第9話 筑紫の皇子~前編~ 菅原道真・天神伝説殺人事件
《大和太郎事件簿・第9話/筑紫の皇子》
〜菅原道真・天神伝説殺人事件〜
《前編》
『東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』(十訓抄より)
筑紫の皇子1;プロローグ(天神伝説)
西暦901年2月1日夕刻 難波にある大将軍社(現:大阪市北区天満)
菅原道真は平安京から淀川を舟で下ってきて、難波の八軒家港(現:大阪市の天満橋近く)で舟を降りた。そして、左大臣・藤原時平の陰謀により左遷させられる九州筑紫国の大宰府に向かう途中、ここ難波にある大将軍社の祠に参詣していた。
「大将軍神よ。我を守り給い、速やかに、我を京の都に戻し給え。」
乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺された直後、西暦645年に即位した考徳天皇は、西暦650年に現在の大阪市中央区法円坂にある難波長柄豊碕宮に都を移した。考徳天皇の皇太子・中大兄皇子は政治の実権を握り、藤原鎌足がその補佐をし、中央集権体制を目差して大化の改新(律令制)を実行した。
この時、難波の都を鎮護守護する祠を都の周辺に創祀した。その後、考徳天皇が死亡して難波長柄豊碕宮が廃止された後、地元の住人達によって、都の北西にあった鎮守の祠が難波大将軍社として創祠されたのである。
その後、政治の実権を持つ中大兄皇子は斉明天皇の時代に奈良飛鳥京を創り、さらに、中大兄皇子は西暦667年に近江大津京へ遷都し、天智天皇として即位する。昭和天皇の詔勅により、皇紀2600年(西暦1940年・昭和15年)にこの近江大津京の地に天智天皇を祀る近江神宮が近江国宇佐八幡神社(1065年創建)のある滋賀県大津市の宇佐山の麓に創建された。
平安時代(第50代天皇・桓武天皇が784年平城京から長岡京に遷都し、更に794年には平安京に遷都したのが平安時代の始まり)、菅原道真が活躍した平安京にも都を鎮守鎮護する4つの大将軍社が創られていた。また、菅原道真が九州大宰府で死亡した後、すなわち難波大将軍社創祀の250年後、菅原道真を祀る大阪天満宮がその近くに創られた。現在、難波大将軍社は大阪天満宮の境内に建っている。
難波大将軍社には『7本松伝承』と呼ばれる逸話がある。
『西暦949年、明星池の畔に在った大将軍社の前に突然、7本の松の木が生え出た。その松の梢は夜になるとピカピカと光り輝いた。これを、時の村上天皇は菅原道真の霊が舞い降りたと考えて、大阪天満宮を創建したのである。』
※大将軍神;陰陽道で云う方位を司る神・星神天大将軍
平安時代、陰陽寮と呼ばれる政府内役所があった。職務は天体観測による暦の作成(暦博士)や自然現象からその時代の吉凶を読み解くこと(天文博士)であった。また、呪術を用いて国家安泰を願う行事も司っていた(陰陽師)。
陰陽寮の歴史は天智天皇(中大兄皇子)の弟である天武天皇(大海人皇子)が西暦675年ころに天文観測を行う占星台を飛鳥(明日香)京に造り、卜占、天文、造歴、時報を司る役所として陰陽寮と云う組織を創った時に始まる。時報に関しては、天智天皇の時代に漏剋と呼ばれる水時計が使われ、都(奈良飛鳥京、近江大津京)の人々に時刻を知らせていた。陰陽寮のひな型みたいなものが天智天皇の時代に出来ていた可能性もある。それは、朝鮮半島・白村江(663年)の戦い後、中大兄皇子が政治の実権を握っていた時代に渡来した百済人によって中国の天文観測技術がもたらされたと考えられるからである。
太宰府政庁はこの白村江での敗戦後、朝鮮からの侵攻に備え、国防充実の役目を担った。
平安時代、菅原道真が天皇に具申して遣唐使が中止されたあと、唐(中国大陸)からの情報に代わって中央集権体制の運営で重要な地位を占め始めたのが陰陽寮からの情報であり、賀茂忠行、賀茂保憲、安倍晴明と云った陰陽師が活躍し始めた。
そして、陰陽師たちは天文観測と中国暦を結びつけた方位の吉凶を司る八将神を見つけ(考え?)出していた。現在での所謂九星暦・年盤座相の(年ごとに回座する)八方位神である。
大歳神:木星(歳星)
大将軍:金星(太白星)
大陰神:土星(鎮星)
歳刑神:水星(辰星)
歳破神:土星(鎮星)
歳殺神:火星(?惑星)
黄幡神:?(羅ごう星)
豹尾神:彗星(計都星)
以上の八神は須佐乃王(牛頭天王)と歳徳神(吉神)の間に生まれた御子とされているが、大将軍は須佐乃王とする説もある。
大将軍は3年間同じ方位に留まるので『3年塞がり』とも謂われ、凶方位とされる。移転、旅行では災難に出会うとされる方角である。一説には西方を司る神とされている。
なお、九星暦では一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫土星 の九個の星が用いられ、中心に一つ、周辺の八方位に残りの星が配され、上記の八方位神が周辺の八方位に年ごとに回座して配される。九鬼家の九曜神紋もこの考え方に発想源があるのかもしれない。
なお、陰陽寮は明治維新政府によって廃止が宣告される明治3年まで存続していた。
菅原道真が何を思い、難波大将軍社に参詣したのかは不明である。
ただ、菅原道真が生まれたとされる京都・菅原院天満宮の近くには平安京を鎮護する大将軍八神社(北野天満宮の南西200mにある)が794年に創建されており、祭神は須佐乃王とその御子である八神(5男3女神)であった。大将軍八神社は菅原道真の産土神社であったのかもしれない。
※5男3女神;
天忍穂耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、熊野樟日命、沖津島姫命、中津島姫命、市杵島姫命
太宰府に赴任したあと、菅原道真は頻繁に近くの天拝山(古称;天判山)に登り、天に坐ます神に祈ったと云う。
「我の無実の罪を晴らし、速やかに京の都に戻し給まえ。」
しかし、太宰府に赴任後2年で道真は死亡した。
その後、陰謀の首謀者である藤原時平をはじめ、その一派、子孫なども若くして死亡したり、天災などで変死したりしたので、道真の怨霊の仕業と噂された。
そして、道真の左遷に加担した醍醐天皇は地獄で苦しんでいた、と云う道賢上人の臨死体験の話なども残されている。
なお、父親・菅原是清が後継ぎの誕生を願い、渡会春彦と云う白髪の青年神官に依頼して、伊勢外宮の豊受大神に祈願させて生まれたのが道真であった。
因みに、渡会神主家は天日鷲命を先祖としている。
天日鷲命は日本書記の国譲り神話に鍛冶の神・天目一箇神などと共に登場する織物の神様である。
また、伊勢・外宮禰宜職の磯部氏が渡会の姓を賜わったのは711年で、京都・伏見稲荷大社の創建された年である。
675年 天武天皇が飛鳥京に陰陽寮を設置。
845年 6月25日 菅原道真誕生。幼名・阿古。
901年 1月25日 菅原道真に左遷の勅命が下る。2月1日 太宰府へ赴任の途につく。
903年 2月25日 太宰府に於いて菅原道真は59歳で死去した。
903年 道真の霊が比叡山に現れ『帝釈天の許しを得たので帝たちに復讐する』と言った。
※帝釈天とはインド密教で云うところの武神であり、提桓因とも云われ、意味は天主とのこと。
905年 神託により、菅原道真は『天満自在天神』として、道真の墓所に大宰府天満宮が創建された。(ここに、菅原道真は天神として祀られる事となった。)
906年 左大臣・藤原時平派の中納言が40歳で死亡。
908年 宇多上皇を醍醐天皇に合わせなかった内裏建礼門の門番が雷に打たれて急死。
909年 道真を左遷に陥れたとされる左大臣・藤原時平が39歳で病死。この時、菅原道真の霊は蛇となって現われたと謂う。
913年 藤原時平派であった右大臣・源光が底なし沼に馬と共に落ちて行方不明となる。
921年 陰陽師・安倍晴明が誕生。
923年 藤原時平の妹・穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が21で死去。
(このころより菅原道真の怨霊の噂が平安京の都に流れ始める)
925年 保明親王の遺児・慶頼王が2歳で死亡。
930年 清涼殿に落雷。大納言・藤原清貫衣が焼死。その他大勢が火傷などで伏す。(落雷は天神・菅原道真の怨霊の仕業と噂された)
930年 醍醐天皇、譲位後に46歳で死亡。
939年 平将門が下野国府と上野国府を占拠。
宇佐八幡大菩薩の使い女・昌伎により菅原道真の霊魂が書き記した位『新皇』の称号を授かる。(将門記)
※注)平将門は菅原道真が死んだ903年生まれと云う説がある。
941年 海賊・藤原純友が太宰府政庁を占拠、略奪・放火す。
942年7月 平安京・西京七条に住む多治比文子と云う菅原道真の乳母であった人物に道真の怨霊がのり移り、右近馬場(現在の北野天満宮辺り)に法華堂を建てて、松を植えよと告げた。(多治比家は菅原家と同じ河内国の出身とされる。また718年生まれの万葉歌人・大伴家持の母親は多治比家の郎女であったとも云われている。)
(※著者注;この話は少し疑問が残る。845年生まれの道真が942年まで生きたとすれば、97歳となり、乳母である多治比文子は120歳くらいと云う事になり、かなりの老人である。すでに死んでいても良いはずである?学者の年代推定が間違っている?陰陽師の計略?別の話では、多治比文子の子供である奇子にのり移ったという説もあるが・・・・?)
