6、思い通りには動かない、それが人間だ
貴方の思い通りにはならないよ、クレハ。
私はキッと彼を睨み付けて、差し出されたその白い手を思い切り払いのけた。
「馬鹿にしないで! まだ時間はある。私は最後まで諦めない! カナちゃんと二人で絶対にここを脱出する!」
予想外と言わんばかりにクレハは目を見開いた後、ハッとしたように私から視線を逸らすと、今度はカナちゃんに向かって話しかける。
「じゃあ、幼馴染み君。その子を裏切るなら、君一人だけこの世界から出してあげるよ。どうかな?」
その言葉にカナちゃんは、にっこりと天使のような笑みを浮かべて答える。
「遠慮させてもらうわ。悪いけど俺、人よりめっちゃ諦めが悪いんや。その腐った目によう焼き付けとき。行くで、桜!」
そう言って私の手を掴むと、何故か屋上のドアとは逆の方へ駆け出した。
「か、カナちゃん?」
突然掴まれた手に、思わず心臓が驚き声が裏返ってしまった。
そのまま隅に設置された大きな箱の前まで来ると、カナちゃんはそれを開けて設置し始める。
「正直、ギリギリや。でも、階段かけ降りるよりかはマシやろ? お前は今のうちに少しでも座って休んどき」
残り時間は約五分。
確かに、校舎を一階までかけ降りて上っていくほど体力はもう残っていない。
でも、その半分ならなんとかいける、いや、無理でも行く!
カナちゃんだって私を抱えてここまで運んで来てくれたんだ。疲れてないはずがない。彼一人に無理させるわけにはいかない。
「さっき休ませてもらったから少し回復した。私も手伝うよ」
「桜……キツなったら早目に言うんやで?」
「うん、ありがとう」
危機的な状況であるのには変わりないけれど、先程感じた絶望感はいつの間にか吹き飛んでいた。
それもこれも、隣で支えて導いてくれるカナちゃんが居るおかげだろう。今ほど彼が居てくれてよかったと思えた瞬間はない程、感謝の気持ちであふれていた。
それにしても、火災の時なんかに使う救助袋を、まさかこんなタイミングで使う事になろうとは思わなかった。
昔一度だけ体験した事があるけど、垂直降下式で滑るこのタイプは中が螺旋状になっているためスピードはそこまで出ない。
しかし、高い位置から見下ろしたこの景色と、垂直に設置されたこの布袋のアングルが中々恐怖感を煽る。
カナちゃんと一緒にせっせと布袋を下ろしながら、その高さを改めて実感しているとクレハが話しかけてきた。
「君達……ほんと馬鹿だね。楽な道があるのに、何でそんな必死に抗ってるの? 他人蹴落として、自分が助かればいいのが人間なんじゃないの?」
しかし、今までの余裕しゃくしゃくで人を小馬鹿にしたような感じではなく、どこか戸惑っている様な声色だ。
「本当に大切ならな、人はその人のために命かけれんねや。可哀想やけど、お前が出会ってきた人間が、そうやなかっただけやろ。悪いけど、一緒にせんでもらえる?」
手は作業を進めながら、カナちゃんはその質問に答える。
「今からでも遅くない、どちらでもいいから。裏切るならこの空間から出してあげるよ、ねぇ……っ!」
焦ったように言葉を捲し立てるクレハ。
しかしそれと同時に救助袋の設置が終わり、これ以上話している暇はない。
「よし、行くで桜! 安全かどうか俺が先に試すから、合図したら真似しておりてき」
「分かった。ありがとう、カナちゃん」
カナちゃんはクレハの言葉を最後まで聞くことなく滑っていった。
下から「ええで~」という合図に、私も滑ろうと入口枠に手をかけると
「ねぇ、ちょっと待ってよ! 分からない、君達の思考が分からないよ」
焦ったようにして、クレハが私の服を掴んでくる。
振り返ると、まるで何かに怯える子供のようなその姿に正直驚いた。
何故だか分からないけど、このまま放っておいてはいけない気がした。その時、胸元の勾玉が熱を持つのを感じる。
