「やっぱ、おまえらは一緒にいねぇとな」
皿が割れた。皿を割ったのは生まれて初めてだった。
念のために言っておく。割れたのは食器ではなく膝である。
転移石により、リサとウィルは何とかクレムスまで戻ってくることが出来た。しかしながら、転移が完了して立ち上がろうとした瞬間、膝に激痛が走ったのだ。
魔力を消費して水晶のように色が抜けた転移石が手から零れ落ちる。膝を抱えて静かに悶絶していると、背後からウィルの声がした。
「何してんだ、おまえ」
惚けた物言いが、少しばかり頭に来た。
「おまえのせいで……、皿が割れた」
「ああー。あの時か」
納得したように手のひらをぽんと叩く。
「わりぃな。ああでもしなきゃ、亜人の飛ばした剣がおまえに直撃してたんだ。皿が割れるのと、死ぬのとどっちがいい?」
「どうでもいい……!」
ウィルが治癒魔法を掛けてくれる様子を見せないので、リサは仕方なく自身に魔法を掛けた。恐る恐る痛んでいた膝を曲げ伸ばしすると、いつも通りに膝はいうことを聞いた。痛みも完全に消えている。
石を拾って立ち上がる。辺りを見回すと、見慣れた駐屯地の景色が広がっていた。
「報告にいくぞ」
時刻はすでに夕刻になっていた。西の空が茜色に染まっている。これから報告するとなると、帰るのは遅くなりそうだ。
「その前にシャワー浴びてぇな」
同感だ。二人は亜人の返り血を全身に浴びていた。死体は消えるというのに、流れた血は消えずに残るのだ。軍服の白い布地部分は赤く染まり、顔や髪にも血糊が付着している。任務とはいえ、心地よいものではない。
司令室へと向かい歩いていると、血に塗れた二人を発見した上官が大慌てで駆け寄ってきた。
「どうしたんだ、おまえら⁉」
あまりの勢いに、二人は呆気にとられた。
「どこ怪我してんだ⁉ ぼけっとしてないで早く医務室にいくぞ!」
冷静に考えれば判りそうなものを、駆けつけた上官は亜人の返り血を二人が流した血だと勘違いしているようだ。
「はぁ。いや……」
「ディオン、おまえらしくもない。いつもみたいに、しゃきっと歩かないか!」
「いえ。しゃきっとは……」
相手の剣幕に押されて歯切れ悪く返す。すると、上官は何故か慌てつつも納得した表情を見せた。
「そうか。怪我していたら、しゃきっと出来るわけがないよな……。すまない。なら、俺が背負って医務室まで連れていってやる」
そう言って、上官が目の前で背を向け片膝をついた。
心配してもらえるのはありがたいが、どう対処すれば良いものかと困り果て、隣を歩いていた男に目を向けた。
笑いを噛み殺している。それどころか指先で上官の背を指し、背負われてみろと揶揄する。
無性に腹が立ったので、リサは上官の死角で気づかれないようウィルの鳩尾に軽く一発入れてやった。
「いっ!」
ウィルが鳩尾を押さえながら蹲る。
「どうした、レイン⁉」
「私よりも、こいつの方がひどいので」
淡々と嘯くが、ウィルに反論する余裕はまだなかった。
「そうだったのか。ディオンが歩けるのなら、俺はこいつを背負っていく」
「いや。大丈夫っす……っ」
「遠慮するな!」
「そ、それじゃ……」
拒否しきれないと諦めたのか、ウィルがかつての上官の背によじ登った。彼は背負われながらリサを一睨みするが、彼女はあしらうように鼻先で笑った。
「ところで、おまえたち。さっきまで普通に歩いていなかったか?」
「返り血なんで。まだ乾いていないので、背中にべっとりとついてしまうかもしれません」
歩き出そうとしていた上官が、両脇に抱えていたウィルの脚を放した。
不意に支えを失くし、ウィルが膝から地面に落ちた。
今度は彼の皿が割れた。
報告の前にシャワーを浴びる許可が下りた。否、許可というよりも、命令だった。血塗れの二人を目にした瞬間、事務職の女性軍人が卒倒してしまったのだ。
他にも、二人が大怪我を負っているのではないかと勘違いする者が続出した。心配して駆けつけた者の多くが二人が無傷だと知った途端、手のひらを返すように頭を一発ずつ叩いて去っていった。
こざっぱりした様子のウィルが隣でぶつくさ文句を言っていた。
「扱いに明らかな差がある」
むっとした表情で呟いたところ、また上官が二人の前に現れた。
「おぉ、おまえら! よく無事に戻ってきたな。怪我は大したことなかったって?」
目の前にいる上官も、それ以前に話した上官の多くも、どこか嬉しそうな表情をしていた。
「久しぶりのコンビはどうだった?」
「相変わらず、です」
「はは。そりゃ何よりだ。やっぱ、おまえらは一緒にいねぇとな」
リサとウィルの二人組は、クレムスでは有名だった。無遠慮の仲として知られ、公私共に行動することが多かった。何かをやらかすのもこの二人、やってのけるのもこの二人だった。リサとウィルの二人組は、クレムスの名物とまで言われていたのだ。
