひきつらせた私の手を掴んで、カナちゃんはそのまま走り出した。
「え、ちょ、まっ……うわ!」
突然の事にバランスを崩しそうになりつつも何とか持ち直し、私は公園内を全力疾走していた。
カナちゃんにグイグイと手を引っ張られて、これまでの最高記録かと言わんばかりのスピードが出ている。
「もたもたしてたら日暮れてまうやろ。桜、前より身体なまったんとちゃうか?」
ハァハァと息が上がる私に対し、カナちゃんは何とも涼しそうな顔でそう言った。
「確かにそうかもしれないけど、まだまだいけるよ」
それが何だか悔しくて、張り合ってみると「おっけーじゃあもうちょい飛ばすで」と、さらに加速されてしまう。
「ぎょーえー」
全身がミシミシと嫌な音を立てて引き裂かれそうな感覚に、私は奇声を発しながら走っていた。
「大丈夫か? ちょっと休んでこか」
「……うん」
気が付くと公園を抜けて、アーケード街の入口まで来ていたようで、私たちは近くの喫茶店に入った。
「あら、奏君いらっしゃい」
「あ、幸子さん髪型変えたやろ? 前よりめっちゃええ感じで似合うとるわ」
喫茶店に入るなりお店のママに声をかけられたカナちゃんは、甘いマスクでパチっとウィンクをした。
「やだもう、奏君ったら! おだてても何も出ないわよ」
「何言うてんの、幸子さんのその可愛い笑顔見れただけで俺満足やわ」
大袈裟に驚いてみせた後、カナちゃんはニコッと天使のような笑みを浮かべる。
「もう! 本当上手なんだから! 特別サービスでスペシャルパフェをご馳走しちゃうわ!」
頬を赤く染めて嬉しそうに手をブンブンと振っているママに
「そんなええのん? おおきになぁ」
カナちゃんはぱっちりと大きな瞳を見開いた後、とろけるような笑顔でお礼を言う。
目の前で繰り広げられる光景に、相変わらずだなと私は感心させられた。
彼はとにかく人を褒めるのが上手いのだ。
そして、持ち合わせた端正な容姿と甘いマスクを最大限利用して、お店に入ると何かしら無料でもらってくる。
昔は女の子を演じていたカナちゃんのターゲットは、おじさんやお兄さんだった。
だけど成長し路線変更したのか、おばさんやお姉さんを狙っているようだ。
「桜、パフェもろたからやるわ」
そして、その戦利品を頂くのは私の役目だった。
席について、適当に飲み物を注文する。
店内はアンティーク調のお洒落な内装が印象的で、ゆったりとした空気が流れていて落ち着く癒し空間だ。
ふかふかの椅子に座っているだけで、先程の激しいマラソンの疲れが綺麗に洗い流されていく。
運ばれてきたアイスココアと、戦利品のパフェを頂きながらほっと一息ついた。
「カナちゃん相変わらずだね」
「世の中使えるもんは使わな損やろ? 賢く生き抜くための戦術やで」
そう言ってカナちゃんは、ニィっと口の端を持ち上げて笑った。
「久しぶりに聞いたよ、その台詞。いつから路線変更したの?」
「引っ越してからやな。その後から身長も伸びてきて女のフリするのしんどくなってもうてな。桜は俺が女のフリしてた方がよかってんか?」
大きな瞳をクリクリとさせて尋ねてくるカナちゃんに「んー見た目が女でも男でもカナちゃんはカナちゃんだよ」と私は笑って答えた。
すると彼は瞳を優しく細めて、柔らかな笑みを浮かべる。
「お前は本当変わらんなぁ……桜のその言葉で俺、色々吹っ切れたんやで。お前は知らんやろうけど」
「ん?」
何の事か分からず首を傾けた私に、彼は喉で笑うとストローで氷をかき混ぜながら言葉を続ける。
「昔はよう女みたいな容姿でからかわれるんが嫌やった。せやけど、お前の言葉で……俺は俺やと受け入れる事が出来た。そしたら案外この容姿も悪くないって思うてな、最大限利用してやろうと思ったわけや」
