2、嫉妬
「桜、今の人誰?」
背後からものすごく低くて冷たい声が聞こえてきた。
恐る恐る振りかえると、眉間にシワを寄せてコハクが端正な顔を歪めている。
「あ、コハク……さっきの人、カナちゃんっていって私の幼馴染みなんだ。彼は小三の終わり頃引っ越して離れ離れだったんだけど、偶然今再会したの」
今まで見たことない程、コハクは不機嫌そうなオーラを醸し出している。
「そうなんだ……じゃあ、行こうか」
「うん……」
コハクは踵を返すと、公園から足早に出ていく。
いつものように優しく手を差し出してくれる事はなく、私は彼の後を必死に追いかけ、後ろから付いていくので精一杯だった。
だから、彼がどこに向かっているのか分からなかった。
十五分程歩いて、コハクが立ち止まり入って行ったのは、見知らぬ高級マンション。
エレベーターに乗り込み、彼は迷いなく最上階のボタンを押した。
「あの……何処へ向かってるの?」
ビクビクしながら私が尋ねると「僕の家」と、コハクは一言短く言った。
エレベーターから降り、重厚そうな扉の前で立ち止まり、彼は鍵を開けて家の中へと入って行く。
玄関の前で立ち止まったままの私を見て「どうしたの? 入らないの?」とコハクは抑揚のない声で問いかけてくる。
どうやら不機嫌ではすまされない程、彼は怒っているようだ。
「あ、ごめん」
これ以上怒らせてはいけないと、私は慌てて中へ入る。
廊下を抜け、一番奥の部屋へ案内された。
広々したその部屋は白を基調として、所々にモカのアクセントがあり、ほんわりと温かな印象を受ける。
そんなに物がなくシンプルだけど、一つ一つ置かれている家具がお洒落で部屋の主のセンスの良さがうかがえる。
初めて来たコハクの部屋に、以前の私ならドキドキと幸福感で満たされていたに違いない。
でも今は、彼を怒らせてしまった悪い意味のドキドキと不安で押し潰されそうだった。
俯いたままふかふかのクッションに腰を下ろし、ただ彼が来るのを待っていた。
少しして、コハクはアイスコーヒーと美味しそうなクッキーを携え戻ってきた。
彼はそれをガラスのテーブルに並べ、私の横に座る。
「いつまで俯いてるの? 課題、早くやろうよ」
「あ、うん、ごめんなさい」
コハクの言葉に、私は慌てて鞄から課題のプリントを取り出した。
「とりあえず、解いてみて」
「うん」
「待って、そこ間違ってる。そこはこっちの公式に当てはめるんだ」
「なるほど……」
「違う、計算間違ってるよ」
「はい……」
「また間違ってる」
「ごめん」
昨日の電話とは打って変わって、全然内容が頭に入ってこない。
指摘される度にコハクの事が気になってビクビクしてしまい、単純な計算ミスを連発した。
申し訳無さと焦りから、頭が真っ白になり何の公式を使えばいいのか分からなくなる。
そしてまた計算ミスをしてしまい、どんどん負のスパイラルに陥っていく。
時折聞こえてくる彼のため息が、私の心に重くのしかかる。
このまま嫌われてしまったらどうしようという不安で、胸が一杯になった。
「ねぇ、桜。さっき……とても楽しそうだったね?」
その時、コハクが低い声で呟くように尋ねてきた。
「え……あ、うん。久しぶりだったから嬉しくて」
彼の言葉に、私の身体は驚きで一瞬大きくビクリと震える。
「じゃあ、何で今はそんなに怯えてるの?」
怒気が色濃く見えるコハクの眼差しが、私に針のように鋭く突き刺さる。
「ごめんなさい、ミスしてばかりでコハクに申し訳なくて」
彼の怒りを静めようと、私はコハクの目を見て謝ったものの、感じた事のない恐怖心から耐えきれずに視線を逸らしてしまった。
「彼とはとても楽しそうだったのに、僕の前ではとても苦しそうだね」
コハクは端正な顔を歪めて自嘲気味に笑った。
「そんな事ない。コハクと一緒に居れて私は楽しいよ」
今度は視線を逸らさずに、必死に否定しても
「……そうやって平気で嘘つくんだ?」
問いかけてくるコハクの瞳には私が映っているようで、映っていない。
「嘘じゃないよ」
そう言いつつも、どこか虚ろな瞳をしている彼から、私は無意識のうちに距離をとっていた。
「じゃあ何で逃げるの?」
「それは……今のコハクがおかしいから……」
ジリジリと座ったまま後ろへ下がると、背中が程よく弾力のある布地にぶつかる。
「生憎、僕には君の記憶がないから、昔どういう風に接していたかなんて分からないんだ」
コハクは虚ろな瞳のまま、私の方へ近付いてくる。
底知れぬ恐怖がわき上がり、それ以上後ろには下がれないと頭では分かっているのに、身体が逃げるために下がろうともがく。そのせいで押し付けられた背中が痛い。
「それでも、今のコハクはコハクじゃない」
「昔の僕はもう居ないんだよ。分からないなら、教えてあげようか?」
逃げ場を失った私は彼の心に必死に訴えかけるけど、虚ろな瞳のコハクに私の言葉は届かなかった。
立って逃げようとした私を、コハクは無理矢理ベッドに押し倒した。ギシリと、ベッドのスプリングが大きな音を立てる。
病み上がりだから身体を大事にしてと、私を労ってくれた優しい彼はもうどこにも居ない。
コハクは私の両手を己の左手で上方に固定すると、貪るように何度も深く唇を重ねてきた。
シャツの裾から侵入してきた手が素肌を撫でるように這って、背筋にゾクリとした刺激が伝わる。
振りほどこうとしても彼の強靭な手枷はピクリともせず、大好きな人からされるその行為が、こんなに悲しいと感じたのは初めてだった。
コハクが私の事を愛してくれているのならば、全然そんな事は思わなかっただろう。
無理矢理手を押さえつけなくても、コハクなら拒否したりしないのに。
これではまるで、罰を与えられているみたいだ。そんな現実が苦しくて、悔しくて仕方がなかった。
頬をつたう涙が、止まること無く流れ続けてゆく。
抵抗するように口を固く閉じると、一旦唇を離したコハクは、私の顔を見て悲しそうに眉間にシワを寄せ瞳を揺らしていた。
その時動揺したのか、私の両手を押さえつける左手の力が弱くなっていた。
それを私は見逃さなかった。
渾身の力でその手を振りほどき、私は自由になった右手でおもいっきりコハクの頬を叩いた。
「どうして……どうしてこんな事するの?」
「桜……」
コハクは驚いたように目を丸くして私を見ている。
「コハクの事、大好きだったのに……無理矢理こんな事しなくても、私は貴方の事、愛してたのに……コハクの馬鹿!」
私は彼を思いっきり突き飛ばしてベッドから脱出した。
そして机にひろげたままの課題のプリントを無理矢理鞄に押し込み、逃げるように部屋を去った。