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あいのかたち。

作者: ヒロシ

期末テストの結果は今まで以上に良好であった。

美穂(みほ)はほころぶ顔を冷たい左の(てのひら)で覆いながら少し広い畑の道を自転車で急いだ。

マフラー越しでも吐いた息は白く、薄暗い空のオレンジに溶け込んでいったのだった。

「ただいま!」

「おかえりー」

勢いよくドアを開けると、温かい夕飯の香りがして、そのリビングからはエプロン姿の母が顔を覗かせた。

ローファーを乱暴に脱ぎ捨て、マフラーやコートを脱ぐことも忘れ、喜悦(きえつ)した表情を浮かべる美穂は、母の元に走った。

「お母さん!聞いて!」

今すぐにでも母に褒めてもらいたい美穂は、その瞳を細めて鼻を鳴らしたのだが、母には「先に着替えて手を洗ってくるように」と、軽くあしらわれてしまった。

しぶしぶ部屋に上がって着替えてから、また洗面台に向かう。そこには美穂の弟、拓海(たくみ)の姿があった。

おかえり、ただいま、

と、一言だけを交わすと、中学の頃に抜かれてから自分よりも随分と背の高い弟はスタスタとリビングへ歩いて行ってしまった。

いつも帰りが遅く、練習で早朝から出て行く弟と、その日は久しぶりに顔を合わせたため声のかけ方を忘れてしまっていたのだった。

その後ろ姿を(しばら)く見つめていた美穂だったが、すぐに洗面台に向き直り、蛇口をひねった。

野球をしている弟は、とても才能があるらしく、母と父の誇りだった。特に父は毎日のように弟に構った。拓海は多分、父の昔の夢を託され、丁寧に野球少年へと仕立て上げられたのだ。


「えー、またカレー?」

「拓海はカレーが好きやからねぇ」

食卓に出された見慣れた食べ物に分かりやすく悪態を吐く美穂に母は当たり前だという風に答える。

「こないだもカレーだったじゃん!たまにはシチューとかさぁー…」

美穂はぐちぐちと言いながらもスプーンに乗った食べ物を口に運ぶ。

「今日はまた拓海が活躍したんやぞ!」

父がお酒で赤くなった頬を緩ませながら弟の背をバシバシと叩いた。いっつもいっつも聞き飽きた。楽しそうにする家族に嫌気がさす。

「てか今日平日やん…」

つーんとそっぽを向いて、むくれながら言うと弟は馬鹿にしているような顔で、

「大事な大会やと公欠できんねん。まあ、運動音痴の姉ちゃんには分からん思うけどや。」

「む…。っていうか!聞いて!今日期末テスト返ってきたんやけどさ!私また学年5位以内やったんよ!」

美穂は眉間にしわをよせたものの、一番言いたかったことを突然に思い出し、ぱぁっと目を見開いた。今回もいつも以上に寝る間も惜しまず頑張った。そうしないと点数が取れないから。母は弟のために、父は会社のために早く寝てしまう。夜中よくお腹が空いた。暖かいココアを体に流し込んで耐えた。体重は6キロ減った。