943年 時平の三男・敦忠、38歳で死亡。
947年 近江国・比良宮(比良明神)の禰宜・神良種の子・太郎丸(7歳)に道真からの託宣があり平安京・右近馬場に京都・北野天満宮の元となる祠を創建。
949年 難波・大将軍社祠(現在の大阪天満宮近く)の前に突然、七本の松が生えて、光輝いた。
959年 右大臣・藤原師輔らが北野天満宮に宝殿を増築。
978年 陰陽博士・出雲(安倍)晴明宅に落雷。(道真の死後75年)
987年 『北野天満宮天神』の称号が一条天皇から贈られ、京の都でも菅原道真は天神として祀られるようになった。
1005年 陰陽師・安倍晴明が死亡。
1870年 陰陽寮廃止(明治3年)
ところで、『天満宮天神』と云えば菅原道真を祀る神社であるが、『天神社』と呼ぶ場合は、雷を起こす龍神(水神)が祀られている祠である場合があり、天神=菅原道真とは限らない。京都北野天満宮は藤原基経が877年〜884年ころに祀った雨をもたらす火雷天神(龍蛇の姿をした農業神)のあった地に創建されたらしい。この為、930年の清涼殿に落ちた落雷は天神・菅原道真の怨霊が引き起こした仕業ではないかと恐れられた。(天神伝説)
太宰府天満宮にある池も道真の墓所になる以前から存在し、龍神が住んでいるのかもしれない。
太宰府の近隣地帯(筑紫野市、大野城市、春日市、宇美町)は何故か判らないが、大小の池や沼が多くある地域ではある。また、太宰府天満宮の東北にある宝満山の頂上には竈門神社上宮が祀られている。宇佐託宣集によると、竈門神社上宮には神功皇后の姉にあたる沙竭羅龍王の娘が宝満大菩薩として祀られているとされる。
※九州・太宰府政庁(都府楼);
日本書紀によると、609年(推古17年)に『筑紫太宰』と云う外国使節を響応する為の施設が博多湾沿岸にあったとされる。その後、朝鮮半島にある白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗れた中大兄皇子は外国軍の侵攻に備え、九州筑紫国に防衛軍事施設・水城をつくり、その中心政府として大宰府政庁(667年・筑紫都督府)を置いた。この大宰府政庁の建物を『都(督)府楼』と呼んだらしい。
天智天皇によって大宰府に最初に左遷させられたのは蘇我日向と云う人物で、蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)に協力した蘇我石川麻呂を讒言した人物であった。その後、901年に菅原道真が左遷されられた。
菅原道真は都府楼の南南西3kmにある天拝山(258m)にたびたび登り、天空を仰いで、天に坐ます神に向かって無実を訴え、速やかな帰京を願ったと云う。
941年、大宰府政庁・都府楼は(平将門に呼応して立ち上がった?)海賊・藤原純友に占拠され、略奪、放火のため消滅した。以後、都府楼が再び甦ることはなかった。(現地機関・太宰府政庁は12世紀まで存続したが実権は平安京の都政府が持っていた。海外貿易を考えた平清盛の時代に現地機関は博多に遷された。)
都府楼の消滅も菅原道真の怨霊が為せる業と云う噂もある。
筑紫の皇子2;殺人現場
2011年7月15日(金) 午後10時ころ 福岡県太宰府市・都府楼跡の石碑前
3時間前には水色の夕空を背景に、赤味がかった黄色の満月が東の空に浮かんでいた。
しかし、今は暗くなった夜空に輝く満月が異様な雰囲気で、東南方向の夜空から三本の石碑を照らしている。
その中で一番大きな石碑は3m以上の高さがあり、『太宰府碑』と云う文字が浮き彫りされている。そして、江戸時代の福岡藩西学問所の祭酒(学長)であった亀井南冥が撰した文章が小さな文字で彫り込まれている。(亀井南冥は志賀島で発見された金印が漢王朝から贈られものであることを見出した人物)
『・・・・・まさに今、国邑を封建し、名器いにしえにあらず・・・・』
(著者注;今の日本国の村々は徳川幕府の封建体制によって発展を阻害され、昔いた菅原道真のような優秀な人材は登用されずにいる。と云った意味だろうか?)
この文は尊王思想を表現しており、徳川幕府を揶揄する意味があるとして福岡藩東学問所の朱子学派から非難され、亀井南冥は学問所から追放された。どことなく、学問に秀でて優能であった菅原道真の太宰府左遷と重なるものがある話ではある。
気温35℃を越えた昼間の暑さがまだ残っているのか、かすかに流れてくる風も心なしか生ぬるい。
ゆっくり歩いている男女の影が、一番大きな石碑の前で止まった。
そして、二つの影が抱き合った。
その時、大きな石碑の石台に腰を掛けていた黒い影が動き、抱き合っている二人に近づいた。
重なり合う二つ影と三つ目の黒い影の間で『ピカッー』と小さな光が一瞬、輝いた。そして、真中の一つの男影が天を仰いで地面に崩れ落ちた。
その時、女影は驚いたような仕草をした。
そして、女影は駐車場のある南の方角に走り去ったが、黒い影は走り去る女影とは反対方向にゆっくりと歩いて行く。石碑の周辺には、他に人影が見えない。
筑紫の皇子3;依頼
2011年7月19日(火) 午後1時30分ころ 大和探偵事務所
大和太郎は池袋にある北辰会館での空手稽古に出かけようとしていた。
その時、事務机の上にある電話が鳴った。
電話器の液晶表示画面には平山重夫の文字が見て取れる。
「はい、大和太郎です。」
「もしもし、九州の平山だ。」
平山重夫は大和太郎の学生時代の友人である。福岡県春日市で精神科の医者をしている。
春日市は都府楼のある太宰府市に近い町である。
また、太宰府市の北隣には神功皇后が応神天皇を産んだ場所とされる宇美八幡宮のある宇美町がある。南隣は天拝山(258m)のある筑紫野市である。
天拝山は菅原道真がよく参拝した山で荒穂神社がある。古代は天判山と呼ばれていた。菅原道真は山上で無実の罪を晴らすために天に坐ます神に訴えたと謂われている。そのため、山頂には菅原道真を祀る天拝神社がある。
天拝山からは太宰府天満宮やその裏山である宝満山(829m)が見える。宝満山は修験道の山であり、麓には664年創建の竈門神社があり、山頂にはその奥宮がある。
「また東京で精神医の学会でもあるのか?」と太郎が訊いた。
「いや、学会じゃない。調査依頼がしたい。」と平山が言った。
「以前みたいに、また、誰かを探すのか?」
「人探しではない。俺が診ている患者の無実を晴らしたい。」
「無実を晴らす?」
「ああ。殺人事件の犯人として警察に疑われている。詳細はお前がこちらに来た時に話す。いつ頃来られそうだ?」と平山が訊いた。
「うーん、殺人事件か・・・・・。取り合えず、明日に福岡へ飛ぶことにする。当面は3〜4日間そちらに滞在し、調査の方向性を考えるネタを探す。本格的な調査活動はそれ以後になるだろう。福岡空港への到着時刻などは飛行機便を予約した後で電話する。」
「判った。よろしく頼む。」と言って、平山は電話を切った。
筑紫の皇子4;
2011年7月20日(水) 午前9時ころ 福岡県警筑紫野警察署内・都府楼殺人事件捜査本部
捜査会議が始まる前の捜査本部室内で二人が話し合っている。
「竹中直義が犯人としても、精神異常者と云う事で罪に問うことはできません。今後の捜査方針をどうしますか?」と捜査主任の結城刑事が訊いた。
「要は、事実関係をはっきりさせて、精神異常者の竹中を検察へ送ればいいのだ。それが、我々警察の役目だ。それで、証拠は揃っているのだろうな。死因と動機は判ったのか?」と高円刑事部長が言った。
「竹中が手に持っていた、改造スタンガンが高圧の放電極となり、倒れていた被害者の傍らに落ちていた銅線付きの電極板に高圧電流が被害者の心臓を突きぬけたのは検視解剖の結果から明らかです。なぜ、精神に異常のある竹中が凶器となった改造スタンガンを手に持って歩いていたのかです。竹中自身がスタンガンを改造したとは考えにくいですね。本人に訊いても何も知りませんの返事だけです。精神異常者ですからこれと云った動機はなさそうですし。どこかで拾ったとしても、何処で拾ったのか、本人は記憶にないようです。」と結城刑事が言った。
「被害者の菅原清隆の身元は如何なっている?」と高円刑事部長が訊いた。
