「まだおまえの父親になった覚えはない」
時刻はすでに定時をすぎている。しかし、帰る者の姿は疎らだった。殺人事件の捜査やら何やらで、仕事は山のようにある。神殿調査から戻ったからといって、早々に帰るのは同僚たちに悪い。
「まだ仕事してくのか?」
ウィルの問いに、リサは顎を引いた。
「今日も泊まっていくんだろう?」
「そのつもりだ」
「なら、先に家に戻っていてくれ」
通路で立ち話をしていると、再び司令室の扉が開いた。中から出てきたケインズが、リサとウィルを交互に見た。
「おまえら、こんなところで話なんかしてねぇで、さっさと帰ったらどうだ?」
リサは眉根を寄せた。これは、ウィルだけに向けた言葉ではない。
「まぁいい。ウィル、おまえいつ中央に戻るんだ?」
――ウィル……?
今度は呼ばれた本人も眉根を寄せる。ケインズが彼を名で呼んだことは記憶になかった。
「それじゃ、四日後に」
「いい加減だな。報告に戻らなくていいのか?」
リサは腕を組んで尤もらしく言った。
「報告なら無線でも出来る。それに準備に時間が掛かったとか言っておけば、上もうるさく言ってこねぇよ」
肩をすくめて言うウィルに、ケインズは片頬を吊り上げた。
「そうか。なら、ディオン。四日くらい休め。おまえも疲れがたまっているだろう」
「いえ。私なら大丈夫です。こんな忙しい時に――」
「――命令だ。休め」
反論は許さない。そう顔に書いてあるようだった。
「諦めた方が良さそうだな」
「……了解」
せめてもの反抗で、リサはいかにも不満そうに呟いた。すると、何故かケインズは満足そうに笑い、そして彼女の頭に大きな手を乗せた。
「そう不貞腐れるな、リサ」
「別に不貞腐れているわけでは……」
「昔はよくそんな顔をしていたな」
そのような子供染みた表情はしないように心掛けていたのだが、どうやら隠しきれてはいなかったようだ。否、早くに両親を亡くしたリサたちの後見人として、それだけ気に掛けていてくれたのだろう。
頭の上から手が離れる。
「疲れているだろうが、今夜ソフィアも連れて三人でうちに来い」
「俺も?」
「そうだ。久しぶりに、みんなで飯食うぞ」
リサは思わず小さく笑った。
「ローラさんの手料理を食べるのは久しぶりですね」
「ソフィアはたまに顔を見せにくるが、おまえはちっともこねぇからな」
「隊長とは毎日のように顔を合わせていますから」
「俺じゃなくて、あいつに見せてやれ」
ケインズが片眉を吊り上げて見せた。
「――ところで、隊長の奥さんの料理ってうまいのか?」
ごちん。
ウィルの不躾な問いに、ケインズが拳を落とした。愛妻家の容赦ない鉄槌だ。
「いってぇな!」
「ソフィアに料理を教えてくれたのはローラさんだ。料理の腕なら、それで判るだろう?」
「なんだよ、それ。初耳なんだけど」
「初耳だろうが何だろうが、おまえには食わせん」
「指くわえて見てろってのか。ひでぇ親父だな」
「まだおまえの父親になった覚えはない」
――まだ……?
引っ掛かる物言いに、リサは短く息を吐き出した。
楽しそうに話しながら歩くウィルとソフィアを見て、リサはほっと安堵の溜息を漏らした。
彼が異動になる前、二人の間に起きたことは容易に想像がつく。その後、ウィルとソフィアに妙な距離が生じたことにも気づいていた。しかし、本人たちが何も言わない以上、リサは知らないふりを決め込む他になかった。
当時の空気が、とても心地好いものではなかったことをよく覚えている。短い期間とはいえ、再び居心地の悪い空気を味わうのだと考えると、正直なところ気が重たかった。
――私もまだ子供だな。
数歩先を歩く二人に気づかれぬよう、リサは自嘲の笑みを浮かべた。
それから間もなくして、三人はケインズの家へと到着した。
「久しぶりね。リサもソフィアも」
ローラが嬉々とした声を上げた。
「ご無沙汰しております」
「いいのよ。そんなかしこまったりしないで」
まるで血のつながった母親のように穏やかな顔でリサとソフィアを見比べる。
「ここに来るのは、何年ぶりになるのかしら?」
「一緒に来たのは、お姉ちゃんがクレムスに帰ってきた時だよね?」
「三年半、ですね」
「あぁら、もうそんなに経つのね」
くすりと笑い、ソフィアの髪を撫でる。それを見て、リサはかなわないなと実感した。
「ソフィアと会うのは一年ぶりかしら? また一段と綺麗になったわね」
「一年でそんなに変わるかな?」
「変わるわよ。女の子が、一番大人になる時期だもの」
他愛ない話を続けていると、リビングからひょいとケインズが出てきた。
