2、日替わり彼女
「桜、おはよう」
「お、おはよう、コハク」
朝、いつも通り桜を迎えに来たわけだけど……えーと、僕何か嫌われるような事したっけ?
桜がやけに僕から物理的に距離をとろうとしていて、半径二メートル以内に来ない。
その小動物みたいにちょこちょこと逃げる動きが可愛らしくはあるんだけど、その距離感が無性に哀しい。
「ごめんね、僕何か気にさわる事でもしちゃったかな?」
「ち、違うの! あの、その、は、恥ずかしくて……」
「恥ずかしいって何が?」
「コハクの傍に居るとドキドキして、私の心臓の音が聞こえちゃいそうで……」
「大丈夫、それなら僕もドキドキしてるからおあいこだよ」
胸に手をあててほっと安堵のため息を漏らした彼女は、もじもじとしながら遠慮がちに近づいてきた。
その愛らしい仕草に、今にもその華奢な身体を思いっきり抱き締めたい衝動に駆られる。しかし、そんな事をしては桜を驚かしかねない。
いつものように手を差し出して声をかけると
「さぁ、行こうか」
「う、うん。ありがとう」
恥ずかしそうに頬を赤く染めて僕の手におずおずと重ねてきた桜。
その手は微かに震えており、ぎゅっと掴むと「ひゃっ!」と小さな悲鳴が聞こえた。
(可愛い、可愛いんだけど、昨日とのこの差は一体……)
もしかして昨日、僕が言ったことを気にしての事だろうか。
それから、声をかける度に桜は身体を大きくビクンと震わせこちらを振り返った。
僕の顔を見ると安心したように表情を緩めるけど、少しでも距離を縮めようとすると逃げられる。
慣れると寄ってきてくれるけれど、一旦授業を挟んだりして離れると彼女はまた元に戻ってしまう。
いつまでも初々しい気持ちを持つ事は大事だと思うけど、これではまともに話も出来ない。
現に今だって……桜は僕から二メートル以上離れた所に腰をかけてお弁当を食べている。
「あの、桜?」
「はい! ど、どうしたの? コハク」
そんなに急いでお弁当を片付けて逃げの体勢に入らなくても……恥ずかしいだけだと分かっている。
彼女の心の準備が出来るまで、慣れるまで待つつもりではあるけれど、せめてもう少し傍に来てくれないかな。
せめて、僕のこの手が届く距離まで。
「君が嫌がる事はしないから、もう少しだけ僕の近くに来てくれないかな?」
「うん……分かった」
すると、桜は僕の隣に腰をおろした。ぴったりとくっついて。
何がどうなっているのか、僕には今日の桜が分からない。
でも、僕の願いを聞き届けてくれているのだとしたら……
「桜……そこまで無理しなくていいんだよ?」
「む、無理はしてないよ。コハクの願い……叶えてあげたいの。私に出来る事なら何でも……」
桜は膝を抱えるようにして小さく縮こまって座り、恥ずかしそうに呟いた。耐えるようにかたくぎゅっと拳を握りしめ、小さく震えている華奢な桜の肩。
(ああ、もう! 僕は本当に何してるんだ!)
自分の気持ちだけ押してつけて、桜にこんなに無理させて、ほんと大馬鹿者だ。
「ごめん、桜。嫌なことは嫌ってちゃんと言っていいんだよ? 僕の望みを叶えてくれるのは嬉しいけど、君にこんな無理をさせたいわけじゃないんだ」
「コハク……私に嫌がられたいの?」
「いや、嫌がられたいわけじゃないよ。ただ、僕が君の気持ち以上の行為を望んでしまって、桜の心の準備が出来てない時は否定してくれないと、君の負担になってしまうから……今みたいに」
「大丈夫、私はどんな望みでも受け入れるから。コハクは程よく否定されることを望んでいるんだね。分かった、明日はちゃんとするね」
(まただ……明日はちゃんとするねって……)
「コハク? またボーッとしてる」
「あ、ごめん。大丈夫だよ」
安心したようにニコリと微笑んだ桜はいつも通り可愛い。
別に深い意味はない、気のせいだと僕は小さな疑問を胸にしまいこんだ。
***
今日は桜に絶対無理はさせない。そう決意して、桜の家のインターホンを押す。
玄関のドアが開き、桜がこちらを見て嬉しそうに頬を緩めた刹那、思いっきり顔を逸らされた。
やっぱり昨日無理させた事を怒ってるんだと反省していると、
「べ、別に嬉しくなんかないんだからね! でも、せっかく来てくれたみたいだし、仕方ないから手繋いであげる。ほら、行こう」
ツンとしながらも、頬を赤くして僕の手をとる桜。
あまりの変貌ぶりに驚き、思わずまじまじと彼女を見ると
「な、何よ! そんなジロジロ見ないでよ!」
怒らせてしまい、慌てて謝って前を向く。
しばらく無言で歩いていると、隣からかなりの視線を感じる。
気になって横を見ると、桜にまたもや思いっきりプイっと顔を逸らされた。
でも、横目でチラチラと彼女は僕の様子を窺っているようだ。
(……僕は、何かを試されているのだろうか)
最近、桜の様子が変だ。
以前も、彼女は僕に獣耳を出させるために奮起してた事があるし、今回もまた何か企んでいるのかもしれない。
しかし、桜の方を見ると怒られてしまうし……どうしたものか。
小さくため息をこぼすと、桜のすぐ目の前に小さな水溜まりが出来ている事に気付いた。
「桜、危ない」
思わず繋いでいた彼女の手を引いて、腰を抱き寄せる。
「きゅ、急に何するのよ!」
「ごめん、足元に水溜まりがあって」
「あ、ありがとう……でも! あんまり気安くベタベタしないでよね!」
その言葉に密着した柔らかな感触を意識してしまい、慌てて謝りながら離れる。
昨日僕が『嫌なことは嫌ってちゃんと言っていいんだよ』って言ったから、そうしてるんだろうけど、こんなに嫌がられていたとは……正直ショックだった。
「ほら、早くしないと遅刻しちゃうよ!」
「あ、うん。そうだね……行こうか」
苦笑いして、歩き出すと桜が小さな声で何かを呟いた。
聞き取ることが出来ず尋ね返したら、「何で手、繋いでくれないの!」と、拳をわなわなと震わせた桜が潤んだ瞳でこちらを見ている。
「え……さっきベタベタ触らないでって。本当は手を繋ぐのも嫌だったのかなって……」
「ほ、本気で言ってるわけないでしょ! その……恥ずかしくて、思わず逆のことを言っちゃっただけで……察しろよ、馬鹿!」
顔を赤らめて潤んだ瞳で、こちらをキッと睨んでいる桜。
彼女は怒っているのだろうけど、不謹慎にも可愛いとしか思えない。
(逆ってことは触れても構わないって事だよね?)
「桜……ごめんね、気付けなくて」
そっと抱き寄せると、僕の胸に桜はコツンと頭を預けてきた。
桜の企みの真意は掴めないけど、こうやって素直に甘えてこられると、嬉しさが込み上げてくる。
それから彼女が落ち着いた所で、僕達は学校への道のりを急いだ。