1、僕を惑わす天才
気が付くと僕は自分のベッドで寝ていた。
隣には気持ち良さそうに眠る桜が居て、格好から察するに事後だというのが分かる。
でも何の実感もなく、桜と一つになれて嬉しいはずなのに、何故か心にはぽっかりと穴が空いている感覚に襲われる。
その時、桜が身じろきをして目を覚ます。僕の顔を見るなり、彼女は満面の笑みを浮かべて抱きついてきた。
直に触れる柔らかな肌の感触も温もりも確かに感じられて、夢じゃないのが分かる。
それなのに、どうして心だけは無性に寂しさを感じているのだろう。
理由をいくら考えても、思い付かない。
桜と一緒に過ごした幸せな思い出しかないのに何故だろうか。
「コハク、どうしたの?」
その時、桜が心配そうに大きな瞳を揺らして見つめてきた。
優しく抱き締めて「大丈夫だよ」と伝えると、彼女は安心したように笑みをもらす。
そんな桜を見ていると心がぽかぽかと温かくなってきて、僕の頬も自然と緩んでいた。
「コハク……貴方が欲しいの、ダメ?」
顔を赤く染めて潤んだ瞳でお願いしてくる可愛い彼女の申し出を快諾して、僕は再び桜を抱いた。
愛らしい声を漏らす唇も、快感に耐える悩ましげな表情も、触れるだけでピクンとなって感度のいい身体も、温かく僕を包み込んでくれる君の全てが愛おしくて堪らない。
何度も深く愛し合う内に、最初に感じていた寂しさは消え、いつの間にか幸福感で満たされていた。
***
最近毎日のように夜遅くになると、どこからか僕に呼び掛ける声が聞こえてくる。でもそれは、とても小さくて聞き取る事が出来ない。あの声は一体何なのだろうか。
ボーッとしていた僕に、お化け屋敷に視線を送りながら桜が話しかけてきた。
「コハク、今度はあそこに入ろう?」
彼女の声で僕は今、遊園地に来ていたんだと思い出す。隣に桜がいるのに他の事に気をとられるなど、なんて失態だ。
「うん、行こうか。足元暗いだろうから気を付けてね」
彼女に優しく声をかけ、手を繋いで僕達はお化け屋敷に向かった。
入り口で機械の蝋燭を渡され、出口でその人の怖がり度が分かる仕様らしい。
廃病院の中を模して作られた屋内は、結構凝った造形でなかなかのクオリティーだ。
僕はシロと違ってこういうホラー系は普通に大丈夫な方だ。
ここは桜に良いところを見せるチャンスだろう。
繋いだ手から桜が震えているのが分かって声をかける。
「桜、怖いならもう少しこちらにおいで」
はにかみながらお礼を言って桜は僕の腕に手を回してきた。桜がビクッと身体を震わす度に、柔らかいものが密着してきて、別の意味で僕はドキドキする。
手術室と書かれた扉をくぐると、手術台の上に如何にも動きそうなミイラが置いてある。
その前を通過すると案の定それは突然起き上がり、驚いた桜は蝋燭を放り出して、可愛い声で僕の名前を口にしながらしがみついてきた。
「桜、僕がついてるから大丈夫だよ」
プルプルと震える華奢な身体を安心させるように抱きしめると、桜の震えは止まった。
「ありがとう、コハク」
潤んだ瞳で僕を見上げる桜に優しく微笑んだ後、床に落ちた蝋燭を拾って渡してあげた。
出口での怖がり度判定で、僕は最低ランクだった。
『あなたは本当に人間ですか?』
そう書かれてあったのには、少し苦笑いがもれる。妖怪だって怖がりな奴はいるんだよ……シロみたいに。
桜は最高ランクで『極度の怖がりのあなたにはナイトが必要です』と書かれていた。
それを見て「桜は僕が守るからね」と彼女の耳元で囁くと、一気に顔を赤く染めてこちらを見つめてくる愛らしい桜。
こんなに近くで可愛い彼女を堪能できるから、お化け屋敷は悪くない。
***
初めて桜を抱き締めた時、女の子ってこんなに華奢な身体をしていたのかと、少なからず驚いた。
小さくて柔らかくて温かい……少しでも力をいれようものなら壊れてしまうんじゃいかと思えるくらいか弱い存在。
鼻孔をくすぐるいい匂いも、頬を赤く染めて見上げてくる潤んだ瞳も、何もかもが愛おしくて堪らない。
笑顔で僕の手をとってくれる所も、頭を撫でると花のように綻ぶ顔も、モフモフした生き物を前にすると無邪気にはしゃぐ姿も、どうしてこんなに可愛いんだろう。
