ユーピテル学院の宿舎⑥ ラーニアとエリシア
15 8/24 サブタイトルを変更しました。
* マルス視点 *
「マルス、起きて」
「……?」
目を開くと見慣れない天井が見えた。
木製の少し濃い目の色。
このまま立ち上がると、頭をぶつけてしまいそうなくらい、天井の位置は近い。
「目は覚めた?」
下から声が聞こえてきた。
ベッドから顔を出すと、既に着替えを終えているエリシアの姿が見えた。
「おはよう、エリシア」
「うん、おはよう。ボクは食事に行くけど、マルスはどうする?」
どうやらもう、最初の鐘は鳴っていたようだ。
エリシアがいなければ朝食が抜きになるところだった。
「俺も行くから、ちょっと待っててくれ」
直ぐに身体を起こした。
寝起きがいい方ではないのだが、今日は随分と思考がすっきりしている。
睡眠の質が良かったのか、身体の疲れもすっかり取れていた。
ベッドから下りる。
「それじゃ、行くか」
エリシアを待たせるのも悪い。
俺は寝巻きのまま食堂に向かった。
食堂には、ちらほらと生徒たちが集まり始めている。俺と同じように寝巻きの人間もいるが、その多くが既に制服に着替えていた。
「おはようございます! マルスさん! エリシアさん!」
はきはきとした高い声が、俺達の名を呼んだ。
「おはようネルファ。今日もお疲れさん」
「いえ、メイドが主に尽くすのは当然でございます!
それに、これはわたしが好きでやっていることですから」
天使のような笑みを浮かべるネルファは、正にミスパーフェクト。
「朝食はどれに致しますか?」
朝のメニュー
・チーズハムエッグ
・トマトオムレツ
・ベイクドポテト
「これ以外に、ライスかパン。たまごスープが付きます」
「じゃあ――」
俺はチーズハムエッグにパン。
エリシアはトマトオムレツとパンを選んだ。
夕食に比べれば、朝食は簡易的なものだったが、それでも美味かった。
どれくらい美味いかと言うと、ネルファと生涯連れ添いたくなるくらいとでも言えば、それがどれだけ至高の味か伝わるだろう。
そんな幸せな一時を終えて部屋に戻ると、エリシアは色落ちした皮の鞄を手に持った。
「ボクは直ぐに学院に向かうつもりだけど、マルスはどうする?」
「先に行っててくれ。初日だから、ラーニアが迎えに来るとか行っててさ」
「ラーニア……って、ラーニア教官のこと?」
「ああ、そうだけ――」
(って、しまった……)
ここでは教官と呼べと言われているのを忘れていた。
まだ宿舎の中だからいいが、学院で言ったらラーニアがうるさそうだ。
「ぼ、ボクの前ではいいけど、流石に学院の中では教官を呼び捨てにするのはやめた方がいいよ」
戸惑うようにエリシアは苦笑していた。
「ラーニアにも気をつけろって言われてるから、口を滑らさないようにするよ」
「また言ってる」
「……気をつける」
あの女に舐めた態度を取ったりしたら、実力行使されそうだな。
「でも……そっか。昨日言ってた教官の知り合いっていうのは、ラーニア教官のことだったんだね」
「ああ。知り合ってまだ一ヶ月も経ってないんだけどな」
そう言ってみたものの、俺の住んでいた場所には、この学院のように鐘の音で時間を認識させるようなものはなかったから、日が落ちた回数での判断だ。
「え……? 最近知り合ったばかりなの? てっきり、以前からの知り合いで、推薦されたんだとばかり……」
「いや、あいつがモンスターに襲われてるところを助けたら、その時に誘われたんだ。だから、ここにきたのも本当に偶々なんだよな」
今思えば、ラーニアなら一人であのモンスターを始末できたのだろうけど、あの時はどこかの村娘が襲われているという勘違いから条件反射で手助けしてしまったのだ。
考えてみれば、あんな山奥に村娘がやってくる訳もないのだけど。
そういえば、あのモンスターはあまり見たことのないタイプだった。
大して強かったわけじゃないから気にならなかったけど、一体なんというモンスターだったのだろうか?
