1、君の名は?
夏休みも残すところ後一週間ぐらいになってしまった。
コハクは無事退院し、私は学校の課題を前に頭を抱えていた。
今まで朝はクッキーの散歩、昼はコハクのお見舞い、夜を課題の時間に当てていたわけだが、道のりは中々険しい。
何とか英語と国語は目処がついたけど、難関の数学の課題がどうにも捗らない。
姉に聞いても『あたし文系だから無理』と全く頼りにならない。
今日こそはと思い数学の課題プリントを机に置いて睨み合っていたものの、応用問題になった途端、全く分からない。教科書や参考書を無駄にパラパラとめくるも解決の糸口さえ掴める気がしない。
携帯で時間を確認すると、もう夜の十一時をまわっている。その時お知らせランプが光っていることに気付いた。確認すると、三十分ほど前にコハクからラインがきていたらしい。
『もう寝ちゃったかな?』という質問に対し、『いま数学の課題やってるところだよ』と返しておく。そしたらすぐに返事が来た。
『まだ終わってなかったの?』
『プリント後十枚残ってる』
『……ほぼ全部だね』
『コハクは終わった?』
『昨日全部終わらせた』
『一日で?』
『二時間ぐらいあれば出来るよ』
に、二時間で出来るだと?!
私は問題を見て、分からないから教科書と参考書で似た問題を探し、その解説を理解するのにさらに時間を要し、気づけば日にちが変わっている。
そして睡魔に負け、結局一日二問解けたらいい方ぐらいの超スローペース。
それを二時間で全て終らせるなんて……その頭脳を少しでいいから分けて欲しい。
ラインのやり取りをしてる間に十分が経過してしまった。
このままでは今日も課題が進まない。
『分からない所教えようか?』
『え、いいの?』
その時、コハクから電話がかかってきた。
「こっちの方が早いと思って。今どこの問題?」
「プリント二枚目の問三なんだけど……」
その後、コハクは丁寧に分りやすく教えてくれた。
問題ごとに公式や定義をスラスラと面白おかしく覚えやすいように説明してくれて、そこらの本屋に売ってる参考書より彼の解説はかなり高性能だった。
おかげで今日はプリント一枚分が、日付が変わることなく終える事が出来た。
「桜、よかったら明日続きしない?」
「え、いいの?」
「うん、暇だし手伝うよ」
「ありがとう、すごく助かる」
それから、待ち合わせ場所と時間を決めて軽く小躍りしたい衝動を抑えつつ電話を切った。
神様だ!
まさにコハクは神様に違いない!
ありがたや、ありがたや。
この感謝の気持ちが届きますようにと思わずスマホに合掌。幸せすぎて夢心地のまま、布団にダイブ。
明日に備えて寝ようとするも、苦手な数学の課題の目処が立ち、明日コハクに会える嬉しさで気持ちが高ぶり中々寝付けなかった。
翌日、コハクとの待ち合わせ場所、聖奏公園の時計台前へとやって来た。
公園まで家から歩いて十分ぐらいの道のり。
はやる気持ちを抑えきれずに少し早目に家を出たせいで、約束の時間の午後一時より二十分程早く着いた。
ここはわりと大きな公園で、入口近くの時計台は目立つため、待ち合わせによく使われる。
現に、私の他にも数人待っている人が居る。
「Excuse me!」
声をかけられ振り返ると、ミルクティー色のふわふわとした猫毛が印象的な綺麗な顔立ちの男の人が立っていた。お人形さんのようにパッチリとした二重に、吸い込まれそうな濃い綺麗なブラウンの瞳。センスの良さを感じさせるおしゃれな装いに、大きな文化の違いを感じた。
ど、どうしよう。外人さんに話しかけられた! 私の学力で、この試練を乗り越えられるのか?! まず、何を言えばいいんだ?!
「その様子やと、英語も苦手みたいやな~桜」
sonoyousu……あれ、関西弁? しかもかなり流暢な。そして何故私の名前を知っている?!
「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「えらく他人行儀やな。小さい頃よく一緒に遊んどってんやんか、覚えてへん? 西園寺 奏やねんけど」
聞き覚えのある名前に、私は思わず彼を凝視してしまった。
あまりにも昔と変わりすぎていて、名前を聞かなければ分からなかったから。
「え、もしかしてカナちゃん?」
「お、懐かしい呼び名やな。そうそうカナちゃんや」
西園寺 奏──彼は私の幼馴染みで、昔同じマンションに住んでいて小さい頃よく一緒に遊んでいた。
中性的な顔立ちで背も低く女の子みたいだったから、当時私はカナちゃんと呼んでいた。
よく見ると顔は相変わらず可愛らしいけど、背も伸び体格もよくなって、髪型もすっかり男の子みたいで当時の面影はほぼない。
「わー懐かしい! 何でこんなとこ居るの?」
「何言うてんねや、俺小三の頃ここに引っ越してんやんか。俺には桜がここに居る方が不思議でしゃーないねんけど」
「まぁ色々ありまして。てか、いきなり英語で話しかけないでよ!」
「もしかしたら英語なら得意になってんやないかな~おもて」
「それは他の教科が全滅だと言いたいのかな?」
「体育以外、残念なおにぎりマークがならんどったような……」
「普通! 今は普通だから!」
「しっかしまぁ、桜は変わってへんなぁ~すぐ分かったわ」
カナちゃんは顎に手を置いて、私を見ながらうんうんと一人頷いている。
「カナちゃんは変わりすぎてて分かんなかったよ」
「昔は俺、桜を見上げとったしな。今じゃ簡単に見下ろせるわ。頭とか肘置きにちょうどええやん」
そう言ってカナちゃんは私の頭にわざとらしく肘を置いた。
「ちょっと止めてよ! 肘置きじゃないから私の頭!」
「すまんすまんってあかん、俺今からバイトやねん。良かったら連絡先教えてくれへん? 今度ゆっくり話でもしようや」
「うん、いいよ」
それから連絡先を交換して、カナちゃんは「ほなまた~」と手を振って公園を出ていった。
まさかこんな所で幼馴染みに再会するとは夢にも思っていなかった。
懐かしい再会が嬉しくて、上の空だった私の頬は完璧に緩みっぱなしだ。
そのせいで、その一部始終を眺めていた視線がある事に気づけなかった。