2、さぁ、地獄のお遊戯会へご招待しよう
「そんな事が……」
ウィルさんの痛々しい傷跡は、見世物小屋で過ごしていた時に出来たものなのかもしれない。話を聞く限り、相当劣悪で過酷な環境だったのが容易に想像できる。
そんな場所に、クレハが狐として売られていた。彼が若い女性に掴まって、無理矢理そうされたとは考えにくい。一年間どんな理不尽な目に遭っても耐え続けていたのは、間違いなく彼の意志だろうから。
そう考えると、彼等の間には何かしらの同意があったと考えるのが自然だ。
クレハには契りを交わしたソウルメイトが居たはず。
その人を盾に誰かに脅されたのか、あるいはその人自身にお願いされたのか理由は分からないけど、彼は自分を犠牲にして何かを必死に守っていたのではないだろうか。
そして、何らかの経緯で裏切られていた事実を知って暴走し、あの事件に繋がった。
「結果として、見世物小屋から解放され自由が手に入った事には感謝しています。しかし、その代償を考えるとあまりにも大きすぎて、手放しで喜べるものではありませんでした。頭部と身体を分断された妹の姿と、雪が赤く染まり血の海へと変わり果てた街の光景だけは、今でも忘れる事が出来ません。確かにあの街は治安が悪く、裏ルートで人身売買も盛んに行われ、滅んでしまって良かったのかもしれません。実際、いくつものマフィアが壊滅し、救われた人も多く居た事でしょう。しかし、犠牲になったのはそんな人々だけではありません。建前としては、あの街の唯一の生存者として、犠牲になった人々の無念を晴らすためにも、私は彼を断罪せねばなりません。しかし本音は、これ以上彼に罪を重ねてほしくない……抱える悲しみから、解放してあげたいのです」
何故、ウィルさんはそんなに悲しそうな顔をしてクレハの事を話すのだろう。
大事な妹さんを目の前で殺されて、どうしてそんな事が言えるのだろうか。
抱いていた感情を、私は思わず口に出してしまった。
「ウィルさんは、クレハが憎くないんですか?」
「あの当時、妹は病気を患い、もう……長くありませんでした。それでも、寿命より先に妹の命を奪ったことは憎いです。ですが正直、その憎しみより同情の気持ちの方が強いんです。彼が受けてきた苦痛を思い出すと、それは私や妹が受けてきたものの比をはるかに越えます。それでも彼は強い力をふるう事なく、怯えもせず、ただ耐え続けていました。普通の動物は人間に怯え、どんよりと瞳が濁っていくのに、彼の瞳にはそれが感じられず、揺るがない凛とした強さがありました。そんな彼の姿に、私と妹は……少なからず勇気を与えられていました。朝起きて傷の癒えた彼の姿を見る度にひどく安心感を覚え、今日一日また頑張ろうと、元気をわけてもらっていました。本来の彼は、強い意志と優しさを持ち合わせた気丈な人だったんじゃないかと思います。きっとあのような事件を起こさねばならないほど、何か辛い理由があったのでしょう。ゆっくり、休ませてあげたいのです。もうこれ以上、辛い思いに苦しまなくてすむように。なのでどうか……ご協力をお願いします」
隣からすすり泣く声が聞こえる。
逆隣からは……今は見ない方がいいだろう。
「すみません、湿っぽい話をしてしまって……」
「いえこちらこそ、辛い話をさせてしまって申し訳ありませんでした」
困ったように笑うウィルさんに、私は深く頭を下げることしか出来なかった。
橘先生とウィルさんが帰った後、部屋には重たい沈黙が漂っていた。
シロは始終無言で、すごく顔色が悪い。
カナちゃんは辛そうに眉間にシワを寄せ唇を噛み締め、難しい顔をしている。
今なら、第一の試練でクレハに『何故罪を犯したのか』と聞いた時、あんな返しをされた理由が容易に想像がつく。
何も知らない能天気な奴にいきなりそんな事聞かれたって、不愉快になるだけだよね、ほんと。
その時、シロが沈黙を破った。
「すまない、今は一人にしてくれないか? 西園寺、悪いが桜を家まで送ってやってほしい」
「それはかまへんけど、お前大丈夫か?」