「はい。被害者本人が所持していた免許証の住所から追跡調査をしました。菅原清隆は西鉄の福岡天神駅前にあるホストクラブ『ぷらむ』のナンバーワン・ホストでした。1年半前からホストクラブ『ぷらむ』で働きだしたようです。その前は博多区祇園町にある八坂建設の営業マンをしていたようですが、2年前に八坂建設は倒産して、社長は行方不明の状態です。したがって、八坂建設の従業員もちりじりになっていて、菅原清隆のことを知っている人物が見つかっていません。八坂建設時代に営業マンとして恨みなどを寡っていたかどうかは判りません。ホストクラブでは自称『天神の皇子』と謂い、周りの人間からもそう呼ばれていたようです。出身地は京都市上京区一条七本松というところです。菅原道真の末裔を自称していましたが、本名は中牟田岩男で25歳です。両親は交通事故で亡くなり、中牟田は小学校5年から高等学校3年までは養護施設で育てられたようです。」
「その養護施設の場所はどこか判っているのか?」
「『白梅園』と謂う名で、京都市内の北野白梅町と云うところにあったようですが、現在は存在しません。白梅園の元理事長の所在は突き留めてありますので、中牟田岩男の過去の状況は判明すると思われます。現在、京都府警本部に調査してもらっています。」
「北野白梅町と云えば、たしか北野天満宮の近くじゃないのか。平安時代には大将軍神社もその近くにあったはずだがな。よくよく、菅原道真と関係があると言いたげな被害者だな。」
「その通りですね・・・。本当に菅原道真と因縁があるのかも知れませんね。」と結城刑事が言った。
「まあ、これからの捜査活動で明らかになっていくだろう。ところで、被害者の周辺の調査は進んでいるのか?それに、殺害現場までの菅原清隆の足取りは判ったのか?」と高円刑事部長が訊いた。
「はい。ホスト仲間や顧客を洗っているところで、まだ、怪しい人物は見つかっていません。被害者の足取りについては追跡中です。殺されてから、現場まで運ばれた可能性は少ないので、足取りが判明するのは時間の問題でしょう。」
「そうか。死因は高圧通電による心臓破裂ということだったが、菅原道真の怨霊による清涼殿への落雷火事騒動を思い出すな。藤原清貫が焼死したのだったな、確か・・・。」と高円刑事部長が言った。
「そうですね。高圧放電させるスタンガンは小型の雷発生器みたいなもんですからね・・・。」
「ところで、竹中直義の周辺調査は進んでいるのか?」
「竹中直義は年齢25歳で、春日市内の精神病院に通院していました。担当医師である平山重夫によると、精神病といっても凶暴な性格ではないとのことで、殺人を犯すことはないと言っていました。こどもの時から精神機能の認知障害があり、軽い幻覚や妄想を時々経験するようですが、本人の話によると、お花畑や梅園の夢を見るのが通例のようです。」
「梅園ね・・・。やはり、菅原道真と関係ありか・・・?」
「被害者・菅原清隆の背中には『こちふかば おもいをこせよ うめのはな あるじなしとて はるなわすれそ』と云う刺青がありましたからね。この刺青のお蔭で顧客女性には人気があったようです。」
「その刺青の歌だがね・・。」と高円刑事部長が言った。
「この歌が何か?」
「九州太宰府に旅立つ時に菅原道真が京都の自邸で詠んだ歌なら、『おもいをこせよ』ではなく『においおこせよ』のはずだがね・・・。何故、間違ったのか?あるいは、間違いではないのか?」と高円刑事部長が考えるように言った。
「刺青の彫師が間違ったのでは?」
「彫るべき文字の下書文はあったはずだ。プロの彫師が間違えるとは考えにくいな。」
「『おもいをこせよ』とは何を思いおこせと言っているのかですね・・・。」
「その点を注意しながら捜査を行う必要があるのかもしれないな。何せ、この事件は菅原道真に繋がっていると云わんばかりだからな・・・。」と高円が言った。
筑紫の皇子5;
2011年7月20日(水) 午後6時ころ 福岡市博多区のキャナルシティ博多
地下鉄空港線の祇園駅から500mくらいの所にキャナルシティと謂う複合商業施設がある。
整然としない施設づくりで飽きが来ないような街並み設計をした複合施設であり、ホテルはグランドハイアットとキャナルシティ・ワシントンがある。キャナルシティのすぐ西側には那珂川と博多川に挟まれた中洲がある。中洲は博多ラーメンの屋台で有名である。
時報に合わせて始まった大掛かりな噴水ショーをガラス窓越しに見ることができるキャナルシティ内のレストランで、大和太郎と平山重夫が食事をしながら話している。
「その統合失調症とはどういった症状があるのだ?」と太郎が訊いた。
「物事を認知する能力が劣っていたり、幻覚妄想が見えたりする。場合によっては自閉症になる人もいる。竹中直義氏の場合は認知障害であり、時々幻覚を見るようだが凶暴性はない。症状を抑えるために、種々の薬を投与している。凶暴性がある場合は病院に隔離するが、竹中氏の場合はその必要はない。大人しい性格で殺人など犯すことは全くない。その辺に居る平常人の方が危険なくらいだ。警察は職務遂行しか考えていない。全く腹立たしい限りだ。」
「完全に治ることはあるのか?」
「いや、重度の精神病患者が完治したと云う事例はきいたことがない。先天的に神経回路網が異常であると考えられる。神経回路網は経験によって構成を変えられる可能性があるが、どのような経験を継続的に与えれば良いのかが見つかっていないのが現状だ。我々精神科の医者は患者と対話を繰り返しながら、病状を知り、症状を和らげる手段を見つける努力を重ねているのだが、現在の医療では薬による症状緩和が関の山と言ったところかな。」と平山が言った。
「それで、無罪を証明したいと云う訳は?精神障害者は実際に事件を犯していたとしても有罪を問われることはないだろう?」と太郎が言った。
「有罪にはならなかったとしても、殺人を犯したと云う事になれば、竹中氏を見る他人の目が変わる。無罪を証明するのは裁判でのはなしだが裁判は行われないだろうから、何らかの手段で彼が無実であることを明らかにしたいのだ。」と平山が語気を強めて言った。
「無罪ではなく無実か・・・。」と太郎が言った。
「警察は真犯人を突き止める気はないだろう。竹中氏を殺人犯にしたて、精神障害による無罪を考えて、不起訴処分による事件の収束を図るのは目に見えている。それでは、竹中氏の人権が無視されたことになる。そんなことは精神科医として許せない。大和、真犯人を見つけてくれ。頼む。」
「まあ、何とかなればいいのだが・・・。最善を尽くしてみるよ。安心してくれとは言えないがな・・・。それで、警察とは渡りがつくのか?」と太郎が訊いた。
「精神科医として、逮捕拘束された患者の症状悪化を防ぐ為に毎日、警察の留置場に行って診寮と投薬をしている。明日、一緒に警察に行こう。」
筑紫の皇子6;
2011年7月21日(木) 午後3時ころ 筑紫野警察署・刑事第1課取調べ室
筑紫野警察署の管轄地域は、筑紫野市、太宰府市、大野城市、春日市、那珂川町の4市1町である。
事件発生当初は都府楼殺人事件捜査本部を県警本部内に設置する意見もあったが、事件発生日に現場である都府楼広場を、スタンガンを手に持って歩いていた犯人と思われる精神障害者・竹中直義を逮捕したことで、事件終結が早いと判断した刑事部長・高円の意見で筑紫野警察署内に捜査本部が置かれた。いや、捜査予算が少ないので早々に事件解決に持ち込みたい、と云うのが刑事部長の思惑であった。
所轄刑事のほか、福岡県警本部からの応援刑事が捜査を担当している。
平山と太郎が小さな机を間に置いて、竹中直義と向かい合って座っている。結城刑事、上条刑事の2名が壁際で立ち会っている。太郎と刑事たちは平山と竹中の会話を黙って聞いている。平山は太郎から事前に依頼されていた内容を竹中に訊いていた。
「俺たちが尋問する時にくらべ、竹中の奴、いやに落ち着いているな。やはり、長年に亘って竹中の診寮をしてきた平山医師には敵わねえな。」と結城刑事は思いながら、二人の会話を聞いていた。
「竹中さんは何故にこのスタンガンをもっていたのですか?」と平山が、凶器となった改造スタンガンの写真を竹中に見せながら、優しく訊いた。
「知・り・ま・せ・ん。」
竹中直義は認知障害の影響で喋るのが遅れ気味である。