「そんなとこで立ち話してねぇで、早くこっちに連れてこいよ」
「そうよねぇ。ごめんなさい。長話しちゃって。もう準備は出来てるから、どうぞ中へ入ってちょうだい」
勝手知ったる様子で、一足先にソフィアがリビングへと入っていった。それを見送り、ローラがウィルに声を掛けた。
「あなたがウィルくんね?」
「そうです。初めまして、ローラさん。お招きくださり、ありがとうございます」
にこりと人好きのする笑みを浮かべる。普段の恣意的な態度とは大違いだ。
「あの人から話は聞いてたけれど、ずいぶんと印象が違うのね」
思いの外好印象だ。釈然としない気分を晴らすため、一言だけ言っておこう。
「猫被っていますから」
「余計なこと言うな」
「もう隊長が洗いざらい言っているだろう」
「それでもだ」
こんなやり取りを見ても、ローラは愉快そうに微笑んでいた。
「はいはい。仲が良いのは判ったから、口喧嘩はそれくらいにして、あなたたちも入りなさい」
ローラに招かれ、リサとウィルはリビングへと通された。
久しぶりに食べるローラの手料理は、昔と変わらず美味だった。味つけはもちろんのこと、とても手が込んでいるのだ。
「おまえも教えてもらった方がいいんじゃねぇの?」
「……」
無視を決め込み、コーヒーに口をつける。
「お姉ちゃんも教えてもらってたよ」
「そうなのか?」
「そうよ、ウィルくん。私の一番弟子はリサなんだから」
ウィルの言葉を無視したのは間違いだったかもしれない。何故か気恥ずかしさに駆られる。
「弟子は大袈裟です。私はすぐに中央へいってしまいましたから」
「合格するなりいっちまったな。別に、気を使う必要なんてなかったんだぞ」
ケインズの言葉に、リサは口元を歪めた。まったく、気を使っているのはどちらだというのだ。
「おまえがクレムスを出ていく時なんて、ソフィアがわんわん泣いて大変だったよなぁ」
「それは言わないでくださいよ!」
珍しくもソフィアが声を荒げた。本当に恥ずかしいのか、頬と耳も赤く染まっている。意地の悪いことに、ケインズは顎をさすりながら満足そうに笑っていた。
「懐かしいわねぇ。二人とも、いつの間にかこんなに立派になっちゃって」
立派かどうかは甚だ疑問だが、少しは大人になっただろう。ソフィアも、ケインズの揶揄に怒れるくらいには成長した。
しかし、そのような家族談議に興じるのは、何も今でなくとも構わない。
リサは隣の男を流し見た。面白くもない身内話を聞かされて、ウィルは何を思うのか。それが気掛かりだった。
「あのころから比べりゃ、ずいぶんと逞しくなったもんだ」
「そうか? こいつなんて、会った時から変わんねぇと思うけどな。無愛想で強情だ」
相変わらず飄々としている。不愉快と思っている様子もないが、興味深いと思っているようにも見えない。
――そんなに興味持たれても困るけど。
食後の一服を終えると、ローラとソフィアが食器を片し始めた。二人ばかりにやらせては悪かろうと、リサも手伝いを申し出る。だが、あえなく「休んでいなさい」の一言を言い渡された。
言われた通り、リビングで大人しくしていようと思い直したところ、デッキに男二人の姿を見つけた。こっちへこいと手招きされ、彼女はデッキへと出た。
「わりぃな、二人とも。疲れているところ付き合わせちまって」
「いえ……。こちらこそ、ありがとうございました」
いかにも社交辞令らしい言い方だ。こういう時、己の口下手さに嫌気が差す。
「そうそう。ソフィアの師匠ってだけあって、うまかったしな。満足だ。また呼ばれてもいい」
「――ったく、調子のいい野郎だな」
嫌気を掻き消す軽い声に、ほっと一息つく。
「まぁ、気が向いたらまたこい。二人ともな。いつでも歓迎してやる」
「そいつはありがたいことで」
適当な返事をしたウィルが、少しばかり口元を引き締めた。
「それにしても。世話になってたとは聞いてたけど、思いの外仲良さそうじゃねぇか。ソフィアなんて、よく懐いてるみたいだ」
「私が中央にいた三年間、あいつはここに一緒に住んでいたからな」
「十二歳ばかりの子供を独りにしてはおけねぇからな。その辺、おまえらの母親はしっかり考えていたんだろうよ」
「……そうですね」
母親が自身の死後のことを充分に考えていたのかは、娘であるリサにも判らなかった。それでも、何も考えていなかったわけでないことは理解しているつもりだ。そうでもなければ、後見人など依頼しているはずもない。
「けれど、ソフィアがひねくれなかったのは、隊長たちのおかげです」
リサは深々と頭を下げて言った。
「ありがとうございます」と。




