「亜人です」
繁殖地に訓練兵の姿はなかった。
その後、一旦集合場所へと戻ると、すでに昼食の準備が始められていた。ある者は湿った落ち葉を退かして簡単なかまどをつくり、ある者はナイフで蟹をさばこうと悪戦苦闘している。これも訓練の一環だ。
火をおこす魔法に失敗して、薪を一瞬にして炭にしてしまった者には、呆れの溜息が口をついて出た。
不慣れな様子で昼食の準備に走る姿を眺めていると、ひとりの訓練兵が声を掛けてきた。
「教官、よろしければ一緒にどうですか?」
髪と軍服が濡れている。沢でびしょ濡れになっていたペアの片割れだ。名はハワードという。きちんと敬礼をした方だ。
ハワードの後方、少し離れた場所に背を丸めて座る片割れがいた。彼の名はローウェルだ。
焚火は原則としてペアは同じ火を囲むことになっている。ただし、二人とは決めていない。四人で火を囲っている焚火もある。
さすがに、六人でかまどをつくった者たちはいなかった。
ハワードとローウェルのペアが誘ってくるとは意外だった。ハワードはともかく、ローウェルは彼女を恐れている節がある。ハワードが言い出したとしても、ローウェルが拒否するかに思えたのだが……。
「いいのか?」
ハワードの誘いを訝しみ、小声で問うた。
彼はにこりと笑う。
「あいつのことなら気にしないでください」
かくて三人は同じ火を囲むことになった。
訓練兵二人が用意した火の傍に腰を下ろす。
「邪魔するぞ」
蟹を茹でていたローウェルが黙したまま顎を引いた。
相変わらず、緊張しているようだ。やはり彼が同意したとは思えない。ハワードは一体何を考えているのか。
何かを企んでいるであろう部下を一瞥すると、ハワードが肩をすくめて見せた。
何とも解釈に困る反応だ。
「戦闘は危なっかしかったが、焚火はうまいな」
素直な感想を述べると、ローウェルの緊張が少しだけほぐれたように感じた。
「あの時は、ありがとうございました」
ハワードが苦笑を浮かべながら低頭した。
一方のローウェルは、まだ硬い表情のまま「すみませんでした」と返した。
「謝らなくていい。ただ、気をつけろよ。これから」
付け加える。
「それと、暑いとはいえびしょ濡れになったんだ。風邪ひかないようにな」
鍋を掻き混ぜるローウェルの手が一瞬だけ止まった。
「どうした?」
「いえ……。ありがとうございます」
教官になって半年近く経つが、ローウェルから個人的に礼を言われたのは初めてだった。
「――ところで、もういいんじゃないか?」
噴きこぼれそうになっている鍋を指差して言うと、ローウェルは慌てた様子で火を消した。
取り皿を受け取り、ローウェルが調理したという蟹汁を食べる。
うまかった。
ハワードもうまいと唸った。彼は料理が苦手だと苦笑を漏らした。
十九になる男だ。ハワードとローウェルの二人は黙々と食事を続けた。
やがて食事を終えた者たちが焚火を片し始めた。
準備が整った者から、再び山の中へと散って行った。最後まで頬張っていた者も、教官に叱咤され慌てた様子で準備を整え、訓練を再開した。
しかし、午後の訓練が開始されて間もなく、悲鳴が山中に響いた。誰のものかは判らないが、そう離れてはいない。
リサは声がした方へ疾走した。背の低い草木が脚を掠めるが、異常事態だ。構ってはいられない。
今度は雄叫びが響いた。次いで、金属同士を激しく打ちつけ合う甲高い音が立て続けに鳴る。
――見えた!
小さな谷の底に、二人の訓練兵の姿があった。ハワードとローウェルだ。
足に怪我をしたのか、ハワードは蹲っている。ローウェルがハワードを庇うように、敵と対峙していた。
その敵が厄介だった。
トラのような顔。ぴんと立った耳。全身を覆う焦茶色の短い体毛。
獣の外見を持ち合わせながら、上体を起こし二足歩行を可能とする屈強な体躯。そして、弧を描く短刀と防具。
――亜人……!