「そうですか。それでは、何故、都府楼に行ったのですか?」
「と・ふ・ろ・う?」
「そうです。石碑のある広場です。」
「ち・く・し・の・み・こが僕を呼んだのです。」
「ちくしのみこに呼ばれたのですか?どのようにしてあなたを呼んだのですか、ちくしのみこは?」
「僕の手を取って、家から広場まで連れて行ってくれました。」
「竹中さんと手を繋いで、ちくしのみこは歩いて行ったのですか?」
「ちくしのみこの手は暖かかったなあ・・・。」と竹中が嬉しそうな顔をした。
「ちくしのみこは竹中さんの家の中に入って来たのですか?」
「ちくしのみこが来る時は、いつも梅の香りがするので、すぐわかります。そして、家の外に出ると、鹿島神社の前で僕を待っていて、手をつないで散歩に連れて行ってくれるのです。」と竹中直義が言った。
「ちくしのみこはどんな人ですか?」
「うーん。よく判らない。」
「男の人ですか?」
「うん。そうです。」
「服はどのようなもの着ていましたか?」
「いつも、白い着物をきているよ。」
「いつ頃来るのですか?」
「朝、おひさまが昇るころに来ます。6時ころかな・・・。」
「毎日くるのですか?」
「時々に来るだけです。」
「いつごろから、ちくしのみが来るようになったのかな?」
「うーん。よく判らない。」
平山は竹中の認知障害の程度を考えていた。
そして、「俺の質問の仕方が適正でないようだな。言葉を変えないと竹中直義には理解できないのかもしれないな。脳の思考回路の出発点をどこに選ぶかに注意して質問しないといけないな・・・。」と平山は思った。
「この写真にあるのはスタンガンと呼ばれているものですが、何処で見つけましたか。」と平山が再度、スタンガンの出所を竹中に訊いた。
「み・つ・け・た?」と竹中が不思議そうな顔をした。
「そうです。竹中さんは何処で写真のものを見つけましたか?」
「それは、貰った物だよ。」と竹中が言った。
「誰から貰ったのかな?」
「判らない。」
「男のひとかな、女の人かな?」
「判らない。」
「知っている人かな?」
「判らない。」
「今までに見たことがあるひとかな?」
「判らない。」
「何処でもらたのかな?どの場所で貰ったのかな?」
「判らない。」
「この物を使ったことがあるかい?」
「判らない。判らないよーう。」と竹中直義は苛立って叫んだ。
竹中直義が住んでいる実家は、都府楼跡地から南へ歩いて7〜8分くらいの所にあった。
その実家の近くには建御雷を祀る鹿島神社があり、その鹿島神社の400m西には菅原道真が住んでいたとされる榎社がある。榎社は都府楼南館とも呼ばれたらしい。建御雷命や事代主命を祭神とする王城神社も665年(天智天皇4年)に大城山から榎社近くに遷されていて、王城神社の社人が榎社にいる菅原道真を頻繁に訪ねていたらしい。
また、榎社の近くには陰陽師・阿倍晴明が開いたとされる水の涸れない晴明井戸がある。
2週間に1回、竹中直義が平山の病院へ来る時は父親か母親が車やタクシーで連れて来ていた。
その時に平山は竹中の幻覚や妄想を抑えるための薬を渡していた。脳内伝達物質とされるドーパミンの分泌を抑制、安定させる薬である。
『ちくしのみこ』が実在する人物なのか、それとも竹中直義の幻覚・妄想なのか、精神科医師・平山にもはっきりとは判らなかった。
「医者としての判断は幻覚・妄想だが、竹中の無実を信じる人間としては、竹中直義の言った話は現実であって欲しい。」と平山は思った。
その後、大和太郎と平山重夫は被害者の身元などを結城刑事に教えてもらったあと、警察署を辞した。ただ、被害者・菅原清隆こと中牟田岩男に短歌の刺青があったことは聞かされていなかった。
筑紫の皇子7;
2011年7月21日(木) 午後6時ころ 西中洲の博多料理屋・春吉
筑紫野警察署で竹中直義から聞いた話を
冷えた日本酒を飲み、博多料理を食べながら、太郎と平山が話している。
筑紫野警察署で竹中直義から聞いた話の内容を検討しているのであった。
「『ちくしのみこ』とは誰の事だろう?」と平山が言った。
「ちくしは漢字で筑紫のことだろう。そして、みこは皇子と書くのだろう。」と太郎が言った。
「筑紫の皇子か。そうとして、誰の事だ?」と平山が訊いた。
「判らないな。ただ、鹿島神社で待っていた人物だとして・・・?うーん、判らないな。」と太郎が言った。
「天満宮なら菅原道真の子孫と考えられるが、鹿島神社と関係する人物となれば、よく知らないなあ・・・。塚原卜伝か?その筋の知識人に聞かないと判らないな。」と平山が言った。
「その筋の人間か。殺された菅原清隆は京都市の出身で本名は中牟田岩男だったな。明日からは京都に行って菅原清隆の過去を調べてみることにする。D大学神学部の藤原教授にも推理を手伝ってもらい、犯人に繋がりそうな事実を探してくることにするよ。」と太郎が言った。
「よろしく頼む。」と平山が言った。
筑紫の皇子8;
2011年7月22日(金) 午後3時ころ 京都市内にあるD大学神学部の藤原研究室
九州博多駅からJR新幹線で京都駅に着いた大和太郎はタクシーに乗り込み、D大学・神学部の藤原大造教授を訪問していた。今回の殺人事件について、藤原教授の意見を聞くのが目的であった。
今回の事件の概要を太郎が教授に話している。
「また、難しそうな事件に関係しているのですね。筑紫の皇子ですか?」と藤原教授が言った。
「ええ。鹿島神宮に関係する皇子は誰でしょうか?」と太郎が訊いた。
「思い浮かびませんね。鹿島神宮とは関係ないのでは?鹿島神社で待っていたからと言って、その関係者と考えるのは早計過ぎませんかね。」と教授が言った。
「確かに、そういう見方もできますが、取り会えず、鹿島神社の関係者で誰かいないかどうかと考えたのですが・・・。」と太郎が言った。
「敢えて、こじつけるならば・・・・。」と教授がいった。
「こじつけるならば・・・?」と太郎が体を前に乗り出しながら言った。
「鹿島神宮の祭神である建御雷命は、奈良の春日大社に白鹿に乗って遷られたと謂われています。藤原不比等が創建した春日大社は藤原(中臣)氏の先祖である天児屋根命をも祀る神社です。九州大宰府の近くにある春日市は、もともとは太宰府に左遷させられた藤原田麻呂が768年に春日明神社を奈良春日大社から建御雷命、経津主命、比売神を勧請した時に始まる町です。都府楼・太宰府政庁跡地近くにあるその鹿島神社は建御雷を祀っているとすれば、春日大社に祀られている神を考えることになるでしょう。なぜなら、建御雷命には御子がいません。と云うよりも、神話には登場していません。建御雷は水神であり龍神でもあります。春日市を含む太宰府地域一帯は池も多く龍神の住む地域です。この地域にある宇美町には宇美八幡宮があります。ここで応神天皇が生まれています。八幡大神は応神のことで、その母親は朝鮮半島にあった新羅国を制圧した神功皇后です。この地域は筑紫国と呼ばれていましたから『筑紫の皇子』とは応神天皇の事ではないでしょうかね。」と藤原教授が言った。
「神功皇后の御子である応神天皇ですか。八幡大神とされる応神ですか。」
「応神天皇とは天に坐す神の意志に応じる人と云う意味でしょう。」と教授が言った。
「天神の意志ですか。」と太郎が呟いた。
「菅原道真は天神とも呼ばれていますが、雷を伴った天から現れる農業神の龍神をイメージして天神と謂われています。」
「九州太宰府で起きた今回の殺人事件は筑紫の皇子である応神が天神の皇子である菅原道真を殺したと云うことでしょうか?」と太郎が言った。
「言葉の上ではそうでしょうね。何か神意が働いているのかどうかですね。あるいは神の意志をもてあそぶ秘密結社の仕業かも知れませんね。その竹中直義と云う知的障害者の霊系を調べる必要がありそうですよ、大和君。そして、被害者である藤原清隆こと中牟田岩男の霊系も。」と藤原教授が言った。
「ふたりの霊系を調べるのですか?どうすれば、いいのでしょう?」
「まあ、中牟田岩男の家系と竹中直義の家系を調べてみることです。そこから、歴史上の人物の名前が浮かんでくれば、しめたものです。」と藤原教授が言った。
「家系を調べるのですか・・・。やっかいだなあ・・・。」
