6、咎を犯した白狐
「待て、クレハ!」
シロの伸ばした手がむなしく空を切り、数秒の沈黙が流れる。
ハッとした様子で振り返ったシロは私の前まで来ると、数字の浮かび上がる左手をそっと両手で掬い上げ、そのまま額を擦り付けるようにして深く頭を下げた。
「桜……俺のせいで、本当にすまない」
「シロ、顔を上げて。痛みもないし、今は全然大丈夫だから」
ゆっくりと顔をあげたシロは、ひどく憔悴した面持ちでこちらを見つめており、いたたまれない気持ちになる。
「ほら、これでも食べて元気出して!」
何とか元気付けてあげようと、ずっと右手に握りしめていた秘密兵器を笑顔で差し出した瞬間、不運にも袋が破け中身が下に落ちた。
重力に引き寄せられるゼリーとプリン合わせて四つが床につくと思われた時、カナちゃんの救いの手がそれらを掴む。
しかし掴めたのは三つまでで、勢いよく弾かれた残りの一つは宙を舞い、壁にぶつかり私の方へ舞い戻ってきた。
「す、すまん……桜」
「ううん、他の三つを救ってくれてありがとう」
胸元にビチャっと付着した黄色と茶色の物体。プリンの甘い香りが部屋の中に充満した。
「じゃあ遠慮なく頂こう」
そう言って、スッと私の胸元に顔を寄せてきたシロは、ブラウスの上に付着したしたプリンを舐めとっていく。
「え、あっ、シロ?!」
「これを食べて元気出せと言ったのはお前だろ?」
た、確かにそうだけど、こんな状態を想定してたわけじゃない!
「おまっ! どさくさに紛れて何してんねや!」
その後、カナちゃんに引き剥がされて少し不機嫌になったシロにシャツを借りて着替えた。
途中、袖を通した手を壁にぶつけたり、何もない廊下で足を滑らせそうになったり、地味に嫌な出来事が重なる。さほど気にせず部屋に戻ったら──
「ごめん、待たせたよね……わわっ!」
今度はカーペットの端に足を引っかけ転びそうになった。
「桜!」
カナちゃんが支えてくれなかったら、私はガラスのテーブルにぶつかっていただろう。
「ありがとう、カナちゃん」
「さっきのプリンといい……これも、呪いのせいなんか?」
「今のは私がドジっただけだから、大丈夫だよ」
笑って誤魔化してはみるが、短時間でこんなに小さな不幸が重なった事は今までない。
あまりそう思いたくはないが、少なからず影響を受けていると考えざるを得ない気がする。
「どちらにせよお前は今、呪いのせいで災いが起きやすくなっている。油断すると危険だ。桜、とりあえずお前は極力動かずここに座れ」
「シロ、そこ上に照明あるからもうちょい避けたがええんとちゃうか?」
「じゃあこっちに」
「そこは横の棚が危ないで」
「じゃあ……」
試行錯誤を重ねた結果、何故か広いベットの真ん中に座らされてしまった。
ここなら倒れても周りが布団で柔らかい。上から落下してきそうな物も、倒れてきそうな家具もないから安全らしいが……落ち着かない。
二人は満足したようで、普通に話を始めてしまった。
「で、あいつ何者なんや? 本当にお前の従兄弟なんか?」
「クレハは確かに俺の従兄だ。小さい頃はよく一緒に遊んでくれて、当時は兄のように慕っていた。ハーフの俺と違って本家の血筋を引いているアイツは力も強くて、虐められていた俺をよく助けてくれた。最後に会ったのは五年前で、まさかあんな姿になっていたとは思いもしなかった」
「あんな姿って?」
「漆黒の髪に真紅の瞳……クレハの容姿は、咎を犯した白狐の成れの果てそのものだ」
「咎を犯したって、犯罪者って事なのか?」
「こっちの世界で例えるならそういう事だ。罪の証は消えはしない。妖界への立ち入りも禁止され 、やがてこちらの世界で退治される対象となる」
「とりあえず今は桜にかけられた呪いどうにかせなあかん。これ、お前の力で解けへんのか?」
「無理だ。呪術はその使命を終えるまで解ける事はない。破棄出来るのはそれを掛けた本人だけだ」
「つまり、あいつに負けを認めさせて呪い解いてもらうか、十三日間危険に耐えるしかないって事か?」
「そういう事に、なる……」
スマホでカレンダーを確認する。
今日から十三日っていうとちょうど文化祭二日目までだ。
コハクを目覚めさせる期限が、もうここまで迫っていたのか。
「せや、陰陽師なら解けへんやろか? 俺ちょいと橘先生に連絡入れてくるわ。ついでに優菜にもコロンの事聞いてみる」
「俺も親父に確認したい事がある。桜、お前はここで大人しく待ってろよ」
二人は部屋から出ていってしまい、ベッドの上に一人ポツンと取り残された。
視界に広がる白を基調に、所々にモカのアクセントがある広くてお洒落な部屋。
こうして染々とコハクの部屋を見たのは初めてかもしれない。
最初にここに来たのは数学の課題を見てもらった時で、コハクが物凄く怒ってて、分からない問題とひたすら格闘してたから、あまり部屋の様子まで覚えてなかった。
あの時、ちょうどこの場所で思いっきりコハクの頬を叩いてしまったんだっけ。
痛かっただろうな。
夏休みの事なのに、ひどく昔のように感じられる。
それからしばらくして、シロに初めて会った日の夜、この部屋に私があげた手作りのストラップと病室でコハクと一緒に撮った写真が飾ってあり嬉しくなる夢を見たんだ。
ちょうど、あそこに見える感じに……って、嘘。本当に飾ってある!
シロが倒れた時と、流星群を見せてもらった時にもここを訪れたけど、あの時は違うことに気をとられて全然気付かなかった。
これはコハクが飾ってくれたんだよね、きっと。どうしよう、嬉しくて泣きそうだ。思わず胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
コハクが眠りについてから、もう三週間以上経った。
コハクが満足するまで私に出来る事なら何でもするから、 どれだけ怒ったって、私のこと責めたっていいから、貴方の声が聞きたいよ……逢いたいよ。
でも今の状態でコハクが目覚めたとしても、きっと辛い思いをするだろう。
ただでさえ傷付いたコハクの心に、大事な兄貴分の裏切りを知ったら。それなら問題が片付くまで目覚めない方が……ってそれはダメだ。
呪いが切れるのは、橘先生先生との約束の日。コハクが目覚めなければ、妖界に強制送還されてしまう。
遅かれ早かれコハクも知る現実だ。傷付いた時、彼が妖界に居ては私は何の役にも立てない。
美希の事で、コハクにはかなり助けてもらった。私が前向きになれたのも、コハクのおかげだ。
今度は私がコハクを傍で支えたい。この写真みたいな笑顔を取り戻してあげたい。
そのためにも、私は呪いなんかに負けたらダメだ。たとえ一生分の運を使い果たしたとしても、災いを回避せねば。
ひとり決意新たに意気込んでいると、カナちゃんが部屋へ戻ってきた。
「桜、一人で動くと危ないで。それ、ちゃんと完成させたんやな」
私の視線の先を見て、カナちゃんが思い出したように話しかけてきた。