9、ザ・グリム・リィーパー
「この試練、最初はさほど大したものではない。だが後半、折り返した辺りから危険度がぐんと上がる。今までせいぜいお遊び程度だったものが、油断してると洒落にならないレベルになってくる」
「洒落にならないレベルって、どないな感じなんですか?」
「端的に言えば、判断ミスが命の危険に関わってくる危険度だ。もしこれを模しているとしたら、選んだ選択が重要になるから行動はよく考えてからしたがいい。それと、なるべくシロの傍を離れない方がいい。ハーフとはいえこいつも幸福を与える存在だから、少しは自然の災い回避に役立つだろう。だがその場合、クレハが直々に仕掛けてくる可能性が高い」
「その時は、俺がなんとしても……」
決意するように放たれたシロの声には、堅い意志がこもっている。
「シロ、お前一人では無理だ。ハーフと純潔の力の差は、お前さんが痛い程知っていると思うが?」
しかし、それを打ち砕くように橘先生の容赦ない言葉がシロに向けられた。
「それでも! 確かに俺は、アイツに一度だって勝てた試しはねぇよ……でも、これだけは譲れない! 桜を危険から守るのも、馬鹿な兄貴分を黙らせるのも、全部俺の役目だ。俺がやらなきゃ、いけねぇんだ……ッ!」
赤くなるまで強く握りしめられた拳が、微かに震えている。
長い睫毛の奥で、強い意志と秘められた思いの狭間で葛藤するかのように、瞳が揺れている。それらが、シロの気持ちを代弁しているように見えた。口では酷いことを言ってても、やはりシロはクレハの事を大切に思っていると。大切だからこそ、自分が決着をつけなければならないのだと。
どれだけ過酷な選択なんだろうか……想像するだけで、胸が苦しくなる。
「横を見ろ。お前さんにはクレハに無いものがあるだろ?」
ふと表情を緩めた橘先生は、諭すようにシロに問いかけた。
すると、シロの伏し目がちに閉じた瞳が、こちらに向けられる。
安心させるように微笑んで、私は声をかけた。
「一人で全てを背負い込まないで。貴方に守ってもらえるのは嬉しいけど、私もシロの役に立ちたいんだよ」
クレハを止めるのは、きっとシロにしか出来ないだろう。
だったら私は、シロの心が少しでも悲しくならなくて済むように、選択を誤らないよう最善を尽くそう。
その時、カナちゃんがポンとシロの肩に手を置いて話しかける。
「あいつの力弱めたり、足止めするくらいなら、俺にも手伝えると思うで。サポートするから一人で突っ走んなや」
そう言ってカナちゃんはニカッと無邪気に笑った。
「ソウルメイトは霊力回復には不可欠だ。駆け出しだが中々素質のある陰陽師見習いもクレハの戦力を削ぐには役立つと思うぞ」
「桜、西園寺……恩に着る。お前らの力も貸してくれ」
ようやくシロの顔にも笑みが戻って、思わずホッとする。
「ただ、人間が生身であいつらの強い妖気に触れるとあまりよろしくない。そこでこいつの出番だ」
橘先生はゴソゴゾと鞄をあさると、ペンダントを取り出した。
おたまじゃくしみたいな形の艶のある黒い石が印象的だ。
「これはブルータイガーアイから出来た勾玉だ。邪気を跳ね返す効果が込められているから、クレハが放つ悪意のこもった妖気も大分緩和されるだろう。また、この石は深い洞察力をもたらす心眼の石とも言われており、視野を広げて物事の本質を見極める力を授けると伝えられている。肌身離さず身につけていれば、お前さんに正しい決断と未来を見通す目を養ってくれるはずだ。ちなみに迷信だが、こいつが熱を帯びたら良い兆候だと言われている」
「分かりました。ありがとうございます、橘先生」
手に持つと小さい割にずっしりとした重みがあり、存在感がある。
「桜、俺がつけてやる」
「うん、ありがとう」
私がペンダントを差し出すと、シロは緊張した面持ちで手を伸ばした。受けとって握りしめると、安心したように吐息を漏らす。
「安心しろ。お前さんが悪さしない限り、それには拒絶されないから」
「そうか。ならよかった」
シロがペンダントをかけてくれると、心なしか頭がスッキリしたように感じた。