「菅原道真は高天原に坐す天照大御神の子である天穂日命の霊系です。天穂日命は国津神・大国主命に国譲りを勧めるために高天原から下って来た天津神ですが、大国主命に惚れ込んで家来になってしまいました。それで、高天原の神は龍神・建御雷命を地上に遣わして、国津神・大国主命からの天津神への国譲りを実現させました。菅原家の系普は天穂日命・建比良鳥命・野見宿禰・土師氏・菅原氏と続いてきました。藤原氏は神と人の間を取り持つ中臣、すなわち太祝詞を奏した天児屋根の霊系です。もう少し言い換えると、菅原氏の先祖である土師連と、藤原氏の先祖である中臣連と云う律令制度における役人の役目の関係を明らかにすることかも知れませんね。土師氏は焼き物を作る役目を担い、古代の天皇の墓には人柱を建てていたが焼き物(埴輪)に置き換えることによって人命を無駄にしない風潮を創りだした氏族であり、天皇を葬る際に葬奏の祝詞をあげる役目をした中臣氏の関係は何かですね。たぶん、埴輪に霊魂を宿らせる祝詞を奏上したのが中臣氏であったのではないかと私は想像しています。」と教授が言った。
「先生、今回の殺人事件にはそのような背景が本当にあるのでしょうか?」
「あっはっはっは。私の独断的な想像です。この話を手掛かりにして調査活動を進めてはいかがですか?と云う私の提案です。霊能者がよく言っていることですが、先天的な知的障害を持つ人物は神の使いを行う役目を持って生まれてくるのですが、それを妨害しようとする別の霊系が障りをその人物に与えている場合があると云うことです。あるいは、神自身の霊が乗り移やすい肉体を現世に送り出していると云う霊能者もいます。」と教授が笑った。
「はあ・・・。神の意志との関係ですかね、今回の殺人事件は・・・。」と自分の頭を撫でながら太郎が考え込んだ。
しばらく考えていた大和太郎が口を開いた。
「筑紫の皇子が応神天皇に関係するとすれば、神功皇后と関係がある訳ですから、住吉三神との関係が出てきますね。住吉三神は海の龍神と考えられますから、菅原道真が関係する天神も龍神ですから、龍神が共通項になりますね。」
「龍神である住吉三神は海神です。菅原道真の龍神は農業神としての水神・天神です。むしろ、奈良の春日大社の奥山に鎮座している五末社である大神神社、上水谷神社、神野神社、鳴雷神社、高山神社と関係していると考えた方がいいでしょう。この中で、大神神社は宇佐八幡宮で大神比義が出会った応神天皇=八幡大神の話と繋がります。また、鳴雷神社は農業神である火雷天神に繋がりますかね。」と藤原教授が言った。
「なるほど、大神神社と宇佐八幡の繋がりと大神神社と春日大社の繋がりから鹿島神宮の建御雷命に繋がり、菅原道真の天神に繋がりますか。筑紫の皇子と天神の皇子の因縁とは何でしょうね。」と太郎が言った。
「因縁ですか・・・。何でしょうね・・・。思いつきませんね。」と藤原教授も呟いた。
※著者注;
修験者・大神比義とは:
奈良三輪神社(大神神社)の祭神である大物主大神の子孫と思われる。宇佐託宣集の説話に登場する人物。本名ではなく本性を表す俗称ではないかと思われるが、定かではない。
「筑紫豊前国宇佐郡ある菱形池近くに頭が八つある奇怪な風体の鍛冶の翁が住んでいた。大神比義が見に行くと、その翁は人ではなく金の鳩に変身する金の鷹であった。神意を感じた大神比義は三年間、五穀を断って修行した。すると、三歳の小児が竹の葉の上に現れて『辛国の城に八流の幡を天降して、吾は日本の神となった誉田天皇・広幡の八幡麻呂なり』と言った。」誉田天皇とは誉田別命のことであり、後に応神天皇と称される人物のことである。
なお、応神天皇の母である神功皇后は新羅平定からの帰途に対馬(津島)の海神神社に立ち寄って、八流の幡を奉納している。この時、応神天皇は神功皇后の腹の中に居た。そして、後に九州の宇美八幡宮が創られる地で応神天皇は生まれた。とすると、応神天皇は海神の系普となり住吉三神と繋がってくる。辛国とは一般的には朝鮮半島の韓国と考えられているが、神功皇后の逸話と結び付けて考えるなら対馬ではないかとも考えられる。あるいは、単に外国と考えるのかどうか?あるいは、もっと異なる意味があるのかどうか?
なお、城とは、戦国時代の城塞(砦)などではなく、霊的な表現では精奇城と謂う事であろう。精奇城とは結界に護られた場所と云うことであろうか?
秀真伝と云う古代文献には『高天原にある精奇城』と出ているようである。
秀真伝とは、1819年に平田篤胤が出雲の杵春大社に伝わるホツマ文字を紹介し、研究者が古文書の存在を追及しはじめた。昭和41年に完本の一部の写本が東京・神田の古本市で発見され、その後、四国宇和島の小笠原家から完本が発見された。もともとは、近江高島市の鴨川流域にある水尾神社の神宝であったものを小笠原通当が1843年に『神代巻秀真政伝紀』12巻として写本で著したのが秀真伝である。なお、それ以前の1779年に大物主命の子孫である和仁估容聡によって翻訳文が作られており、平田篤胤はこの翻訳本を見ていたのではないかと云う噂もある。そもそも秀真伝は大物主の子孫である大田多根子が編集したとされる40章から成る古文書である。天の巻・地の巻・人の巻の3部構成で構成された七五調の文章で書かれているらしい。奈良の三輪神社に関係する大田多根子が滋賀県にある水尾神社と如何して繋がるのか不明。
なお、水尾神社は三尾神社とも呼ばれている。
秀真伝の内容の一部には、国常立尊は八柱の皇子を地球の8地域に天降り(派遣)させ、それぞれの地域人類の始祖とした、と書かれている。これが、宇佐託宣集にある『(国常立神が?)辛国の城に八流の幡を天降りし、(そのうちの一人の皇子である?)誉田天皇が日本国の神となった。』と云うことであろうか?※
「竹中直義氏が言うには、筑紫の皇子が現れる時は梅の香りがするそうですが、先生、何か思い当たることはありませんか?」と太郎が訊いた。
「菅原道真と梅は切っても切り離せませんからね。筑紫の皇子=天神・菅原道真ですかね。いや、なんとなく違いますね。」
「大本教教祖の出口ナオによるお筆先に『三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。』と云うのがありますが。艮の金神との関係はどうでしょう?」と太郎が訊いた。
「艮の金神とは国津神である国常立大神のことです。筑紫の皇子が国常立大神の系普の神とすると誰になりますかね。神々の系図一覧を見てみましょうか。」と言って、近くの書棚から神々の系図という文献を藤原教授は取りだした。
「うーん。大八嶋、須佐王、大国主か。大国主の御子の建御名方。同じく腹違いの御子である味鉅高彦根か。大国主と宗像三女神の奥津宮・多紀理比売の間に生まれた味鉅高彦根は賀茂大神とも呼ばれており、賀茂氏の先祖だね。多紀理比売は奥津島比売とも呼ばれています。」
「賀茂氏と云えば陰陽師の賀茂保憲が菅原道真の時代に生まれていますね。」と太郎が言った。
「なるほど、陰陽師ですか。賀茂忠行・保憲の父子が菅原道真の怨霊を呪祖によって鎮めたのかも知れませんね。だから、藤原時平の死後、左大臣となった藤原忠平によって陰陽師たちは重用されたのかもしれないね。ただ、陰陽師の賀茂忠行の先祖は吉備真備と云う事になっているので、賀茂大神の子孫かどうかは不明です。天文観測の専門職である賀茂家の養子筋であったのかも知れませんね。吉備真備は754年に唐から帰国して、太宰府大弐(長官)から大仏を祭る東大寺の造営長官になっています。」と藤原教授が言った。
「しかし、賀茂保憲と筑紫国との関係はあるのですか?筑紫の皇子ですからね・・・。」
「なるほど。筑紫ね。紫の筑と書いて筑紫。筑は音を出す楽器だから、紫の楽器とは何かですね。」
「アメリカ人の霊能予言者ジーン・ディクソンによると、紫色の光に照らされた黒色と黄色の縞紋様をした、頭がピラミッド形の幻の蛇が現れて、東の方には知恵と理解があると伝えたらしいのです。」と太郎が言った。
「紫色の光に照らされた幻の蛇ですか。」と藤原教授が考え込んだ。
「黒と黄色の縞紋様は何を意味しているのでしょうか?」と太郎が訊いた。
「判りませんね。黒と黄色の縞紋様をした海蛇がいますがね。ただ、古代の紫色は黒と赤を混ぜた色であったと云われていますがね。紫色の光ね・・・。」と教授が言った。
