「あいつのことはどうでもいい」
薄暗い空に幾重にも重なった掛け声が響いた。何度も、空気を裂く音と共に。
山麓都市と呼ばれるだけはあって、空はきれいだった。しかし、二十年近く見続けていれば、感慨は薄れる。
リサは壁に背を預け、腕を組んだまま溜息を漏らした。
士官学校へ通い、軍人となって四年の時が流れた。配属は山麓都市クレムス。彼女の故郷だった。
何もない町だ。背後に鬱蒼とした山が連なるだけの退屈な町。
しかし、軍人となったばかりのころ、退屈さなど気にも留めなかった。
――あいつのせいだな。
今はいない同期に、心を乱される。
……のは癪だった。
考えても仕方ない。新米兵士の教官なんて暇な仕事のせいで、つい思考を巡らせてしまう。
リサはもう一度溜息をつき、ゆっくりと歩み出した。
目の前では訓練中の新米兵士たちが掛け声と共に剣を振り下ろしていた。まだ幼さが残る顔に汗を滴らせている。
彼らは今年、クレムスに配属になった兵士だ。数は二十。その内、十七人がこの町の出身者である。残る三人は運悪く辺境に配属になった者か、あるいは何もないこの町を希望した物好きかだ。
いや、何もない訳ではない。山の麓というだけはあり、至る所に坂がある。
坂は便利だ。今日もまた、訓練兵の足腰を鍛えるのに一役買ってくれたのだから。
歩み出た教官に目もくれず、新米兵士はひたすら剣を振るう。士官学校や訓練学校の訓練よりも厳しいと言われるが、四ヶ月経っても脱落したものはいない。
リサは密かに感心していた。
だからこそ、暇なのだが……。
無言のまま右手を挙げる。すると、訓練兵は素振りをやめて剣を下ろした。
「今日はここまでだ。冷える前に着替えろよ」
訓練兵が一斉に低頭し、声を張り上げた。
「ありがとうございました!」
低頭を終えると同時にその場に座り込む部下の姿に、リサは腕を組みながら小さく笑った。
「ほら、早く動かないか」
「ちょっと、待って……くださいって」
訓練兵のひとりが息も絶え絶えに答える。
「少し休まないと、動けませんって……」
周囲で同じように座り込む者たちが何度もうなずいて見せた。思わず、といったようにリサは肩をすくめた。
「おまえたちが帰らないと、私も帰れないんだ」
ようやく訓練兵のひとりが立ち上がり、ゆっくりと走り出した。それに倣い、残りの訓練兵も重たい足取りで走り去る。
すべての兵を見送り駐屯施設へと戻ろうとした時、視界の隅に男性の姿が映った。
「ご苦労様、ディオン准尉」
「ルーカス少尉……。戻っていたのなら手伝ってくださいよ」
彼女の下に歩み寄ってきたのは、三期上の上官であるジュード・ルーカスだった。
薄茶色の髪にダークエメラルドの瞳は、彼がカンヘルの血を継ぐことを示している。
訓練兵の指導はリサとジュードが担当していた。しかし、今日ジュードは中央に行っていたはずだ。本来なら、態々駐屯地に顔を見せる必要はない。
「今来たところだ」
部下の苦情を笑い飛ばしながら、彼は訓練兵たちが消えた方へと目をやった。
「俺だけの時より、しっかり動いてやがるなぁ」
少しばかり不貞腐れたような物言いに、リサは小首を傾げる。
「そうでしょうか? 私には変わりないように見えますが……」
「おまえがいる時とは変わらないからな」
返す言葉に困り口を噤んでいると、ジュードが思い出したように口を開いた。
「そういえば、妹さんに会ったぞ。仕事ばかりで連絡をくれないと心配していた」
彼に言われて思い出した。数日前に妹――ソフィアからメールが届いていた。受信したことは確認していたが、本文に目を通すのをすっかり忘れていた。
「……今日から休みでしたね」
「その様子だと忘れていたみたいだな」
意地の悪い笑みを浮かべた上官が続けた。
「たったひとりの家族なんだろう? 仕事も大切かもしれないが、一番大切なものを見失うなよ」
真面目腐った指摘に、背筋を伸ばし胸の前で右の拳を握った。そして、抜け目ない敬礼とは裏腹、締まらない声を返す。
「大変ありがたいお言葉に涙が出る思いです、ルーカス少尉」
「かわいくない部下だ」
不満だとばかりに片眉を吊り上げる上官と共に、駐屯地の事務棟へと向かい歩みを進めた。
「かわいくないのは生まれつきです」
非難されても減らず口は減らない。だからこそ減らず口だ。
呆れたような溜息と共に、ぽかりと頭上に拳が下ろされた。上官として、その対処の仕方はどうかと思うが、ジュード・ルーカスという人はそういう人物なのだ。だからこそ、部下にも信頼され、市民にも慕われている。減らず口が叩けるのも、人徳があるが故だ。
