傘を捨てる
子供の頃、雨が降ると千歳は喜んで外へ出かけた。両親からもらった合羽に雨靴、白い生地にカラフルな水玉模様が散らばった傘。それらを身に着けることが許される雨の日が、千歳は好きだった。
雨靴でわざと水溜りを踏んだ。雨どいから滝のように流れる雨水の中に入り、それを傘が弾くの面白がった。魔法が使えるような気持ちでいた。雨と千歳は友達だった。
雨音で目を覚ました千歳は、顔を歪める。憂鬱な気持ちで顔を洗い、制服に着替え始める。
今ではもう、雨靴も合羽も着ない。ただ、味気ない色の傘を差して湿った通学路を歩く。
雨が降ると世界は途端にモノクロになった。傘や家の屋根、アスファルトを叩く雨粒一つ一つが耳障りなノイズとなって、千歳の耳に飛び込んできた。水溜りは極力避けて歩くが、それでもスニーカーも靴下もびしょ濡れになり、跳ね返った水でスカートの裾も湿っていた。千歳は雨を嫌うようになっていた。
早く雨の中から抜けたい。その気持ちで、千歳はいつもより歩く力を強めて、学校へと急いだ。
廊下から教室まで、千歳の通った跡を雨水が印す。それが千歳は自分がナメクジになったようで気持ち悪がった。
少しでも灰色の世界から離れたくて、自分の席についてすぐイヤフォンを付けて少し大きめの音で音楽を聴き始める。全部を忘れてしまいたい気持ちだった。
ホームルームの予鈴が鳴り、気だるげな仕草でケータイとイヤフォンを片付ける。また、雨音が世界をモノクロに変えていった。しかし、教室の中で、一人だけ色付いている背中があった。千歳は秀祐の背中を見つめて授業をやり過ごす。
席が近いからよく話す。けれど、席が近くなければ話す理由はない。千歳は彼のことが好きだった。理由は分からない。優しいから、笑顔が可愛いから、確かにそうだけれど、それらの理由は後付だと千歳は思った。優しい人は秀祐以外にもいるけれど、好きにはならない。笑顔が可愛い人だってそうだ。
だから、強いて理由をつけるなら、秀祐だったからとしか言いようがない。
次第に膨れ上がる気持ちに千歳は困惑していた。気持ちを伝えたいが、学校でしか会わない秀祐にいつ気持ちを伝えればいいだろう? 呼び出しなんてして、あからさまな雰囲気を出すのもいやだった。ただ、気持ちを伝えるだけで終わらせようと思っていた。
放課後、千歳が見つけた傘を持っていない背中は、淡く色づいていた。あえてふざけた調子で話しかけ、傘の中に誘う。
傘の中で、秀祐に雨が掛からないようにと、傘を傾ける。秀祐はそれに気付く様子はない。千歳は、この恋に脈がないことは、とっくに気がついている。気持ちを告げると、優しい秀祐は気を使って、上手く話せなくなるだろうということも想像がつく、けれど、千歳はどうしても我慢ができなくなった。
この気持ちを伝えれば自分が変われる気がしたのだ。
「ずっというつもりのなかった事いっても良い? 」
そう前置きして、千歳は言葉を続ける。
「私、ずっと前から秀祐のこと好きだった。」
すると、秀祐は大きく目を見開く。その顔も可愛いと思いながら、急に恐怖を感じて、千歳は突然走り出した。
もう何も分からなくなっていた。千歳はここまで自分が秀祐のことを好きだと思っていなかった。気持ちを伝えれば振り切れるものだと思っていたのだ。
けれど違った。どこか期待していた。乙女な妄想、シンデレラストーリー、思いを口にした途端に、千歳はすべてがほしくなった。しかし、秀祐の驚いた表情を見て千歳は直感した。次表れるのは、どう傷つけないように自分の気持ちを伝えようと悩む表情であると。耐えられなくなって逃げ出した。
もう、今朝からずっと泣きたい気持ちだった。雨の日は意味も分からず泣きたくなる。意味のある今ならなおさら。
千歳は自分の好みじゃない色の傘を下ろし、雨の真ん中で泣き出した。声も涙も、すべて雨が隠してくれる。
千歳は傘を捨てて泣きじゃくった。途中からは理由もなく泣いていた。泣きたい気分だった。ひとしきり泣いて、泣き止むと、あほらしい気持ちになった。年甲斐もなくびしょぬれになる自分への呆れ、直接振られたわけでもないのに泣き喚いている不条理さ、馬鹿馬鹿しくて笑えて来た。
すでに全身が濡れている今、雨なんて一つも怖くなかった。
スニーカーでわざと水溜りを踏んだ。雨どいから流れる滝のように流れる雨水を手で切ったり掬ったりして面白がった。子供の頃に戻ったような気持ちだった。雨と千歳は友達だった。
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