「海蛇ですか。海に住む龍として、東の海にいる龍神ですかね。」と太郎が言った。
「如何でしょうかね・・・?」と教授が言った。
筑紫の皇子9;神威示現斎
2011年7月23日(土) 午前10時ころ 京都北野白梅町近くの北野天満宮
被害者の菅原清隆こと中牟田岩男の消息を確認するために北野白梅町を訪れた大和太郎は北野天満宮にて祭神に対して挨拶を行った。
拝殿での参拝を終えた太郎は修験装束の不思議な人物とすれ違った。
その修験者は拝殿前で印を組んで呪文を唱え始めた。
白い修験装束の背中には黒い文字で『神威示現斎』と大きく書かれている。
大和太郎はしばらくの間その修験者の姿を眺めていた。他の参拝客も異様な呪文を唱えているその人物を遠目で眺めている。
その男は胸の前で印を組み、その印を組んだ両手が上下に大きく振られている。
「トホカミイヒタメ、・・・・・・・・。」
「何を祈っているのだろうか?あの男の背中から異様な気が出ているのを感じるな。」と思いながら、太郎はその人物の背中を眺めていたが、10時30分に養護施設『白梅園』の元理事長と会う約束があったので、そのまま北野天満宮を後にした。
筑紫の皇子10;被害者の過去など
2011年7月23日(土) 午前10時30分ころ 北野白梅町駅近くの喫茶店
大和太郎と旧白梅園の元理事長・高山滋がテーブルを挟んで話している。
「中牟田君は一人っ子でした。ご両親が交通事故で亡くなられ、ご両親も一人っ子だったため兄弟・姉妹の方が居らず、親戚の方とも疎遠であったため、地区の民生委員のかたの紹介で白梅園に入所することに成りました。自動者保険も事故加害者と云う事で相手方への保証金は出たのですが、ご両親には出ませんでした。自宅は上京区七本松一条東入るのマンションでしたが、銀行ローンなどで購入していたので、抵当権設定がされており、売却されて債権相当額を差し引いたら200万円くらいが残っただけでした。生命保険も銀行ローンの支払いで相殺され、その200万円が、学校を卒業した時の中牟田君の全財産でした。」と高山元理事長が言った。
「本籍地はどこだったのですか?」と太郎が訊いた。
「確か、ご両親の出身地が大分県だったと思いますが、詳しい市町村名は記憶していません。白梅園が閉鎖された時の子供たちは京都御所の北側にある相国養護園に移りました。その時、白梅園にあった子供たちの資料も相国養護園に移しました。古い資料はある程度整理して廃棄しましたが、中牟田君に関する資料はある程度そこに残されているはずですよ。ご両親の名前や本籍地は残しましたから判るはずですよ。」
「そうですか。その相国養護園は何処にありますか?」
「D大学の北にある相国寺の東側です。」
「ああ、そこなら知っていますよ。後で訪問してみます。ところで、中牟田さんの卒業した高等学校は何処でしょうか?」
「京都府立の洛中高等学校です。成績は中くらいでしたかね。やや暗い感じでしたが、女の子にはもてたようですよ。バレンタインデーにはチョコレートを沢山持って帰ってきて、園内の子供たちに配っていましたよ。卒業後は京都市内の小さな建築会社に入って大工見習いをしていましたが、1年後に九州の会社に移るとか言って私の所へ挨拶に来ました。そして、京都から去っていきました。その後、白梅園が諸般の事情で閉鎖になり、彼からの音信も不通になりました。」
「京都市内の建築会社の場所や名前は判りますか?」
「四条大宮の近くでね、名前は、確か『高村工務店』だったと思います。」
「九州の会社というのは、名前とか、仕事内容とかは判りますか?」
「いえ、彼ははっきり言いませんでしたので、深くは訊きませんでした。」
「九州のどことかは、訊かれましたか?」
「ええ。福岡県の博多にある会社だとは言っていましたね。そうそう、思い出しましたよ。京都にある祇園と同じ名前の場所にある会社だとか言っていました。仕事内容は建築の営業みたいなこと言っていましたが・・・。」
「博多の祇園ですか・・・。」
「入園したばかりの小学生のころは、中牟田君は北野天満宮でよく遊んでいましたね。もともと、自宅マンションのあった一条七本松から北野天満宮は300mくらいで、近いですからね。」
「そうですか。友達はいたのですか?」
「まあ、そこそこ居たようですよ。親友と云う感じの子はいなかったですがね。園内での友人は、確か、菊川君だったですね。菊川君は東京に就職しましたから、その後は会っていないのではないかな。」
「参考までにお訊ねいたしますが、警察からはどのような事を質問されましたか?」
「京都府警の刑事さんが来られました。白梅園の資料は相国養護園に移されたことをお教えしたくらいですね。就職先などは訊かれなかったですね。ああ、高校生の頃に刺青をしていたかどうかを訊かれました。」
「中牟田さんは刺青をしていたのですか?」
「いえ、刺青など見たことがありませんでした。就職した後にでも入れたのでしょうかね。」
「警察が訊いてきた刺青の場所は体のどこだったのですか?」
「背中に刺青があったそうです。何か、ひらがなの文章だったみたいですが、詳しくは聞いていません。」
「背中にですか・・・。文章の内容は判りませんか・・・。そうですか・・・。」と太郎は考えを巡らせた。
「ところで、『筑紫の皇子』と云う言葉に何か思い当たることはないでしょうか?」と太郎が訊いた。
「筑紫の皇子ですか?いや、判りませんね。その言葉が殺された中牟田君と関係があるのですか?」
「いえ。ちょっと気になる言葉なのですが、中牟田さんとは無関係なのかも知れませんね。」と太郎が言った。
高山元理事長と別れた後、相国養護園に立ち寄った大和太郎は中牟田岩男の本籍地が大分県速見郡の日出町であること知った。
さらに、太郎は四条大宮にある高村工務店の場所を探し当て、そこを訪問したが中牟田岩男の事を詳しく覚えている人物はいなかった。
2011年7月23日(土) 午後5時30分ころ 烏丸御池の朝読新聞・京都支社
福岡県警の持っている情報を得られないかと思い、大和太郎は知り合いの朝読新聞事件記者・中山隼人を訪問していた。
「福岡県太宰府市で発生した都府楼殺人事件についての情報がほしいのですが。」と太郎が言った。
「何ですか、その都府楼殺人事件と云うのは?」と中山記者が訊いた。
「御存じないのですか?」
「九州の地方版にしか載らない事件に首を突っ込むことは少ないですからね。」
「実は、・・・・。」と太郎は都府楼殺人事件の概要や自分が調査した事などを中山記者に説明した。
「なるほど。それで、被害者である中牟田岩男の背中にあった刺青の文字が知りたい訳ですね。」と中山が言った。
「そうです。」
「じゃ、福岡支社の知り合いに電話入れてみましょう。」と言って中山記者が応接室に置いてある電話の受話器を取って、福岡支社の事件記者・陣内義則に電話を掛けた。
「判りましたよ。福岡県警からの正式発表は無いようですから秘密にしてほしいらしいです。内容は『こちふかば おもいをこせよ うめのはな あるじなしとて はるなわすれそ』だそうです。」と云いながら、メモした紙片を中山が太郎に渡した。
筑紫の皇子11;捜査会議
2011年7月25日(月) 午前10時30分ころ 筑紫野警察署
「ホストクラブ『ぷらむ』の聞き込みで判ったことがあります。菅原清隆こと中牟田岩男は殺害された当日は顧客とのデートのため、ホストクラブを休んでいます。顧客の名前は判明していませんが、太宰府近くにあるオービスシステムの監視カメラに中牟田岩男と思われる人物が写っているのが見つかっています。車を運転しているのは女性ですが、サングラスをしており、名前などは不明です。ただ、この二人が乗っている車は、北九市小倉にある暴力団・聖武祇園連合会の組長の所有になっています。」結城刑事が言った。
「聖武祇園連合会の組長は確か、岡上正一だったな。運転していた女は組長のコレか?」と刑事部長の高円が小指を立てながら言った。
「それは、これからの捜査で判明すると思います。ただ、サングラスと帽子で顔が隠されていますので、特定に時間がかかるかも知れません。」
「なるべく早く、特定してくれ。」
「はい。判りました。」
「オービスシステムから殺害当日の二人の行動範囲や行動時間帯は判っているのか?」