事務棟へと入ったところで、事務担当の女性軍人にジュードが呼び止められた。挨拶もなしに去るのは失礼だろうと、リサも離れた場所で立ち止まる。
立ち聞きをするつもりはないが、どうやら彼宛に荷物が届けられたらしい。女性軍人は受け取りの署名が欲しかったようだ。ついでに、どうしてここにいるのかと尋ねられ、彼は苦笑を漏らした。
「明日は実践訓練だから、事務仕事を片しておきたくてね」
書類にペンを走らせて返すと、女性軍人は足早に去って行った。
「もう帰るのか?」
「はい。申し訳ありませんが、お先に失礼します」
「謝らなくていい。久しぶりに妹さんに会うんだろう? 早く帰ってやれよ」
黙したまま顎を引く。とはいえ、すぐに帰るつもりはなかった。今日は訓練に付きっきりだったのだ。そのせいで、彼女自身は身体を動かすことが出来なかった。少しくらい走らなければ、身体がなまってしまう。
ジュードと別れの挨拶をすまし、リサは人気のない坂道を走った。
荒くなった息を整えようと深呼吸を繰返す。
リサの家は麓でも平地よりに位置している。駐屯地とはそう離れていない。勤務するには便利な場所だ。無論、敷地内にある寮の方が何倍も便利ではあるが。
妹のソフィアが中央の大学へと進学し、一年と半年近く経とうとしていた。今では、家に明かりが灯っていることに違和感を覚えるようになった。
小一時間前にジュードに言われたにもかかわらず、リビングに明かりがついているのを不審に思ってしまった。ソフィアに知られたら、ひどいと嘆かれそうだ。
リサは緩んだ口元を引き締め、扉を開けた。
リビングに入ると、香ばしい香りが鼻腔を刺激した。
「もう、遅いよ」
リサと同じ枯草色の髪に翠玉の瞳を持つ少女。それが、ソフィアの外見的特徴だ。
似ている。
と、よく言われた。特に幼いころは。
姉妹で同じ髪色、さらにはカンヘル特有の瞳を持つのだ。似ていると言われてもおかしくはなかった。
しかし、顔つきはまったく違った。リサは性格の厳しさが表れている。一方のソフィアは、可憐という言葉がよく似合っていた。
「いつもより早い」
ぶっきらぼうに返すと、ソフィアは穏やかに笑った。
「はいはい。でも、忙しいのは判るけど、メールくらい返してよね。心配するでしょう?」
これではどちらが姉なのか判ったものではない。昔は泣き虫で甘ったれだったというのに、いつの間にこんな口を利けるようになったのだろうかと疑問に思った。
――いや、あの時には……。
リサは十五歳の時から三年間、中央にある士官学校に籍を置いていた。士官学校に通う者は、全員が寮で生活する決まりだ。ソフィアが変わったのは、リサが寮に入っていた三年の間だ。
「気をつけるよ」
再び離れて大人びた妹に適当な返事をし、彼女は自室へと足を運んだ。
長い髪をまとめる髪留めを外し、きっちりと着こなした軍服を脱ぐ。軍服は息が詰まるのだ。
着替え終わりリビングへと戻ると、テーブルに夕食が用意されていた。ソフィアが料理を出来るようになったのも、士官学校を卒業してから気づいた。
「お姉ちゃんのことだから、いつも軽くすませちゃってるんでしょう?」
「つくる暇がない」
「なら、私がいる時くらいちゃんと食べてよね」
今度はまるで母親だと思いながら鼻先で笑った。
二人は席につき、数カ月分のたまった話をしながら食事を楽しんだ。久しぶりに食べる妹の料理はうまかった。ソフィアの話に相槌を打ちながら箸が進んだ。
食事を終えて一息つくと、ソフィアが真剣な表情をしていることに気づく。
「どうかしたか?」
ソフィアは時折、このような表情を見せる。何か言いたいような、言いたくないような、複雑な顔だ。
「ウィルから連絡あった?」
ああ、その話かと納得した。ソフィアは彼の話になると今のような表情になる。理由は何となく察せられた。
リサはかぶりを振る。
「おまえこそどうなんだ? あいつは中央にいる。おまえの方が会う可能性は高い」
――ウィル・レイン。士官学校の同期だ。そして、一年と半年前まで相棒だった男。
「軍人さんがいるような場所には近づかないから」
同じ街とはいえ、中央は広く人も多い。街中で巡り会うなど不可能に近い。
「それに、お姉ちゃんにも連絡もしない人が、私にするわけないでしょ?」
一理ある。
「……そうだな」
ウィルは身勝手な奴だ。相棒であるリサに、何も言わずにいなくなった。仕事で異動になるのは仕方ない。しかし、別れの挨拶もせずに行ってしまったことが腹立たしかった。
「あいつのことはどうでもいい」
思い出すだけで、胃がむかむかした。
癪だ。好い加減、あいつに心を乱されるのは。
「そう、だね」
そう返すソフィアは、どこか寂しそうな笑みを浮かべていた。