「相変わらずじゃありませんよ。久しぶりに会ったっていうのに、みんなして俺の扱いひどくありませんか?」
かつての部下から上げられた抗議の声に、目の前の上官は笑い声を漏らした。
「世の中、そんなものだ」
そう言ってリサの頭をぽんと叩き、ウィルの頭はべしっと叩いた。怪我をしていないと知っているにもかかわらず頭を叩かれる。もはや、一種の通過儀礼のようになってしまったのだ。
「それじゃ、ちゃんと報告してこいよ」
上官は後ろ手を振り去っていった。
「……またかよ」
上官の姿が見えなくなったところで、ウィルが憮然と呟く。
「おまえ、セクハラで訴えろよ」
「くだらない」
ウィルの馬鹿げた提案を鼻先であしらう。
それから間を置かずして、司令室の扉が開いた。中からケインズが姿を現し、廊下に立つ二人の姿を見つけて、こっちへこいと手招きする。
二人は司令室へと足を踏み入れる。中にいたのはグラントとケインズだけだった。
「ご苦労だったな」
ケインズののんびりとした声に、リサとウィルは敬礼した。
「そんな改まる必要はない。いつも通りでいろ。何せ、俺たちにとっては正式な任務じゃないんだ」
「では、遠慮なく」
ウィルがにやりと口元を緩め、二人は敬礼をといた。
「まぁ、そこに座れ」
来客用のソファーに腰を下ろすよう指示され、二人は席についた。ローテーブルを挟んだ向かい側にグラントとケインズが座す。
「何か見つかったか?」
グラントが険しい表情のまま問うた。
「神殿の下層の奥に、魔法陣で封印された扉がありました」
リサの報告を聞くと、グラントはソファーの背もたれに寄り掛かった。長い溜息を漏らす。
「つまり、その先には行けなかったということだな?」
「魔法陣に使われている魔導石の破壊を試みましたが、陣を解くことは不可能でした」
「そうか」
短い沈黙の後に、隊長が口を開いた。
「下層と言ったな? 神殿は何層にもになっているのか?」
「はい」
「覚えているなら、描いてみろ」
紙とペンを手渡され、リサはテーブルやベッドの位置など覚えている限りのことを描き込んだ。
手書きの間取り図を上官二人に向けて置く。
「私たちが調査出来た場所だけですが」
対面の二人が眉根を寄せた。
「あまり規模は大きくないようだな」
「閉ざされた扉の先を除けば、それほど広いとは言えません」
「亜人の数はどうだ?」
「うじゃうじゃと数えきれないほどに」
ウィルが肩をすくめて言った。そして、間取り図の一点を指差して続ける。
「出来るだけ倒してやりたかったんですが、ここで巨大亜人と戦闘になりました。その間に囲まれて、撤退してきたってわけです」
「巨大亜人? 昨日戦った奴か?」
「いえ、それよりもでかいです。軽く俺の二倍以上ありましたね」
「殺したのか?」
「なんとか。こいつを貸していただいたおかげで」
またしても物扱いをされ、リサは短く息を吐き出した。呆れて抗議する気も起きない。しかし、呆れたのは彼女だけではなかった。
「おまえたち、よく生きて帰ってきたなぁ」
ケインズがしみじみとした口調で言った。しぶとさに呆れているようだ。
「転移石がなかったら、今ごろ二人して神殿に祭られてたでしょうね」
亜人に祭られて、一体どうするというのか。何の供養にもならないだろうに。
「神殿は奴らの巣窟です。下手に近づかない方が良いでしょう。それと、転移する直前に、亜人の一体が武器を投げつけてきました。それも含めて、亜人と対峙する時は充分に気をつけないとならない」
リサの意見にウィルも賛同した。
「警戒心を煽ってしまいましたから、もしかしたら報復にやってくるのかもしれない。街周辺の警備に徹した方が良いと思いますよ」
グラントとケインズの表情は冴えない。何の解決策も練り出せないのだから、それも仕方ないだろう。
「おまえたちが戦った奴の他に、でかい亜人はいなかったのか?」
「見てはいません。ただ、神殿をすべて回ったわけではありませんので、どちらとも言いきることは出来ません」
ケインズが腕を組んで肩をすくめる。
「どちらにせよ、おまえたちが無事に生還したんだ。それだけでも上出来だな。普通の軍人には荷が重すぎる」
普通の人間でないとは、ケインズも大概失礼な物言いをする。
「街周辺の警備は増やすように指示を出そう。街の警備も増やしている現状では、亜人討伐に人員は割けん」
グラントは続けた。
「それよりも、魔法陣のことだ。それも亜人の仕業と考えていいのか?」
「それに関しても、判断は出来ないでしょう。知性のある亜人なら使えないこともないかもしれない。それか、魔導石は古かったんで、大昔からあるものなのかもしれません」
考えても結論は出ない。謎は増える一方だ。
亜人騒動は思いの外長引きそうだと、リサは短い溜息を漏らした。
「判った。下がっていいぞ」
「はい」
リサとウィルは敬礼をし、司令室を後にした。