今だって一生懸命僕に何かを話しかけて、その桜色の唇が動く度に触れたい衝動に駆られる。
学園内でそんな事すると桜が怒るから、最大限に理性働かせて我慢するけど。
ああ、でも怒った顔も可愛いからここはわざと……いやいや、それは駄目だ。
からかいすぎて嫌われてしまったら、桜が居ない生活なんて耐えられない。
はぁ……桜って本当に僕を惑わす天才だよ。
「どうしたの? コハク、最近ボーッとしてる事が多いね」
「そうかな?」
「今だって、こっち見てたのに私の話聞いてない」
「ごめん、桜の事考えてて気付かなかった」
「私なら目の前に居るよ? コハクにはどこの桜さんが見えてるのかな?」
「どこのって、それはもちろん君の事だよ」
確かに僕は、目の前の桜に見惚れて邪なこと考えてた。でも何故か一瞬、奇妙な違和感を感じた。
「本当に?」
首を傾げて大きな瞳で見つめてくる桜はいつも通り可愛い。
気のせいだろう、それより今は桜の不安を拭ってあげる方が先決だ。
「うん、今だって……その可愛い唇に触れたいなって欲望と理性の間で、必死に葛藤してたんだから」
「コハク、我慢しなくていいんだよ」
「え、でも……ここは学園の屋上だよ! 桜はあまり人が来そうな所でそういうことは嫌なんじゃ……」
「嫌じゃないよ。コハクが望むならどこでだって平気だよ」
葛藤してたのが馬鹿みたいに、すんなりオッケーが出るなんて思いもしなかった。
桜は極度の恥ずかしがりやだ。僕が少し触れるだけで頬を林檎のように赤く染める。
そんな彼女がいきなりそんな大胆な事を言うなんて……
「桜、熱でもあるの? もしかして体調悪い? 何か悪いものでも食べた? ごめんね僕、全然気付かなくて……」
「何言ってるの? 体調は至って健康だよ。それより、コハク……私ももっと貴方に触れたい」
まるで猫のように手足をついて、僕の足の間を割って入ってきた桜はそのまま距離を縮めてきた。
サラリとこぼれ落ちた艶やかな髪から、薔薇の花のように甘い香りが漂ってくる。
僕の首に細い腕を絡めて、額をコツンとあてて、こちらをじっと見つめてくる桜。
今までにないほど積極的な彼女の行動に、僕の心臓の鼓動が一段と大きく跳ね上がるのを感じた。
綺麗な瞳に視線を奪われていると「コハク」と名前を呼ばれ、唇に感じる柔らかな感触。
数秒して名残惜しそうにゆっくりと離れた桜は、はにかんだ笑顔を見せた。
こんな天使見たことない……もっと彼女を堪能したい。
──ガチャリ
その時、屋上のドアが開く音がして誰かがこちらに近付いてきた。
「桜、ちょっと話したい事あんねんけど……コハッ君ちょっと桜借りてもええか?」
今、桜を他の誰かに渡したくない。
たとえ、それが彼女が大切にしている幼馴染みだとしても。
でも、わざわざ屋上まで訪ねてきたって事は急用かもしれない。
後ろ髪引かれる思いで西園寺君に答えようとした時──
「ごめんカナちゃん、急用じゃないなら後にして。今はコハクと一緒に居たいから邪魔しないで」
信じられない言葉が聞こえてきた。
桜が西園寺君を拒否するなんて。
「おお、そうか……悪い。邪魔したな。ほなまた後で」
肩を落として遠ざかる背中を前に、驚きを隠せなかった。
「桜、西園寺君の話聞かなくていいの? 大事な用だったかもしれないよ?」
「そんなのどうでもいいよ、それより……」
桜が僕の太股にそっと手を這わせてきて「さっきの続きしよう?」 と、上目使いでおねだりしてきた。
やっぱり今日の桜はどこかおかしい。
「桜、やっぱりどこか調子悪いんじゃない? 何か辛い事でもあったの? 相談に乗るから……」
「コハクは今の私、嫌い?」
「そんなことないよ! 僕は君が大好きだよ……ただ、いつもと少し様子が違うから何かあったのかなって心配で」
「どう違うの?」
「勿論積極的に来られるのも嬉しいんだけど、恥ずかしがりやの君が無理してるんじゃないかって」
「大丈夫、無理はしてないよ。恥ずかしがりやな要素が足りなかったんだね、分かった。明日はちゃんとするね」
──明日はちゃんとする?
その言葉に再び奇妙な違和感を感じる。頭を捻らせていると予鈴が鳴り、それ以上考える間もなく僕達はそのまま教室へと戻った。