今は迷っている時間が惜しい。放っておけないなら連れていくしかないじゃないか。一旦救助袋の入口から退いて声をかけた。
「だったら、貴方も一緒においでよ。ここに立って、手はこの上のとこを掴んで」
怯えるクレハをそこまで誘導して立たせた。
「嫌だよ、何で僕が……」
屋上から地面を見ておじけずいたのか、クレハは後ずさろうとしているけど──
「ごめん、今ほんとに時間ないから話は後!」
私はニッコリと笑って、問答無用で彼の背中を押した。
「えっ、ちょっとぉ……っ!」
クレハが何か叫んでたみたいだけど、そこは敢えて聞こえないフリ。
少しして下から「え、何でお前が滑ってくんねや?」という驚いたカナちゃんの声と「彼女が僕の背中を無理やり押したんだよ!」というムスッとした感じのクレハの声が聞こえた。
確実に今の状況は、クレハの思い描いたシナリオとはかけ離れているだろう。それによって、多分彼は混乱している。
思いがけない状況に陥った時こそ、その人の素が出やすい。もう少しだけクレハにも付き合ってもらおう。
それから、私もクルクルと螺旋状になった救助袋の中を滑り降りた。
「うぅ……目が回る……」
「大丈夫か、桜!」
「ちょっと目が回るけど、大丈夫。それより急ごう!」
「おう、残り約二分。全力でランニングや」
ムスッとした様子で立っているクレハに笑顔で近付くと、何故か彼は私を見て少し怯んでいる。
「ほら、クレハも行くよ!」
問答無用で彼の腕を着物の袖ごとガシッと掴むと、私はそのまま第一校舎の屋上目指して走り出した。
「えっ、だから何で僕が……っ! ちょっと、着物が破ける!」
「だったらとにかく走って!」
「わ、分かったから! その手を、離して……腕がちぎれるっ!」
腕がちぎれるって、私が怪力女だとでもいいたいのか、失礼な!
手を離すと、不本意な顔をして渋々といった感じでクレハも走って付いてきた。
中々食えないタイプだと思ってたけど、意外とこの人──押しに弱い。
そして、わざわざ走ってついてきている所からしても、中々空気読める人だ。
私達の邪魔したいならいくらでも手段はあるだろうに、何だか変な感じ。
「てか桜、何でコイツまで連れてくんねや?」
その時、普通に走って付いてくるクレハに、カナちゃんが心底驚いたようで彼を二度見して尋ねてきた。
確かにビックリだよね、連れてきた私もビックリだよ。
「んー習うより慣れよ的なノリで……?」
「一体何の経験させてんねや! 全く、いくら寂しそうな目ぇして訴えてきたかて、ほいほい何でも拾ってきたらあきまへんて何度も言うたはずやねんけどなぁ……まぁ、ええか。とりあえず急ぐで!」
私の適当なボケに、カナちゃんはビシッとツッコミを入れた後、ブツブツと何かを呟きながらも寛大な心で受け流してくれた。
まぁ、悠長に話している場合でもないし、そのまま私達は残った力を振り絞り、全力で屋上までの道のりを急ぐ。
階段をかけ上り、屋上のドアが見える踊場まで差し掛かった時、
──バタン
背後から何かが倒れたような音がした。振り返ると、クレハが階段に足を取られたのか踊場で倒れている。
残された時間はもう僅か数十秒ぐらいしかない。
このままクレハを置いていけば、私とカナちゃんはギリギリ間に合うだろう。
むしろ、最初から彼を連れてくる必要などなかったのだから放っておけばいい。
頭では打算的な思考が瞬時に浮かぶ。
でも、クレハのひどく悲しそうな瞳を見て、身体がそれを拒んでいた。
彼が敵だというのに、ここまで一緒に走ってきた変な仲間意識からか、単に放って置けなかったのか、その理由は定かではない。
クレハの方を見ていた私達は、気がついたらお互い視線で目配せをして頷くと、彼の元へ駆け寄っていた。
カナちゃんが彼を背負って、倒れないように私が後ろから支えて屋上のドアを目指す。
ほんの数秒の出来事が、やけにゆっくりと感じられる。
そのまま私達は三人でゴールのドアをくぐり抜けた。