6.唐揚げの中身はチキンじゃないんですか?
この物語は、作者の実体験をもとにしたフィクションです。実在する人物、団体等とは一切関係ありません。
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上記の文章を文末に添え、いつもその小説は一話の終わりを告げる。
そして、この小説の題名は『とある会社の唐揚げ弁当』という。作中の主人公 漬物、こと新香穂が書く、オンラインノベルである。
登場人物は、香穂が在籍する課の社員たちをモデルにしており、”白飯”課長、”唐揚げ”くん、”キャベツ”さん、”漬物”、それぞれが実在する本人らの本名に準えて命名された。
白飯課長、こと飯田直人。唐揚げくん、こと唐沢遥介。キャベツさん、こと春川玉菜。漬物、こと新香穂。
いくら特徴を似せ、モデルが実在する小説とはいえ、日本は広い。会社の数も数多。さすがに香穂の会社の課がそのまま物語になっているとは、まさか思いもしないだろう、と彼女は高を括っていた。
――のだが。
現在、残業を終えて帰ろうと座る回転椅子の向きをかえれば、目の前には同僚の唐沢遥介が立ち塞がる。
挙句、なぜか苛立たしげに顔を歪めて「――むかつく」と一言。
週最後の仕事日、さらに残業までした香穂の身体は、既に疲れきっていた。頭もぼんやりとしており、働いてはくれない。
一体自分がなにをしたというのか。なぜ”むかつく”と言われなければならないのか。
普段なら理由もわからぬ、いちゃもんとも言える言動をされれば、こちらも無言ながら不快を滲ませることだろう。しかし、今の香穂は(さっさと帰りたい。帰ってうだうだしたい)と、とにかく帰ることしか頭になく、心は鈍っていた。
そんな彼女が返答に困っている中。遥介は助け舟なのかなんなのか、鞄から紙の束を取り出した。A4のコピー用紙に印字された、冊子程度の厚さのそれ。クリップでとめられ、まとめてあった。
遥介に暴言を吐かれるいわれはない、と思っている香穂は、渡されるままその紙の束を受け取る。そこに納得できる理由を見つけたなら、素直に謝ろうと思ったのだ。
そうして彼女は数拍後、驚愕に目を見開くことになる。
冷や汗が浮かびあがった。ごくり、と喉を鳴らし、唾を呑みこむ。身体は小刻みに震えていた。
香穂の手にある紙の束、それは――彼女が書いたオンラインノベル。課をモデルにした、今後の展開はキャベツさんこと春川と、唐揚げくんこと遥介の恋愛を書いていこうと思っていた、物語。それらを印刷したものだった。
「……データ保存してあるから、消しても無駄」
”なにを”とは言わない彼は、天使なのか悪魔なのか。
油の切れたブリキ人形のように緩々と遥介を見上げる。彼は――まるで傲岸に笑んでいる。それは、香穂が初めて見る彼の笑み。人当たりがよくて冷静だと思っていたのはどこの誰だっただろうか。いい人だと……将来はさぞ素敵な旦那様になることだろうと思っていたのは、どこの誰だったのか。
未知なるものとの遭遇は、人を想像以上の恐怖に叩き落とす。今の香穂にとって、遥介はまさにそんな存在だった。
「……あ、あの」
思わず涙が込み上げてくるが、遥介は容赦なく続けた。
「妹がこういったの好きでね。この会社の食堂でアルバイトしてるんだけど……うちの課みたいって見せてくれた」
にっこりと目を細めた遥介。もちろん、空気は彼の放つ冷気によって重く、凍りつくように冷たい。
「妹は”みたい”って言ったけどさ……みたいじゃなくて、うちの課、だよな?」
「ひぃっ」
香穂の口から出たのは弁解ではなく悲鳴だった。もはや、目に溜まった涙すら氷の粒になるのではないかと香穂は怯える。
「あ、あの……っ」
「名前も、うまいこと考えていると思うよ?」
「ご、ごめんなさいっ!!」
これ以上、針の筵に座るのは耐えられないと、早々に頭を下げた。土下座も遥介が望むのなら彼女はするだろう。
一心に遥介の靴を見つめながら謝罪の言葉を口にしていたが、返ってきたのは香穂の予想とはまったく異なる言葉だった。
「謝ってほしいわけじゃない」
「……え? じゃああの、お金、ですか?」
名誉毀損、人格権侵害――様々な単語が香穂の頭の中を埋め尽くす。裁判、という単語には、ぶるりと身体が震えた。だがそれも、自業自得だと心に刻む。
しかし、そんな香穂に降ってきたのは、溜息だった。
遥介は床に膝をつき、腰を折ったままの香穂の両肩に手を添えて、顔を上げさせる。
どこか怒ったような、真摯な遥介を正面、それも吐息を感じるほど近くで見つめることになり、香穂は息を呑んだ。
やがて遥介が見せたのは、切なそうな表情。
「……唐沢、くん?」
「新さん、相手が間違ってるよね?」
数回香穂は目を瞬く。”相手”というのは、香穂の書くオンラインノベルの話だろうか。戸惑う香穂に、遥介は眉根を寄せる。
「なんで、春川さん?」
「……え、それは」と口にすれば、遥介は大きな溜息を零した。
「本っ当にむかつく」
慌てて香穂は再度謝る。肩をまだ押さえられているから、口でだけ。
「ネタにしてごめんなさい」
だが、「違う」と一刀両断された。
「じゃあ、春川さんと無理やりくっつけようとしてごめんなさい」
「それもあるけど、他には?」
「……?」
口を噤んだ香穂に、遥介の眉間に刻まれた皺は、さらに深まる。こめかみには青筋が見えるようだ。
「――まったく気づいてないんだな。知っていたけど」
「えぇと……」
「知ってた……知ってたさっ!」
怒りのままに、遥介は心のすべてを吐露し始める。
「俺、新さんに結構率直に口説いたり誘ったりしていたのに、全部流されてたことくらい、百も承知だった! その小説に俺が口説いた場面が一切ないし、多少俺の登場シーンがあっても、気持ちにはまったく気づいた様子もなかったから」
「……え、えぇと……」
香穂の脳裏に、現状打開策は”笑って誤魔化す”しか浮かんでいない。けれど、ここで笑っていいものか。いくら愛想笑いだとしても、これ以上遥介を怒らせては後が怖い。
しどろもどろになりつつ考え込んでいれば、手元の紙の束が再び遥介の手に戻された。
「えっ」と顔を上げる。
彼は自身の顔の横にそれを掲げ、告げた。
「これ、秘密にしておいてあげる」
「あ、どうも」
へらりとつい笑ってしまった。それを見た遥介も、人好きのする笑みで返す。
「でも、これからはヒロイン 新さんでよろしく」
「え゛」
この男はなにを言ってるんだ、とばかりに香穂が遥介を凝視する。
遥介は笑みを凄艶なものに変えた。
「もちろん、ハッピーエンドで。――好きだよ、新さん。覚悟して」
既に彼の勝利が決まっているような、そんな予感。香穂は反駁したくとも、金魚のように口を開け閉めすることしかできなかった。こんなに魅惑的なひとだと、誰が知っているだろう。
顔を紅潮させる香穂の左手をとり、遥介は薬指の付け根に口付けを落とした。
こうしてその日、新たな四角関係が誕生したのである。