ある日突然カナちゃんが女の子の格好をし始めた時はさすがに少し驚いたけど、まさかそれが私のせいだったとは。
カナちゃんがあのまま成長してなくてよかったと、ほっと胸を撫で下ろす。
最大限利用するうちに心まで性転換していたとしたら、折角の一人息子を失うおじさんやおばさんに申し訳がたたない。
「カナちゃん商店街のおじさん達に人気だったもんね」
通学路として利用していた商店街で、カナちゃんはアイドル的存在だった。
当時の彼は天使のように可愛らしい容姿をしており、男だと言っても誰も信じない程の美少女。
彼が笑って挨拶をすると、店のおじさん達が『よかったらお食べ』と何かしら差し出してくれるのだ。
「懐いなぁ~あそこのおいちゃん達は、ちょいと褒めてニコニコ愛想振りまいとったら色々おまけしてくれよったもんな」
「今頃こんなになってると知ったらショックだろうね。将来は商店街のご当地アイドルにって勧誘されてたぐらいだし」
「夢は夢のままやから美しいんや。無理においちゃん達の幻想壊すこともなかろうて」
「今でも女装したら案外いけるかもよ?」
体格はいいが顔は可愛い。かつらを被って体格を隠す服装に変えれば……うん、完璧に女の子だ。
「おいちゃん達が変な道に目覚めたらどうすんねや。俺、責任とれへんわ」
「カナちゃんならやれるって」
「ほうか? なら頑張ってみよかな」
「おう、頑張れ」
「ほな、行ってくるわ」
「行ってらっしゃい」
「ってあかんやろ、お願いやから止めてくれや!」
相変わらずの懐かしいやり取りに、お互い目を合わせてケラケラと笑いあった。
「そういえば、桜はまだ空手続けてるん?」
思い出したかのように尋ねてきたカナちゃんに「色々あって、今はやってないんだ」と、私は少しだけ視線を逸らして答えた。
「あんだけ空手バカやったのに、やめてもうたんか……」
「うん……」
悲しそうにそっと目を伏せて、カナちゃんは遠慮がちに尋ねてきた。
「ここに引っ越して来たことと関係あるん?」
心配そうな顔でこちらを見ている彼に、「そんな面白い話じゃないしさ……」と私は苦笑いをもらす。
折角久しぶりこうやって会うことが出来たのに、暗くなる話をするのは避けたかった。
「俺とお前の仲やんか……よかったら聞かしてくれへんか? 俺が知らんお前の事、もっと知りたい」
昔は同じマンションの隣の部屋に住んでいた事もあり、家族ぐるみの付き合いで、何でも相談し合える仲だった。
彼が引っ越してからは疎遠になってしまったものの、義理人情に厚い彼は放っておけないのだろう。
カナちゃんの真剣な眼差しをじっと見つめ返した後、私はゆっくりと過去を話し始めた。
美希との出会いから思い出、悲劇が起こった日の事、引っ越した経緯と今の学園で美香と出会って紆余曲折あって、今は和解して仲良くなった事。
私の話をカナちゃんは真剣に聞いてくれた。
「苦労してきたんやな……そんな大変な時、傍に居てやれへんかってごめんなぁ……」
そう言ってカナちゃんは、目に涙を滲ませたかと思うとあっという間に頬を濡らして、しまいにはしゃくりをあげて号泣し始めた。
「泣かないでカナちゃん。商売道具の顔が台無しだよ」
「今はそんなんええんや、お前のために、その友達のために泣かせてや」
それからしばらく彼は大粒の涙を流し続けた。
見た目が変わってもカナちゃんはやっぱりカナちゃんだと、私はその時再認識させられた。
彼は人の痛みに敏感で、私が悲しい時や辛い時は必ず傍に居てくれた。
そして、隣で私よりぎゃんぎゃんと泣いて逆に私が彼を慰めていた程だ。
でも、私の代わりに流してくれたその涙は、優しい思いやりにあふれていて、とても尊く思えた。
それから私たちは喫茶店を出て「今日はぎょうさん遊び倒すで」と言うカナちゃんに連れられ色んな所を回った。