一歩前に
「エリシャの歓迎会と行きたいところだけど、今日は通常通り授業を進めるわよ」
クラス中が戸惑いに包まれつつも、ラーニアの一言で、本日の授業は始まった。
本日最初の授業は、ラーニアが受け持つ基礎訓練という授業だった。
「あんた達、早速戦闘教練室まで移動しなさい」
ラーニアに言われ、生徒たちが素早く移動を開始した。
「マルス!」
俺の名前を呼んだラーニアが、何かを投げ渡してきた。
受け取って確認してみると、それはギラギラと鈍く光を放つ宝石。
この学院では魔石と言われている授業用の魔法道具だった。
「なくすんじゃないわよ」
それだけ言って、ラーニアも教室を出て行った。
俺もさっさと移動した方がいいのだろうけど、
「エリシア……いや、エリシャって呼んだ方がいいのか?」
その前に、隣の席の少女に聞きたいことがあった。
「マルスが呼びやすい方で。もしまぎらわしいようなら、エリーって呼んでくれてもいいよ」
「エリー?」
「うん。家族はボク――私のことを、そう呼んでたから。
マルスは私の友達だから、エリーって呼んでほしいな」
親しい友人だから、愛称で呼んでほしい。
そういうことだろうか?
エリシアをエリシャと呼ぶのには少し違和感もあるし、慣れるまで呼び間違えてしまうかもしれない。
なら、愛称で呼ばせてもらった方がいいだろう。
「じゃあ、そう呼ばせてもらうかな」
「うん。改めて宜しくね、マルス」
エリーは俺に手を差し出した。
そして俺は、その手を握り返した。
「……ラブラブですか?」
ラフィの声が聞こえた。
机の縁を両手で掴み、しゃがみ込んで隠れるように俺達を見ていた。
「ら、ラブラブ!? な、何を言うんだよ!」
「……エリシアさん。やはり女性だったんですね」
やはり?
ラフィは、エリーが女だという事を気付いていたのか?
「……え、エリシャだよ。ボ――わ、私は、エリシャ・ハイランド。
エリシアさんは昨日で退学したの」
エリシアは退学扱いで、エリシャ――エリーが編入になった。
そういうことらしいけど、昨日の夜の間に、一体何があったのだろうか?
ラーニアは特に気にした様子もなく編入生としてエリーの事を紹介していたけど。
「そうですか。エリシャさんですか。
どちらにしても、ラフィは負けませんから!
マルスさんをものにするのは、ラフィなんですからね!」
ふくれっつらのラフィ。
「ぼ、ボクは、そんなつもり……」
ラフィの言葉に、エリシアは頬を紅潮させ、ちらちらと俺の方を見た。
その顔には明らかな戸惑いが浮かんでいる。
「匂いは嘘を吐きません。エリシャさんの身体からは、雌の匂いがします」
「えぇ!?」
エリーの顔が真っ赤に染まった。
なんだ雌の匂いって?
兎人族は鼻がいいらしいが、そんなものまでわかるのか?
「ライバルが増えるのは時間の問題だと思ってましたが……。
もうのんびりはしてられません」
言ってラフィは、
「マルスさん! ラフィは早速お弁当を作ってきます!
昼食、楽しみにしていてください!」
そんな言葉を残して、教室を出て行った。
どうやら、最初の授業すら出席する気はないらしい。
「マルス、ボクって、変な匂いするかな?」
ラフィが去った後、エリーはくんくんと腕の匂いをかいで、本気で心配するみたいに俺に聞かれた。
俺は近付いて、エリーの匂いをかいだ。
「ぁ……」
石鹸の匂いだ。
爽やかな、少し甘い花の香りのような心地のよい匂いがする。
「大丈夫だよ。石鹸の匂いがするくらいだ。兎人は鼻がいいから、何かに気付いたのかもしれないけどな」
「ぇ……あ、う、うん」
俺の言葉を聞いて、エリーは俯いてしまった。
何かいやなことを言ってしまっただろうか?
「……っと、そろそろ行った方がいいかもな」
「あ、そ、そうだね」
まだ聞きたいことは色々あったが、
「歩きながらいいから、少し話を聞かせてくれよ」
「……わかった」
俺達は教室を出て、戦闘教練室に向かった。
「エリシアっていうのは偽名だったのか?」
「ううん。偽名ではないよ。
エリシアはお爺様に引き取られてから貰った名前なんだ」
両親を失って祖父に引き取られたエリーは、エリシャ・ハイランドという名前を捨てることになったそうだ。
エリーの両親が殺された事件は、ハイランド家の関係者を狙った暗殺事件と考えた為らしい。
ハイランド家はこの国では有名な騎士の家系。
騎士から成り上がり、現在では貴族として領地を任されるまでになっているらしい。
過去に戦争で上げた武勲は数知れず、それを評価され王から領地を賜った。
名誉なことではあるが、貴族、しかも騎士として圧倒的な武勲があるような一族であれば、政争の道具にもなりかねない。
ハイランド家の台頭を嫌う者により、エリーの身に危険が及ぶかもしれない。
その為、エリーの祖父は、エリシア・ハイネストという名前を与えた。
自分とは血の繋がりのない者。
そういう名目でエリーを育てることにしたのだそうだ。
それがエリーを守ることに繋がると考えたのだろう。
「ボクも女として生まれたエリシャという存在をなかったことにしたかった。
だから、エリシアを名乗ることにした。
それに、ここで入学試験を受ける時に、家名で優遇されて合格なんてことになってほしくなかったから」
エリーがエリシアを名乗ることになった理由はわかった。
だが、エリシアの爺さんの予想が正しいとすると、
「もし暗殺者がエリーの家を狙ってるとしたら、ハイランドの名前を名乗るのは危険なんじゃないか?」
「お爺様に言ったら、心配するかもしれないね。
でも、ここは冒険者育成機関だ。ここに攻め込んでくる可能性は低いと思う。
それに……これはボクの勘だけど……」
言い淀むような間があった。
「あいつはハイランド家を狙ったわけじゃないと思う」
根拠がないということだろう。
だが、エリーはそう確信しているように見えた。
実際、そいつに襲われたエリーが言っているのだ。
何か思うところがあるのかもしれない。
「それに、その件は抜きにしても、もう自分を偽りたくなかったんだ。
マルスが言ったんでしょ? ボク――私が、女の子だって」
エリーは薄く笑みを俺に向けた。
見た目は直ぐに変えられても、一人称までは直ぐに直らないようだ。
でも、その頑張ろうとしている姿勢は応援したい。
「そうだな。エリーは、自分の弱さを受け入れる為に努力してるんだよな」
なら万が一、家のことでエリーが狙われたとしたら。
その時は、
「うん。逃げることをクセにしちゃダメだと思うから」
「その通りだ」
俺がエリーを守ろう。
「しっかり訓練もして、ちゃんと強くなるんだから。
マルスも見ててね。ボクの成長をさ」
「ああ」
もう戦闘教練室に着いてしまった。
本当はまだ聞きたいことがあった。
エリーの転入するまでの経緯とかな。
だが、その辺りは気にしないことにした。
結果はもう出たのだ。
今、エリシア・ハイネストではなく、エリシャ・ハイランドとして彼女がここにいる。
それはもう、彼女が一歩前に進んだということだから。
「んじゃ、基礎訓練を始めるわ。取りあえず壁に沿って走ってきなさい。
三十周でいいわ。終わったら腕立て、腹筋、背筋100回ずつね」
ラーニアの指示が飛び、基礎訓練の授業が始まった。