あの時の事を思い返していた俺に、
「そう……そんなことが……」
「おかしいか?」
「おかしくはないけど、ただ、知り合ったばかりで教官が推薦したってことは、それだけマルスの実力が確かだったんだろうなって思って」
俺を値踏みするみたいにエリシアの視線が上から下、下から上に動き、最後に俺の目をじ〜っと見た。
「まさか、惚れたか?」
「ばっ、バカっ! 惚れるわけないでしょ! ボクは男の子なんだよ!
も、もう行くからね! 教官が迎えに来る前に、準備は済ませておくんだよ」
ただ冗談を言っただけなのだが、エリシアは動揺したみたいに顔を赤くして、逃げるように出て行ってしまった。
しかし、捨て台詞のように残していった言葉からも、面倒見のよさを窺わすエリシアだった。
* ラーニア視点 *
あたしは男子宿舎の階段をのぼっていった。
手持ちの革袋の中には、マルスの制服が入っている。
(……あいつ、もう起きてるかしら?)
目的地はマルスの部屋。
同室にはエリシア・ハイネストがいるので、マルスが未だに眠っているということはないと思っていた。
しかし、それでも心配だったので予定よりも早く彼を迎えにきたのだ。
三階に着きマルスの部屋に向かおうとしたところで、
(あら……)
部屋から出てきたエリシアと目が合った。
「教官、おはようございます」
「おはよう。マルスはもう起きているかしら?」
「はい。起きて教官をお待ちしてます」
「そう、ありがとう。あなたが同室で彼も助かっていると思うわ」
「いえ。あの……教官、その……」
何かを言おうとして開いた口を、エリシアは直ぐに閉じた。
全く……そんな風にされると気になるじゃない。
「質問があるなら言ってみなさい。答えられる範囲でいいなら答えるわよ?」
躊躇いを見せながらも、エリシアは覚悟を決めたように切り出した。
「……マルスは、ボクの代わりなんでしょうか?」
その言葉の意味をあたしは直ぐに理解した。
次の『学院対抗戦』の、選抜メンバー候補のことを言っているのだろう。
「今のままなら、結果としてはそうなるでしょう」
学院長を含めた全教官の現在評価では、エリシアは候補にすら名前があがることないだろう。
そのことを、あたしは淡々と告げたのだ。
「……わかりました。失礼します」
複雑な表情を浮かべるエリシアだったが、軽い会釈をしてあたしの横を通り過ぎて行った。
「……それがイヤなら、実力で取り返してみせなさい」
あたしは言った。
悔しかったら、自分の実力でどうにかしてみせろ。
そう意味を含んで言ったつもりだ。
すると一瞬――エリシアの足が止まった。
少なくともあたしはそう思ったのだが、直ぐに階段を降りていく音が聞こえた。
エリシアが『この学院に入学した理由』を知るあたしとしては、これでもエールを送ったつもりだ。
エリシアの方は、あたしが『この学院の教官を務めることになった理由』を知らない。
だから、ただのお節介だと思われたかもしれない。
でもあたしは、エリシアに勝ち取ってほしいと思っている――自分の未来を。
たとえ今が、絶望的な状況だったとしても、
(……未来を勝ち取れるかどうかは、あなた次第よ。エリシア)
その呟きを最後に、ラーニアは思考を切り替えてマルスの待つ扉をノックするのだった。
* マルス視点 *
――コンコン。
軽く扉を叩く音が聞こえたかと思うと、返事も待たずに扉が開かれた。
「制服、持ってきたわよ」
まだ朝食の終わりの鐘も鳴っていないので、もう少し経ってから来ると思っていたのだけど、考えていたよりも早くラーニアがやってきた。
「早いな」
「寝惚けてるんじゃないかと思って、早めに来てあげたのよ」
「実は、一秒でも早くあんたの顔が見たくて、早起きしちまったよ」
「その軽口、あたしの授業で言ったら焼き殺すからね」
(笑顔で怖いこと言うな……)
真っ赤なラーニアの髪が、さらに赤く染まって見えた。
「ま、いいわ。外で待ってるから、さっさと準備しちゃいなさい」
制服を手渡された。サラッとした感触。
綻び一つない美しい生地だ。
俺は真新しいその服に袖を通した。
よし、これで準備はできた。
(今日から俺の、学院生活の始まりだ!)
授業の道具が入った革の鞄を持ち、俺は部屋を出るのだった。