リサ自身も初めてだった。他の魔物とは異様な気配を放つ、亜人と呼ばれる魔物を目にするのは。
「防御に徹しろ!」
斜面を滑り降りながら、ハワードに治癒魔法を掛ける。簡単な治癒魔法だ。完治はしない。今は動けるようになれば充分だった。
蹲るハワードを淡い光が包んだ。
それと同時に亜人がローウェルとの間合いを詰めて、両手に持つ奇妙な剣を振るった。
動きが速い。剣一本では防御が手一杯だった。
――いや、よく防いでいる。
絶え間なく左右交互に振られる短刀を、彼は何度も防いだ。しかし、亜人の猛攻に、徐々に後退する。
恐れたことが起きたのは、その時だ。
ローウェルが足下の石に躓いた。よろけて態勢を崩した瞬間に剣がぶつかり合い、そして弾かれた。
宙を舞った剣が、川に落ちる。
リサは舌打ちした。
右足で岩を強く蹴りつける。横合いから一気に間合いを詰めた。
亜人はリサを標的ととらえ、間合いに入った彼女に右の短刀を振り下ろす。しかし、弧を描いた短刀は宙を切った。短刀が掲げられた瞬間、リサが地面を蹴り横へと跳んだのだ。
次に、亜人は左の短刀を水平に薙ぐ。
と、予想したリサが一歩踏み込む。
迫った腕を防ぎながら脚に蹴りを入れ、前のめりに体勢を崩した亜人の顎に肘を打ち込んだ。
頸の骨が折れる音と共に、亜人は川の中へと倒れた。
息をつき、亜人を振り返る。
ぴくりともしなかった。死んだかどうかは判らないが、生きていたとしても長くはないだろう。放っておいても問題はない。
リサは再び治癒魔法を唱えた。先程よりも高度な魔法である。これでハワードの怪我は完治するはずだ。
「教官……」
ハワードとローウェルの二人が、困惑の面持ちを向ける。
「ローウェル、おまえは怪我していないか?」
問い掛けられたローウェルは黙したまま顎を引いた。
悲鳴を聞き付けた者たちが集まりつつあった。その中には、ジュードの姿もある。
「何があった?」
いつになく真剣な表情でジュードが問うた。
「亜人です」
小声で簡潔に答えると、彼は大きく目を見開いた。信じられないと顔に書いてあるようだった。
亜人は魔物の一種だ。しかし、魔物と決定的な違いがある。それは知性を持っていることだ。リサも初めて対峙し、その異様さを目の当たりにした。獣が武装しているのだ。
亜人の目撃情報が伝えられたのは、一ヶ月ほど前のことだ。発見したのは、都市周辺の魔物駆除に当たっていた部隊だった。場所は山奥にある神殿と呼ばれる遺跡だ。
武装する未知の魔物を警戒して、戦うことはしなかったという。神殿から離れる気配もなかったので、注意を喚起する程度にとどめていたが、亜人は行動範囲を拡大しつつあるようだ。
「訓練は中止だ。すぐに撤退する」
教官と亜人に襲われた訓練兵を遠巻きに見ていた者たちがざわめく。いつのまにか、訓練兵も二十人すべての顔が揃っていた。
訓練兵の不安を煽るのは芳しくないが、事実を伏せることは不可能だ。何しろ、リサと亜人との戦闘を目にした者がいる。
訓練を中止し、このまま撤退することが伝えられた。集合場所に荷物が置かれたままだが、近くに亜人がいる以上、荷物を回収しに行くことは出来ない。最優先は、訓練兵の命だ。
すぐに列が整えられた。ジュードを先頭に、列が動き出す。
殿はリサの担当だ。彼女は、周囲に警戒の目を向ける。
目が合った。
谷の上だ。こちらを見下ろす亜人が二体いる。
「ローウェル」
前を走る訓練兵の肩をつかみ、引き寄せる。
