「付き合っていたんだ」
鳥のさえずりが聞こえる。他には薪の爆ぜる音だろうか。
柔らかな朝の陽射しが瞼をさした。ゆっくりと視界が広がる。
映し出されたのは、木の壁とガラス窓、そして窓の向こう側の寂しい木々たちだった。
外ではしゃぐ子供の声に、こめかみの奥が痛んだ。思わず顔をしかめ、こめかみを押さえる。シーツから出した手が、寒さを感じ取った。
「起きたか?」
聞き慣れた男の声に、己が死んではいないと悟った。あるいは――
「――おまえも死んだのか……?」
頭を動かすと、声の主が目に入った。声の主は彼女を見下ろしながら、これ見よがしに長い溜息をつく。
「俺たちの腐れ縁は、死んでも続くのか?」
「それだけは、ごめんだな」
自分のものとは思えないほどに身体が重い。意識を失う前のことを思い出して、血を流しすぎたからだと納得する。だが、あの怪我を負ってなお生きていることには、やはり疑問を禁じ得ない。
リサは斬られた首筋に手を宛がうが、指先が傷痕を認識することはなかった。痛みもない。腹部も刺されたというのに無傷だった。
「どうして、生きているんだ……?」
ベッドの隣に座るウィルが肩をすくめて見せた。
「守護者様のおかげで」
その守護者に殺され掛けたのだと反論しようとして、すぐに口を噤んだ。守護者はレヴェリスだけではない。他にもいる。
「リオン、か……」
アスクルの守護者たるザインは、すでに消滅してしまったと聞く。必然的に、残る守護者は一体だけだ。
「そうだ。カンヘルの守護者様だ」
敬称をつけてはいるものの、その口調に敬意は含まれていない。まるで皮肉だといっているようだ。
「なんでまたカンヘルの守護者まで……」
「カンヘルの危機だから。レヴェリスはアスクルだけじゃなく、結界の中にいる人類すべてを殺したいらしい。世界を守るために」
結界の中――アークには、カンヘルも大勢いる。それらすべてを殺すというのなら、確かにカンヘルの危機でもある。
「人類を滅ぼそうとは、大した守護者様だ……」
「そこは腐っても守護者だ。全人類じゃなく、滅ぼすのはアークの人類なんだからな」
「どちらにしても、迷惑な話だ……」
リサは窓の外へと目を向けた。記憶が正しければ、今は陽の節三月のはずだ。一年で最も暑い季節である。それなのに、外の木は葉を一枚も纏ってはいなかった。暖炉にも火がくべられている。まるで宵の節のような装いだ。
「――ところで」
疑問を解決しようと口を開く。
「私はどのくらい眠っていたんだ?」
「三日だ」
「三日……?」
計算が合わない。三日しか眠っていないのに、外は宵の節だ。
「どういうことだ? 三日しか経っていないのに、宵の節になったというのか?」
「ここはアークの外だ。でもって、アークは南半球、ここは北半球だから季節が逆になるらしい」
ようやくのことで納得する。初等教育期間に習ったことがある。地理の授業で簡単に触れるほどだったが、当時は想像も出来ない事実に驚きを隠せなかった。
授業で生存圏の外を詳しく教えることはしない。何故なら、教えを授けることにより、いらない興味を覚える者がいるからだ。故に、地理の授業内容は九割以上が生存圏内のことである。地図にされる最大域も生存圏とその周辺くらいのものだ。
「アークの外、か……」
呟きながら、ずいぶんと遠くまで来てしまったものだと考えた。ほんの一週間前には、結界の外は人類が住めぬ場所だと信じて疑わなかったのに、今ではその結界の外にいるのだ。気を失ってから、何がどうなり、ここにいるのかは判らないが。
「俺たちは、めでたく重罪人になったわけだ」
リサは息を吐き出す。これで粗方の疑問は解決され、会話が途切れた。ただ、最も気になることを聞けずにいた。ウィルも話に出さないとは、何とも人が悪いと言掛りをつけたくなる。
「……ソフィアは、どうなったんだ?」
何故か、ウィルの顔を見ることが出来なかった。しかし、気配で彼がかぶりを振ったのが判った。
「守護者のままだ」
息が詰まる。夢だと思い込みたかったが、どうやらそれは無理のようだ。
勢いに任せてレヴェリスに斬り掛かってしまったが、彼の者はソフィアの身体を器としている。彼の者を打倒するということは、ソフィアを痛めつけるということに他ならない。
「あの時な、リオンが出てきたんだ。それで、レヴェリスの不意をついたんだけど、殺せはしなかった。封印しただけだ。その後に、俺たち三人はリオンの転移魔法でここに飛ばされたんだよ」