「とはいってもだな、それはあくまで最終手段だ。出来るならクレハとの正面対決はやめた方がいい。もしここに載っているようなら尚更な」
そう言って、橘先生は鞄から厚みのあるバインダーを取り出した。
怪奇事件ファイルと書かれたバインダーをめくると、世界の様々な未解決の怪奇事件の犯人と思われる人物のイラストや写真が説明と一緒に挟んである。
残酷としか言いようがない、イメージ画や写真が続く中、とあるページが目にとまる。
一面に広がる全壊した家屋に、降り積もる雪が赤く染まる地面。
所々に転がる首をはねられた死体の数々。
その中央に凛と佇み、左目を手で押さえ不適に笑う獣耳と尻尾のある、線の細い全身を真っ赤に染めた男の姿。
シロの方をチラリと見ると、驚きを隠せないように目を見開いた後、食い入るように説明を読んでいる。私もそれに目を通す。
事件発生は今から二年程前、外国のとある寒い地方で起きた事件だ。
人々を恐怖で震撼させたその怪人は「ザ・グリム・リィーパー」と呼ばれている。
一夜にしてとある街を殲滅させた獣のような耳と尻尾の生えた怪人。
駆けつけたエクソシストまでをも次々とその手にかけ、銀の銃弾で左目を撃ち取られても笑っていたという。
瓦礫の下で一命をとりとめた唯一の生存者である青年の話によると、その惨劇はまるで地獄絵図。
奇妙な技を用いて無差別に建物の破壊を繰り返し、飛び出してきた人の首を次々とはねていくその姿は、死神が命を刈り取るように残虐であったとされている。
「あいつ、左目眼帯しててんやんな……」
少し動揺したように声を上げたカナちゃんに、シロは静かに頷いて答えた。
「恐らく、これはクレハの仕業だろう。親父にクレハの事を聞いたが、四年前家出を手伝ったと口を割った。そして三年前、ある寒い地方で出会ったソウルメイトと契りを交わしたらしい。幸せに暮らしていると思っていたそうだが、さっき確認してもらったら連絡が取れないとほざきやがった」
「なぁ、シロ。ちょいちょい分からん単語出てくんやけど、ソウルメイトとか契り交わすとか、どういう意味なんや?」
「ソウルメイトは、魂が惹かれる相手を意味し、心に決めた幸福を与えたい人間の事を指す。俺たちの種族は人間に幸福を与える代わりに幸せなオーラを頂き、生命を維持するのに必要な霊力に変えているのだ。契りを交わすとは、その絆をより強固にする誓いの儀式の事だ。ソウルメイトの一生を預かる代わりに、永劫の幸福を約束するとな」
「つまりこっちの言葉に直すと、ソウルメイトは好きな人。契りを交わすってのは結婚するって事か?」
「ニュアンスとしてはそんな感じだ」
つまりクレハは三年前、こちらで出会った人と結婚してたって事か。
「クレハは何故、こんな事件を……」
「あくまで推測だが、何らかの形で人間に裏切られたのだろう。その結果暴走して、そういった事件に繋がる。元々悪い妖怪はこちらの世界には立ち入れない契約があるからな。こっちに来た時点では善だったものが、人間と交わる事で悪に変わる事例も少なくない。現にこのファイルに載っているだけでも結構な数だろ? これらは全部、そういった事件を起こして見つけ次第討伐対象になってしまった妖怪達だ」
人間に裏切られて暴走──橘先生は、妖怪白狐の特性として一人の人間に尽くしすぎる習性があると言っていた。
それがソウルメイトの事で、契りを交わして固い絆で結ばれたはずの相手にひどい裏切りを受けた結果だとしたら──
『愚かな幻想から目覚めただけさ』
そっと目を閉じて静かに呟いたクレハの言葉は、多分本心だろう。
人間を、特にソウルメイトに対してよくない感情を持つのは無理もない話だ。
それでも、妖界に帰る事も出来ず嫌いな人間があふれた世界で生きるしかない。
「人に裏切られたクレハも、犠牲者……なんじゃないのかな?」
無差別に関係なく命を奪われた人達からすれば、その考えは非難されるものだろう。
しかし、そう思わずにはいられなかった。クレハだって好きでこんな事件を起こしたわけじゃないと信じたかった。
完全に私のエゴだが……シロに、大事な兄貴分だった人と仲違いさせたまま別れて欲しくない。