「少尉に伝えろ。トカゲとな」
ローウェルは理解出来ないと顔をしかめるが、反論は許さなかった。引き寄せた肩を乱暴に突き放し、リサは誰にも気づかれぬように足をとめた。
谷の上を振り返り剣を抜く。
トカゲとは囮になることの隠語だ。いつか訓練兵もその意味を知ることになる。
亜人が斜面を滑り降りてきた。今ごろ川を流れる亜人とは異なり、手には柄の短い斧を握っている。それも両手に。
体格は変わらないというのに、重い武器を二振りも持つとは、知性はあるが利口ではないようだ。先程の亜人よりも戦いやすいだろう。
リサは口元を緩めた。
西門をくぐったのは、それから数刻が経ってからだった。
亜人との戦いは、それほど苦労しなかった。ただ、街に戻れば亜人への対処を考えなければならない。対処を考えるには、少しでも多くの情報が必要だった。だからこそ、リサは単身で山を駆け、可能な限り亜人と刃を交えた。
しかし、これといった収穫はなく、謎が増えただけだった。亜人は消えるのだ。
「ディオン」
門をくぐり駐屯地へ向かって歩いていると、ジュードが正面から足早にやってきた。
「遅いぞ!」
上官からの一喝に、リサは敬礼した。
「申し訳ありません」
謝罪するが、ジュードは一喝ですましてはくれなかった。彼女が何を考えていたか、理解したようだ。
「確かに、トカゲの役割は殿の務めだ。けどな、態々それ以上の危険を冒す必要はない。おまえはトカゲの尻尾じゃないんだぞ」
ジュードは一度溜息をつき、前髪を掻き上げた。ほっとしたような表情になる。
「無事で何よりだ。ディオン」
こんな時、目の前の上官に何と返せばいいのか判らなかった。
とりあえず、もう一度敬礼をしておく。
「戻るぞ。今日の会議は長い。覚悟しろ」
ジュードはそう言いながら背を向けた。
駐屯地までの道中、ハワードとローウェルについて尋ねた。訓練兵は亜人について詳しい話をされてはいなかった。未知の魔物故、詳しい話と言っても高が知れているが、二人は相当の恐怖を味わった。撤退中の緊張状態ではしっかりとしていたが、今の状態が少しばかり気になった。
「あの二人なら心配ない。今も亜人についてしつこく聴取されているが、ディオンが戻ってきたとなると二人への聴取は終わるだろう。今日は念のため、医務室で先生と一泊だそうだ」
先生とは、長年クレムスの駐屯地に勤務する軍医のことだ。真っ白な頭をしていて、外見的には結構な歳だと推測出来るが、年齢は秘密とのことだ。知られたら退職するとまで言っていた。しかし、間違いなくこの駐屯地では最高齢である。何せ、司令官さえも頭が上がらないとぼやくくらいだ。
「二人とも、礼を言っていた」
「それが仕事ですから」
「そうだな」
互いにそれ以上は何も言わなかった。当事者同士の会話ではない以上、しつこく言っても仕方ないことだ。
その後、二人は無言のまま歩いた。
駐屯地の正面までやってくると、数歩先のジュードが歩みをとめた。何とはなしに、リサも同じ距離感を保ったまま足をとめた。
「すまないな。ディオン」
「はい……?」
眉根を寄せる。何故謝られたのか判らなかった。
ジュードは再び歩きだす。どうやら、理由を話す気はないらしい。それで謝罪の意味はあるのだろうかと思うが、追求はしなかった。謝りにくいが謝らなければならない時がある。彼にとっては、これがその謝罪なのだろう。
その後、ほどなくして長い会議の幕が開けた。