10、攻めか守りか、失敗の許されないゲーム
「せやな。人間が裏切らんかったら、このファイルはこんな分厚くならずに済んだかもしれへん」
カナちゃんはそう言って、ファイルから視線を逸らすようにそっと目を伏せた。
「ああ……だが、こちらの世界に来たからには規律を守るのは絶対だ。いくら裏切られたからと言っても復讐で人を殺めた場合、人間でも処罰されるだろ? 妖怪の場合はその度合いが人とは比べ物にならない。だから、一度でも過ちを犯せばそれが当然の罰だ。冷たいかもしれないが、そうしなければ秩序が守れない。だからこそ、ソウルメイトに選ばれた者が妖怪と契りを交わす場合、それ相応のリスクを背負う覚悟が必要になってくる」
クレハが言いかけた言葉の意味が少しだけ分かった気がする。
『君が一度でも裏切ればシロは……』
きっと、暴走して取り返しのつかない事になると示唆していたんだ。
契りを交わしていないと知った途端暴挙に出たのは、きっと私をシロから引き離すため。
たとえ嫌われ役になったとしても、可愛い弟分が自分のようにならないように、シロの身を案じての事だったんじゃないだろうか。
その時、胸元に温もりを感じ確かめると、勾玉が熱を帯びていた。
勾玉が温かくなるのは良い兆候──完全にそうだと信じるにはクレハの事を知らなすぎるため危険だが、その可能性もあると心にとめておこう。
──このファイルに、シロの名前は絶対に刻ませない。
そう強く思い隣を見ると、シロは眉間にシワを寄せ難しい顔をしている。
その皺をとりたくて、そっとその手をとると、シロは獣耳をピクリとさせ驚いたようにこちらに視線を向けた。
雪のように白くて少しひんやりとしたシロの手。温めるようにぎゅっと両手で包み込むと、眉間に寄った皺がとれ表情が柔らかくなる。
その時、ファイルに目を通していた橘先生が、苦々しい顔をして口を開いた。
「『ザ・グリム・リィーパー』こっちの言葉で表すと『死神』か。こいつとまともにやりあったら、それこそ命の保証がない。手練れのエクソシストでさえ被害に遭ってるからな。だから、こちらは敢えてそのゲームにのっかる方がかえって安全かもしれない」
「私も橘先生の意見に賛成。様子を見てクレハの出方を少し探った方がいいと思う」
さっきの仮説が正しければ、まだ和解する道も残されているかもしれない。
難しいかもしれないが、クレハにもう一度人間を信用してもらえればその可能性もゼロではない。
そのためにも、今はもう少しクレハの情報が欲しい。直接対峙するのは、その後でも遅くないはず。
「俺は危険が軽いうちに、こちらから仕掛けたがええと思います。時間が経てば経つ程、桜が危険になるの分かっとって受身で居るなんて。罠仕掛けて誘きよせるとかどうですか?」
「俺も西園寺の意見に賛成だ。桜を長期間危険に曝したくない」
「シロ、お前は玉ねぎのせいで身体がまだ本調子ではないだろ? それにクレハの居場所も分からない以上、計画的に罠を仕掛けて誘き寄せるなど現実的に無理だ」
橘先生の言葉に、シロとカナちゃんは悔しそうに顔を歪める。
「確かに早く呪いを解きたければそうするのが一番の近道だろうが、よく考えろ。これは失敗の許されないゲームだ。攻めに重点を置きすぎて守りが手薄になった所を一気に持っていかれたらどうなる?」
先生は眼鏡をクイッと持ち上げて問いかける。レンズ越しに、試すような視線をシロとカナちゃんに向けると
「……そこで、ゲームオーバーだ」
淡々とした口調で言葉を発した。
「それだけは、絶対にあきませんわ!」
顔を青くして、ひどく焦ったようにカナちゃんは否定した。そんな彼を優しく包む込むように、表情を緩めた先生はゆっくりと諭すように口を開く。
「だったら目的を見失うな。お前達が優先すべきはクレハを倒す事じゃない。一条を守り抜く事だ。元々そういうルールだろう? 幸いなことに期限が設けられている。倒す算段を立てるよりは、守りの算段を立てる方が堅実的だと思わないか?」
「分かった。桜を守る事を最優先に考える」
納得したようにシロも先生の意見に同意した。
橘先生はこういう時、やっぱり頼りになるな。私一人だったらきっと、シロとカナちゃんを説得出来なかった。
「自然の災厄はシロ、お前さんの力で何とかしてくれ。こればっかりは俺達人間には予測不可能だ」
「ああ、そこは俺に任せろ」
「問題はクレハの介入だが、何か仕掛けてきたら極力逃げて安全な場所まで避難する事を最優先に心がけること。いくつか、結界を張ってセーフティゾーンを作っておく。とりあえず、学園内では保健室。後はそれぞれの家だな。随時場所は増やしていくからその都度、連絡する。それから、一条はなるべく一人にならないよう心掛けろ。シロや西園寺が傍につけない場合は、極力人が多い場所を選んで移動するように。そして、いつでも取り出せるよう護符を忍ばせて、もしクレハが近付いてきたらそれを貼りつけてやれ。少しくらいなら足止め出来るはずだから、その隙にシロや西園寺と合流するか、セーフティーゾーンまでとにかく全力で走れ」
「分かりました、先生。ありがとうございます」
魔の十三日間──災いなんかに屈したりしない。絶対に耐え抜いてみせる。
もし出来るならば、お節介かもしれないけどシロとクレハを和解させたい。
美希の気持ちに気付いてあげられなかった私みたいに、シロには後悔して欲しくない。
失ってからじゃ、気持ちを伝えたくても、喧嘩したくても出来ないんだよ。生きているからこそ、向き合って話が出来るんだから。
「それじゃあ、俺はここから順次結界を張っていく」
「先生、俺も手伝いますわ。一人じゃ大変やと思うんで」
「ああ、それは助かる。じゃあやり方教えるから、お前さんは自分の家と一条の家を頼む。俺はここと一旦学園に戻ってそっちを担当するから」
「了解です。ほな、ちゃっちゃとやりましょか」
少し気になっていた事がある。
カナちゃんがドーム状の防御壁みたいなの普通に作り出したりしてた事。そして今、普通に結界張るの手伝おうとして、普通に先生に任されている事。
この短期間で、どれだけ陰陽道極めちゃってるの?
「カナちゃん、そんな事も出来るの?」
気になって思わず尋ねると、何故か橘先生がニヤリと笑って答えてくれた。
「一条、こう見えて西園寺は本職にスカウトしたいくらいポテンシャル高いんだよ。俺も正直、驚いてる」
「止めて下さい、先生。俺はそっちの道には行けません。親父との約束あるんで」
「気が変わったらいつでも言えよ。俺は歓迎するぜ」
とりあえずこの二人の様子から察するに、カナちゃんは橘先生に物凄く気に入られている事が分かった瞬間だった。