リサは心の奥底で、ほっとした自分を認めた。殺せはしなかったというのは、ソフィアが生きていることを意味する。ダグラスは器となった者は死ぬと口にしていたが、生きているのなら、何か解決策が浮上するかもしれない。カンヘルの守護者たるリオンがいるのなら、知恵を与えてくれる可能性もある。
「殺すなよ。あれは、私の妹だ」
「そうだな」
だが、淡い期待を抱くと同時に、彼女は理解していた。ソフィアを救い出すことが、いかに現実的でないかを。
重たい沈黙が二人を包んだ。心地悪い沈黙がしばし続き、やがて扉が開く音が耳に届いた。
「少尉……」
部屋へと入ってきたのは、ジュードだった。ウィルもそうだが、彼も軍服を身につけてはいない。見慣れぬ服を着こんでいた。
ジュードは外にいたのか、寒さに頬と耳を赤く染めていた。鼻水をずずっと吸う。
「起きたのか、ディオン」
「まだ、起き上れはしませんが……」
冷えた身体を温めようと、ジュードが暖炉の側の椅子に腰を下ろした。
「巻き込んでしまって……申し訳ありません」
どこか頼りない背に向かい、謝罪の言葉を口にする。すると、彼は振り返りもせずに生返事を寄越すだけだった。
様子がおかしいと思いつつも、問うことはしなかった。巻き込まれて、結界の外まで来てしまったことに失望しているのかもしれないと考えたのだ。さすがに、この状況を許容出来る人間はいないだろう。
「外の様子はどうでした?」
「何も変わらない。相変わらず、好奇の目を向けられる」
「リオンは?」
「忙しいんだろ。会いに行っても、追い返される」
ウィルの問いにも無愛想に答える。三年半の付き合いになるが、こんな彼を目にするのは初めてだった。
「けど、一応リサが起きたこと伝えに行ってくる」
「ああ。頼む」
ウィルが立ち上がった。正直なことをいえば、ジュードと二人きりになるのは気が重たいが、ウィルはリサの気持ちを知ってか知らずか、部屋から出て行ってしまった。
ジュードが部屋に入ってきたことで、ウィルとの沈黙は破られたのだが、再び重たい沈黙が伸し掛かった。いっそのこと、ひとりにしておいてもらった方が気が楽だ。
しかし、ジュードには出て行けない理由があったようだ。
「――ディオン」
重たい口を開く。
「おまえに話がある」
いつにも増して真剣な声音に、リサは眉根を寄せた。罵倒される覚悟なら出来ていたが、雰囲気が違う。何の話か、皆目見当もつかなかった。
「なんですか?」
「妹さんのことだ」
「ソフィアの?」
嫌な予感がした。アークの人類殲滅を目的とするレヴェリスの器にされてしまったのだ。殺すという辛辣な言葉を投げ掛けられるのだろうかと気構えるが、彼女の気構えは全く意味をなさなかった。
「ウィルにはもう話したんだが……、付き合っていたんだ。結婚を前提に」
心臓が大きく脈を打った。思わず、もがくようにして上体を起こす。あまりの動揺と体調の悪さに、それだけで息が荒くなった。
目を開けているにもかかわらず、視界が暗くなった。こめかみの奥に鋭い痛みが走り、頭を抱える。
「まだ起きたら駄目だ!」
慌てたジュードが椅子から飛び上がり、リサを横にさせようとした。だが、肩を押さえようと差し出された手を乱暴につかむ。
「ソフィアと……、ですか?」
ジュードは黙したまま顎を引いた。殴られることを覚悟しているのか、唇を固く引き結んでいる。
「いつから……?」
「半年くらい前から」
全く気づかなかった。ウィルが異動となる少し前に、ソフィアが彼に告白していたことは、何となく察していたが、ジュードが恋人になっていたとは寝耳に水だ。こういう時でなければ、本当に殴っていたかもしれない。
ただ、この話を聞いて納得出来ることがいくつもあった。確かに、彼は度々ソフィアの話題を口にしていた。おそらく、仮病を使っての突然の呼び出しも恋人同士だったから頼み、ソフィアも承諾したのだろう。
リサは溜息と共にベッドに倒れた。
「こんな時に言うのも、不謹慎だとは思ったんだが……」
不謹慎だ。反則だ。そう思ったのも事実だが、それと同時に今後打ち明ける機会がないように思ったのも事実だった。
「今まで、黙っていて悪かった」
ジュードは深々が頭を下げた。
ウィルが出て行ったのは、この話をすでに聞いていたからだろう。今さらながら納得する。
「……ソフィアは、レヴェリスの器になってしまいました。助かるか、判らない」
リサの言葉に、ジュードが顔を上げた。普段の彼からは考えられないほど、激しい感情を宿した瞳でリサを見る。
「レインから聞いた。だけど、絶対に死なせやしない」
ジュードの言葉に、リサは素直にうなずくことが出来なかった。