「いえ、まだです。現在、当日のすべてのオービス映像を調査中です。」
「そうか。ところで、中牟田の身元の方は判ったのか?」
「はい。本籍地は大分県速見郡日出町大字大神○○○です。交通事故で亡くなった両親が日出町の出身だったようです。親戚は東京の方に住んでおりますが、あまり交流はなかったようです。それで、中牟田岩男は京都市内の養護院に入所したようです。」
「なるほど。不幸な生い立ちではあったのだな、中牟田は。日出町からは、何も出てきそうにないかな・・・。」と高円が言った。
筑紫の皇子12;
2011年7月25日(月) 午後1時30分ころ 大分県日出町役場
京都の相国養護院で中牟田岩男の本籍地を確認した太郎は、中牟田家に関する家計を調べるため、大分県速見郡日出町を訪問していた。この事件の背景が霊的な因縁であるとする藤原教授の意見を参考にして、新犯人に迫ろうと太郎は考えていたのであった。
北九州市の小倉駅前でレンタカーを借り、国道10号線を南下して、宇佐インターから宇佐別府道路に入り、日出バイパスの日出インターで自動車道路を降り、JR日豊本線の暘谷駅近くにある日出町役場に太郎は来ていた。
「中牟田岩男さんの日出町に居るご親戚と云うことですが、戸籍簿から追いかけていきますと、現在では、大字大神○○○にお住まいの中牟田慶介さんくらいしかいないですね。」と役場の職員が言った。
「大神ですか。詳しい場所は?」と太郎が訊いた。
「JR大神駅から北西へ500mくらいの所に日出暘谷高校があります。昔は日出高等女学校と云っていたのですが、現在では男女共学です。近くへ行って道を聞く時には日出高校と言った方が判るようですよ。日出高校の北西角を左に曲がって大字藤原の方向に500mくらい行ったところにある農家が中牟田慶介さんの家です。」
「そうですか。有難うございました。ところで、東京にも中牟田岩男さんのご両親の親戚の方がいらっしゃると聞いているのですが、ご存じですか?」
「戸籍簿を見ますと、中牟田岩男さんのご両親はいづれも一人っ子だったようですね。東京ですか・・?ええーと、母親のいとこで香椎忠雄さんが東京にいらっしゃいますね。住所は東京都杉並区桃井4丁目○○ですね。本籍地は日出町大字藤原で、こちらに戸籍は残されていますね。」と職員が言った。
「桃井4丁目の香椎忠雄か・・・。」と太郎は手帳にメモを取とった。
2011年7月25日(月) 午後2時30分ころ 日出町大神
レンターカーに備え付けられているナビの画面地図を見ながら、太郎は日出暘谷高校を目指した。
「ここが、ソニー太陽の工場だから、この先が日出高校だな。」と思った時、前方から一人の男性が歩いてくるのが目に入った。
「あれは、確か、豊後高田警察署の棚橋刑事だな・・?」と太郎は思い、車を止めて窓ガラスを開けた。
「棚橋さん。」と太郎が男に声を掛けた。
「やあ。大和探偵じゃないですか。その節はお世話になりました。また、こちらで何をされているのですか?」と棚橋が訊いた。
「福岡で発生した殺人事件に関しての真相究明の調査をしています。その一環として、被害者の親族に話を聞きに行くところです。」
「はあ、福岡での殺人事件ですか・・・。」
「棚橋さんは、何か事件の捜査でこちらに来られたのですか?」
「いえ。現在は豊後高田署から大分県警本部移動になったばかりです。ここは私の出身地です。現在の所、事件らしい事件がないので、今日は休暇をもらい、久々に母校で教師をしている友人と話をしてきたところです。」
「この大神がご出身地でしたか。」と太郎が言った。
「大神ではなく、私の実家はとなりの藤原の地です。そこの日出高校が私の卒業した学校です。友人が歴史の教師をしているので、ちょっと挨拶に来ての帰り道です。」
「そうですか。大分県警本部に移動されたのですか。」
「これから、その被害者の親戚宅へ行くところですか?」
「そうです。興味がありますか?」
「それは、太宰府政庁跡地での殺人事件ですね。」
「よく、ご存じですね。」
「近隣県の事件情報は県警本部にも入ってきますからね。ご一緒しましょうか?刑事がいれば、相手から話を訊き出しやすいと思いますよ。」と棚橋が言った。
「それはありがたいですね。ぜひ、お願いします。」と太郎が言った。
棚橋は事件内容よりも太郎がどのような質問の仕方をするのかに興味があった。太郎の事件解決の手腕はよく知っているので、自分の調査・尋問の仕方の参考にしようと考えているのであった。
筑紫の皇子13;
2011年7月25日(月) 午後4時ころ 日出町大神にあるホテル
海の見えるホテルのロビーのソファに座って棚橋刑事に大和太郎がこの事件の背景などを話している。棚橋も警察庁から配布された福岡県警の殺人事件概要報告書に目を通していたので詳細は知らないが、大方の事件状況は認識していた。
「家系を追いかけるのが目的で日出に来たと云うことですが、中牟田岩男の祖父の兄弟の中牟田慶介さんからは参考になる話は出てこなかったですね。」と棚橋が言った。
「そうですね。中牟田岩男さんと面識がないどころか、生まれていることすら知らないのですから、致し方ないですね。先祖の家系図もないようですからね。」
「他に、もう少し近い親類は居ないのですか?」と棚橋が言った。
「東京に母親のいとこが居るらしいのですが、こちらもあまり期待できそうもないですかね。」と太郎が言った。
「名前は?」
「香椎忠雄と云う方です。」
「母方の家系は香椎ですか。福岡に香椎宮がありますね。」
「香椎宮とは?」
「神功皇后と仲哀天皇が九州遠征の時に住んだ場所で橿日宮と呼ばれていたようです。仲哀天皇の子を神功皇后が宿した場所とされています。また、723年に神功皇后が神託に登場し、仲哀天皇はそこで死んだので、そこに霊廟を建てるように命じ、朝廷が724年に香椎宮を創建し、仲哀天皇、神功皇后を祭神としたようです。香りのよい椎の樹が生えていたので、香椎廟と呼ばれるようになったと云う話です。後に、応神天皇と住吉大神も祀られ、香椎宮となったようです。」と棚橋が言った。
「さすが棚橋刑事ですね、よく御存じですね。」
「いや、知りあいの女性から聞いた話の受け売りです。あっはっはっは。」
「住吉大神ですか・・。龍神ですね・・・。それと、神功皇后と云えば、宇佐八幡宮の祭神でもありますね・・・。」と太郎が呟いた。
「香椎家の家系がどうなっているのかですね。神功皇后に繋がりますかね・・・。」と棚橋が言った。
「神功皇后に繋がったとして、それが菅原道真に繋がりますかね・・・・。菅原道真の先祖は天孫の天穂日命、建比良鳥命、野見宿禰、土師氏と云う事ですが・・。それと、天穂日命が仕えた大国主の御子に味鉅高彦根がおり、別名が賀茂大神とも呼ばれています。京都に上賀茂神社がありますが、京都の北野天満宮と繋がるかどうかですが・・・。」と太郎が言った。
「容疑者の竹中直義の家系はどうなんです?筑紫の皇子との関係は?」と棚橋が訊いた。
「まだ、これからの調査です。何も判っていません。筑紫の皇子が鹿島神宮と関係があるかどうかも不明です。」
「竹中直義の家系が藤原に繋がれば、藤原時平一派の菅原道真への復讐となりますか。」と棚橋が言った。
「それはまた、大胆な意見ですね。」と太郎が驚いたように言った。
「大和探偵もそのように考えていたのではありませんか?」
「あっ、いや、そこまではまだ・・・。」と太郎が口ごもった。
「ところで、被害者である中牟田岩男の背中には文字の刺青があったようなのですが、棚橋さんは何かご存じですか?」
「刺青?いや、そのことは事件概要報告書には載っていなかったですね。」
「調べてもらえないでしょうか?」
「あっはっはっは。それはだめですね。現職の警察官が捜査情報を民間人に教えることはできません。捜査方針で、そのことを公表するとなれば別ですがね。」
「公表する方針には為りませんかね?」
「私はこの事件捜査の部外者ですから何とも言えませんね。その刺青が重要な手掛かりになりそうなのですか?」
「いえ、まだ判りませんが、情報は多い方が良いのに決まっていますからね。」
筑紫の皇子14;
2011年7月26日(火) 正午過ぎ 春日市の精神病院
太郎と平山重夫が病院の応接室で話している。