「……ああ。少し疲れただけだ。頼んだぞ」
「シロ……!」
背を向け自室に戻ろうとする彼を思わず呼び止めると
「大丈夫、少し休めばよくなるから。気を付けて帰れよ」
振り返ったシロは無理に笑おうとして、それがひどく儚げに見えた。痛々しいほど空元気なのが伝わってきて、「ゆっくり、休んでね」と、そう言うのが精一杯だった。
短く返事をした彼は、おぼつかない足取りで自室へと戻っていった。
帰り道、暗い影を落としたままカナちゃんと一緒に歩いていると、盛大に転びそうになること三回、空から異物が降ってくること二回、自転車とぶつかりそうになること一回。
明らかに重なりすぎる不幸に、シロは間違いなく歩く魔除けのお守りだったのだと、彼の存在の大きさを感じていた。
急に立ち止まったカナちゃんは、真剣な顔をして口を開いた。
「桜……前言うたこと訂正するわ」
「急にどうしたの?」
「お前の意見、今なら俺も分かる気がする。あんな目に遭うて、人間不信にならん方がおかしいわ。試練いうて俺達を試してたんも多分、コハッ君とシロを守るためや」
「カナちゃん……」
もし私がクレハの立場だったら、大切な人が信じられない人達に囲まれて生活してる状況をただ傍観するなんて、多分出来ない。
どうにかして助けたいと思うはずだ。
本人に言っても聞く耳を持たない以上、周りの人々をどうにかする方が早いとクレハは判断した。
やり方は色々あるかもしれないけど、彼はあえて自分が悪者になって試す事を選んだのかもしれない。
命をいつ取られてもおかしくない状況に居るクレハは、たとえ自分が居なくなったとしても、コハクとシロの傷が少しでも浅くて済むように……
だけど、後から全てを知ったシロとコハクはきっと後悔する。どうして話してくれなかったのかって、悔やんでも悔やみきれないはずだ。
「俺、このままウィルさんにクレハがやられてまうんは嫌や。ゆっくり休ませるって、それもう二度と目ぇ覚まさへんってことやろ? 確かにそれで辛いことも悲しいことも、何も考えんでようなるかもしれへん。アイツが階段でこけてこっち見とった時の悲しそうな顔、あれは間違いなくクレハの本心そのものやったんや。ほんまに寂しくて寂しくてしゃーない顔しとった。このまんま『人間なんてどうしようもない屑の巣窟や!』なんて思わせたままなんは、嫌や。『人間も悪い奴ばかりやない』って事、ちゃんと知って欲しい。大切な人を守りたいって気持ちだけは、よう分かるからな」
カナちゃんの言葉に、思わず私はほっと胸を撫で下ろした。
「よかった、カナちゃんがそう言ってくれて。私一人じゃ、どうしていいか分からなかったから……」
クレハに話を聞きたくても、まともに取り合ってもらえない所か逆鱗に触れるだけだ。下手に問い質したら……ろくなことはなかった。
「クレハ、何やかんや言うても押しに弱いやろ? まずはあいつのペースに呑まれる前に、こっちのペースにハメてやんねや」
「こっちのペースに?」
不意討ちしようにも、普段どこに居るかも分からない以上待ち伏せなど出来ない。
クレハが姿を現す時は、大抵私達を何か罠にはめようとしてくる時だ。それを出鼻から挫ければそれも可能かもしれないけど……
「とりあえず、あいつを腹の底から思いっきり笑わせてみたいねん。いっつもすかした顔して、馬鹿にしたような歪んだ笑いしかせぇへんやろ?」
「そうだね、心の底から楽しそうに笑ってるとこ見たことない」
「せやから、アイツを地獄のお遊戯会にご招待すんで。こっちの遊びを知ってもらうための、おもてなしや」
楽しい悪戯をする前の子供のように、カナちゃんはニヤリと口の端を持ち上げた。
頭で色々策を巡らせているのだろう。それが顔に滲み出ている。
「カナちゃん……今すごい悪い顔してる」
「あかん、ちょっと楽しなってきた。とりあえず、次アイツが姿見せたらがっちり確保すんで。俺は右、桜は左、絶対逃がすなや?」
「おーけい」
そうこう話していたら、トボトボと元気のない足取りで歩いてきた優菜さんと、道端でばったり会った。