その努力の末の結果を、誇らしげに言うと母は笑って口を開いた。

「へぇ!次は1位なれるといいねぇ!」

美穂はその言葉に酷く落胆して、何も言葉が返せなかった。

「それより拓海!今日はホームラン打ったんやって?すごいわぁ!」

「…」

家族ってなんなんやろ。

私もあんたになりたかったわ。拓海。

野球の話で盛り上がる家族三人を横目に、美穂はカレーをかき込んだ。


数日後

「あ、お母さん、明日保護者面談やから。」

保護者面談のことすらも忘れていたかのように拓海と話していた母をテレビの前でぼーっと待ち、拓海が部屋へ上がって行った時に、それを切り出した。

「あ、そういえば美穂大学どうすんの?」

私に本当に興味がないんやね。

いよいよ、周りが進路を決めてそこに向かって進もうとしだした頃のこと。今まで悩みに悩んで母にすら進路を打ち明けていなかった美穂は気まずそうに顔をしかめた。

私は、もちろんこの家を出て行くよ。

「…私やっぱり、東京の大学行くわ。」

意を決して声を絞り出すと、母は少し眉を下げて笑った。

「そっか。美穂が決めたことならさみしいけど仕方ないね」

本当に寂しいなんて思ってる?お母さん。私がおらんくても、本当は拓海が居たら別にいいとか?そんなんじゃないよね。

美穂は心が黒く染まっているのを自分でもわかっていて、それを止めることができない歯がゆさを感じていた。

「お金さ、あんまりかからんとこ。頑張って勉強して行くから。もうちょっと面倒みてください。」

なんだか、切ない気持ちになって戯けたように振舞うと、母はいつも以上に真剣な面持ちで

「ばかな子やね。当たり前でしょ。あんたは頭がいいから。自分の行きたいところに、やりたいようにやり。」

あんたには道がいっぱいあるんやから。

と、切り出してその目は何か伝えたげに空中を泳いだ。そして何も言わずにエプロンをして、皿洗いを始める母を横目に自室に戻った時、美穂の目からは涙が溢れた。


半年後、1番最後の受験まで粘った。大学が決まった。本命の学部には落ちたが、もう一つの学部には合格し、晴れて美穂は東京への進出を実現させたのだった。

「拓海、お姉ちゃんさ、東京の大学行くから。」

旅立つ前日。初めて美穂は拓海にそれを告げた。

明日から。と付け足すと、拓海は驚きすぎて大事に手入れしていたグローブをフローリングに落とした。

「え?」

美穂は弟の驚いた顔に満足しつつ、ブイサインを顔の前に作った。


いよいよ当日。空港にお見送りにきた拓海は俯いて、目を合わせようとしない。

「拓海。」

美穂が呼ぶと、ふてぶてしい顔をした拓海が顔を上げる。

「あんたはこっちで日本一になる修行でも頑張りぃや!私は世界に行くための勉強しまくってあんたより先に日本でも征服しようかな!」

笑顔で言うと、拓海はさっきよりもムっとして、胸を張った。

「あほ。オレの夢は世界じゃ。絶対負けん。」

その調子。私あんたのこと割と嫌いじゃなかったよ。憎かったけど。

今更になって飛行機が来なければいいのに、なんて不思議な感情が美穂の頭をグルグルと巡る。これが寂しいってことなのかな。

ゲートの方へ向かう。

「ばいばい!天才の野球少年!」

美穂が振り向いて、手を上げる。

「おう!天才の姉貴!」

拓海も同じように焼けた肌によく目立つ白い歯を見せた。

空港の人間が数人、美穂たちを見て首をかしげた。

あんたそんな素直やったっけ?姉ちゃん飛行機でちょっと泣いてもたわ。ちょっとだけな。



半年後 春

『美穂、あのね、父さん。死んじゃった。』

突然の母からの電話に背筋が凍った。大学に入ってからの半年。本当に楽だった。寂しさももちろんあった。でもまだ半年ぐらいじゃ、帰っても歓迎してくれないだろう。と、勝手に意地を張って美穂は一度も実家に帰らなかった。

次の日、急いで帰ってきても、死んだ体は冷たかった。美穂は何も考えられなかった。

結局最後まで拓海のことばっかで死んじゃうとかずるいよ。父さん。私まだ世界見せてあげれてないよ。

「プロになった拓海の野球観戦行くって言ってたやん。」

「父さん…なんで死んだん。」

半年前には笑顔で見送ってくれた父に勝手に言い放っても、何も返答がなかった。実感も湧かず、涙も出なかった。


葬式の日、美穂はそれまで涙も出なかった自分を薄情者だとも思った。居たたまれなくなって部屋を出ると、そこにあったソファに母が腰掛けていて、美穂に手招きをした。美穂もその隣、少し間を空けて腰掛けた。しばらくの沈黙の後、美穂は苦笑いをして姿勢を正した。

「私、コッチ帰ってこよかな…。」

それはつまり、今の大学を辞めることを意味した。

「ばか。そんな勿体無いことせんといて。でも、たまに帰っておいで。美味しいシチュー作ったるからね。」

母はすでに泣き腫らしたというような顔をして空中を見つめた。そんな母を見ていられなくて、適当に理由をつけて、また部屋に戻った。拓海は一度も父の前から離れず、そこに突っ立っていた。

「…これからはオレが母さん守るから。」

拓海は涙も流さずに父の遺影をまっすぐ見つめて言った。

「あんた、強くなったね」

思わず美穂の瞳からは熱いものがこぼれ落ちた。写真の父は白い歯を見せている。


父の葬式から2年後。冬。

『次の連休帰ってこれる?』

あの後からしばしば家に帰っていた美穂のところにまたも緊急を要する母からの電話があった。

訪れた場所は家から少し離れた。大きな病院だった。自動ドアが開くと、受付のカウンターの横に居た母に美穂は駆け寄った。

二人はエレベーターに乗り込み、はやる胸の内を抑えて、5階のボタンを押した。

「拓海、もう野球出来んのやって。最悪歩けんくなるかも知れんのやって。」

拓海は飲酒運転のトラックと事故をしたらしい。命に別状はなかったものの、膝をやられてしまったらしい。

「516…ここか」

病室の前に着くと、母に少しだけそこで待っててもらえるように頼んでから、美穂は深呼吸をして部屋に入りこんだ。白くて、広い個室だった。

奥にあるベッド。そこには窓の外を眺める美穂の唯一の弟がいた。背中は随分と大きくなっていて、それでいて、少し丸まっていた。

「拓海…久しぶり」

マフラーを外しながらベッドに歩み寄ると、裏返りそうな言葉を精一杯、拓海に投げかけた。

「姉ちゃん。」

拓海はこちらも見ずに、空をその瞳に写したまま、言葉をポツリと落とした。

「なんで空はこんなに青いんやろか。」

いつもより小さい弟は、思っていたものとは違う言葉を発した。美穂は思わず目を見開き顔を上げて、希望をなくしたというような横顔を見つめた

「…え?」

「なんで空は、オレがこんなに黒くなっても、血がたくさん出ても、青いんやろか。」

何も答えられなかった。答えが出せないとかそういうのじゃない。ただ茫然とする弟が悲しかった。涙が出そうだった。

一緒になって空を見ると、雲はほとんどない、晴天だった。外は寒かったのに、空はこんなにも青いのかなんて思った。

掌にじわりと汗をかいていた。

「姉ちゃんは勉強の出来る人やから、なんでもわかるんやろな。」

拓海の苦笑いに対し、そんなことはない。と、言えなかった。拓海は俯いていて、まだ目も合わせてくれなかった。

「オレ、野球以外なんもしてこーへんかったから。もう未来が見えんよ。」

「野球で一生生きていけるんやと思ってた。甘かったわ。オレ、もう生きてる価値ないんわ。」

拓海がそんなこと思っていたなんて、知らなかった。

美穂はさすがに憤怒した。

「拓海!」

「母さんさ、父さんが死んでからも頑張って働いてオレの野球のために全部さ…。今からでも、全部返したりたい。バイトいっぱいしてさ!…ほんまは…野球で母さんと父さんに恩返ししたかった…何も叶えられん。もうオレ…母さんに迷惑かけてばっかりや。母さんのさ、顔…見たろ?あんな顔させるためにさ、野球続けてきたんちゃうんよ。オレ。」

母さんはただ悲しそうな。どうしたらいいのかわからないようなそんな表情だった。強がっていても、やっぱり気づいた。家族だから。

「…うん。知ってる。」

「オレ、ほんまに野球が好きやねん」

「それも…知ってる」

「なぁ、なんでオレ、こんな…」

何も守れんのやろ…弟は膝を握りしめて呟いた。

「充分。もう充分よ。今まで父さんの代わりに母さん守ってくれてありがとう。姉ちゃんの代わりに母さんの誕生日祝ってくれてありがとう。自分のためじゃなくて、家族のために野球頑張ってくれてありがとう。」

「オレ、姉ちゃんが羨ましいわ。」

二人きりの病室にその言葉は重すぎた。

「私、今大学で落ちこぼれてんのよ。でも、これからは、自分のためやなくて、拓海のために頑張ったるから。就職もさ、ほら家の近くの大っきい会社、あっこ受けよう思てるんよ。私があんたが元気なるまであんたとお母さんまとめて養ったるよ!」

胸に拳を打ち付けて、そう言うと拓海は呆れたように笑った。

こんな状況でも笑って、家族を励ます姉を強いとそう思った。

「姉ちゃんは、ずっとあんたが羨ましかったよ…あんさ、拓海さあさのあつこって人、知ってる?」

拓海は不思議そうにこちらを見つめる。

「うん。多分教科書に載ってた。」

小説の…そう続ける拓海に美穂は微笑んで、傍らにあった、パイプ椅子を出した。

「そう、その人。その人のね、『金色の野辺に唄う』っていう作品があるの。その作品の中でね、


「百年近くを生きれば、全て枯れ、悟り、遺す思いもなくなり、身軽に旅立てるとばかり信じておりましたが、どうしてどうして、人間って簡単に軽くはならないようです」


っていう台詞があるの。これ意味わかる?」

拓海は頭を横に振る。それを確認してから美穂は思い出すかのように空を見上げて、ポツリと話し出した。

「このセリフを言ったお婆さんはね、生きている間に色々苦労をしたんよ。それで、百年近く生きたお婆さんがついに亡くなる時に、全部そのことも無くなって、なんの思い残しも無く、空に行けると思っていたけど、やっぱり、人間はそうも簡単には行かないんや。っていう風な意味なんよ。」

拓海は納得のいかない顔をする。

「つまり、いろいろ苦労はあるけど、それも人生。ぼちぼち生きていかなあかんのやなーって。私はそう思うんよ。」

そういうとやっと拓海は頷いた。

「やから、生きてる価値とかどうとか言わんといてよ。」

微笑んで拓海を見ると、拓海は悲しそうな顔でこちらをジっと見つめていた。

「あんたは、私たち『家族』の誇りやから。」

今でも。そう付け足すと、拓海の目から空よりも青く透明で温かいものがこぼれ落ちた。

私が拓海の頭に手を伸ばした時、母が売店の袋を腕に下げて、中を伺うようにして病室に入ってきた。拓海はさっと涙を拭い、キョトンとする母に少しだけばつが悪そうな顔をして、否、頬を緩ませた。そして改まった様子で頭を下げたのだった。

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