「ご両親から竹中直義さんの家系を聴いておいた。」
「それで。」と太郎が身を乗り出した。
「明治時代以前の家系については不明だが、どうも京都の出身のようだな。3代前までは京都で宮大工をしていた家系だが、昭和初期に、2代前の竹中作蔵氏が太宰府天満宮の仕事でこの地に来て以来、現在の住所に住んでいるそうだ。一代が40年として、3代前くらいは江戸末期から明治初期くらいだろう。本家筋はまだ京都に住んでいるらしいが、宮大工は止めているらしい。今は、交流も途絶えているようだ。」
「本家のある京都の住所は判っているのか?」
「昭和初期には西陣あたりに住んでいたようだ。今でいう、大宮今出川あたりかな。現在の所在は知らないらしい。」
「大宮今出川の宮大工か。西陣なら北野白梅町に近いな・・・。探してみるか。ところで、竹中直義さんから新しい情報は聞き出せたか?」と太郎が訊いた。
「いや、新しい情報を聞き出すのは、もう無理だな。過去の事は覚えていないようだ。新しく事件が発生すれば別だがな・・・。」と平山が言った。
「そうか。」
「ところで、来月から捜査本部を筑紫野警察署から福岡市博多区東公園7番7号にある福岡県警本部に移すらしい。」
「県警本部に移すとは。捜査規模を拡大するのかな?捜査員を増強するのか?しかし、東公園7番7号だとは、何か意味ありげな住所だなあ・・・。菅原道真の『東風吹かば』の句と『7本松伝承』と因縁があるのかな・・・?洒落で住所番号を付けたのかな。」と太郎は思った。
筑紫の皇子15;
2011年7月27日(水) 午前11時ころ 大宰府天満宮
殺人現場である都府楼跡地を見学したあと、大和太郎は太宰府天満宮に参拝するため、天満宮にある太鼓橋を渡って、拝殿に向かって歩いていた。
「あれ。あの修験装束の人物は、北野天満宮で出会った、確か、神威示現斎とかの文字を背中に書いてある山伏衣装を着ていた人物では。」と前方から歩いてくる男に太郎は目が行った。
男は鋭い目つきをし、鷲鼻で身長が1メーター80センチ以上ある大柄な体をしている。
白い修験装束に法螺貝を肩からぶら下げている。
すれ違い様に太郎と男の目が合った。
「ふうー。威圧感のある鋭い目付きだな。それに、体から発する気の力が凡人ではない。もし、殺気を発すれば、かなり気押されるな。戦いたくない相手だな・・・。それに、かなり汗をかいていたな。どこかで修行でもして来たのかな?」と太郎は空手家としての思いが浮かんでいた。
神威示現斎はチラリと太郎の顔に一瞥を加えただけで横を通り過ぎて行った。
本殿前で祭神に挨拶をしたあと、太郎は太宰府天満宮から東北東へ1キロくらい離れた所にある竃門神社に歩いて向った。
「菅原道真は加茂大神の子孫と思われるから、賀茂神社の祭神・玉依姫と同じ祭神である竃門神社で何か発見出来れば良いのだが。」と思いながら太郎は歩いていた。
そして、竃門神社には神功皇后と応神天皇が祀られているのを知り、菅原道真の天満宮と宇佐八幡宮が何らかの関係があることを知るのであった。しかし、その繋がりの因縁は不明のままであった。
「修験道の繋がりか?宝満山と国東半島の六郷満山。そして、天満宮・・・か?筑紫の皇子とは誰なのか?」と太郎は考えを巡らした。
※竃門神社;
竃門神社は宝満山(829m)と云う修験道の山の麓にある。宝満山は竃門山とも呼ばれ9合目には仙竃と彫られた竃門岩があり、山頂には竃門神社の奥宮がある。
筑前国続風土記には「造化神秀の集まる所で、神霊の留まる地であり、筑紫国の惣鎮守と称す」と書かれているらしい。神仏習合時代には宝満大菩薩と呼ばれていたようである。伝教大師最澄も宝満山で祈祷を行ったとされる。京の都の鬼門にあたる東北にある比叡山と同じように、宝満山は太宰府天満宮の東北にあり、天満宮の鬼門封じの山とされる。
竃門神社の祭神は玉依姫であり、神功皇后と応神天皇が相殿に祀られている。
天智天皇三年(664年)の創祀とされる。天武天皇12年(683年)に心蓮と云う僧侶が宝満山で修行中に玉依姫を示現して社祠を建てたのが奥宮の始まりとされる。
主祭神の玉依姫は八幡神である応神天皇の伯母であり、神功皇后の姉とする説がある。また、神武天皇の母ともされる。また、京都にある下鴨(賀茂御祖)神社の祭神でもある。上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神の母神とされる。とすると、賀茂別雷大神は神武天皇かその兄弟と云うことになるのか?
下鴨神社の禰宜の家に生まれた鴨長明が自信を持って詠んだ歌がある。
「石川やせみのを川の清ければ 月も流れをたづねてぞすむ」
石川県の能登にある賀茂神社を思わせる歌ではある。(能登の錫杖・後編参照)
なお、下鴨神社は京都御所の鬼門(東北)にある。
筑紫の皇子16;
2011年8月1日(月) 10時ころ 福岡県警本部内大会議室
「本日より近隣県の警察本部からの更なる強化応援を受け、捜査本部をここ福岡県警本部内に移し、捜査規模を拡大することになった。新しく参画する近隣県からの捜査員のために、本事件の概要を結城刑事から説明してもらう。」と高円刑事部長が言った。
「被害者である通称、菅原清隆こと本名、中牟田岩男26才の死亡推定時刻は7月15日、午後10時から12時の間です。死因は高電圧電流貫通による心臓破裂。凶器は改造された針型スタンガンです。今、こちらの大型スクリーンに映し出されているものです。7月16日の朝にこの改造スタンガンを所持して、殺害現場である都府楼跡地の近くを歩いていた認知症的な精神異常患者である竹中直義を容疑者として逮捕勾留中ですが、証拠固めができておらず、まだ本星とは決めかねる状況です。本人の記憶がはっきりせず、尋問による自白は期待できません。事件当日の夜には外出していないとの家族の証言がありますが、ずっと竹中直義を見張っていた訳ではないので、外出の有無は不明です。一方、当日に中牟田岩男と車で同行していたと思われる女性は北九市小倉にある暴力団・聖武祇園連合会組長、岡上正一の情婦である多沼圭子34才と思われます。今スクリーンに映し出されている写真の女です。オービスシステムからの情報では、多沼圭子は岡上正一の所有するベンツに乗って、7月15日の午後一時過ぎに中牟田岩男と小倉駅近くの国道を通過しています。その後九州自動車道で熊本へ行き、阿蘇山周辺をドライブした後、午後8時ころに湯布院インターから大分自動車道に入り、二人が太宰府インターを出たのが午後9時30分ころです。その後、多沼圭子が一人でベンツに乗り北九州市にある自宅マンションに戻ったのは午後12時ころと思われます。現在のところ、都府楼跡地で中牟田と多沼が一緒に歩いていたところを目撃した人物はいません。多沼圭子が何らかの事情を知っているものと思われますが、現在、行方が分かっていません。自ら姿を消したのか、それとも新犯人を目撃したので殺されてしまったのか、所在不明です。なお、中牟田岩男と竹中直義の経歴と写真はお手元に配布してあるはずです。それを参照してください。以上です。何か、質問はありますか?」と結城刑事が訊いた。
「被害者・中牟田岩男の背中に刺青があったと云う話を聞いていますが、どのような刺青ですか?」と大分県警本部から派遣されて来た棚橋刑事が訊いた。
「さすが、大分県警さんは早耳ですね。刺青はひらがなで書かれた短歌です。今、スクリーンに被害者の背中の写真を映し出しますが、『こちふかば おもいをこせようめのはな あるじなしとて はるなわすれそ』と云う、縦4列に分けて書かれたものです。菅原道真の歌は『東風吹かば 匂いをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ』ですから、『おもいをこせよ』の部分が道真の歌の『匂いをこせよ』と違っています。」と結城刑事が答えた。
「なぜ、その部分が違っているのでしょうか?」と棚橋刑事が訊いた。
「判りません。何か意味があるのか、ないのか・・・?」
「そうですか。ところで、多沼圭子の過去の経歴などは判明していますか?」と棚橋が訊いた。
「北九州地区暴力犯罪捜査課の話では、1年前くらいから、岡上正一の情婦になったようです。大阪の北新地にあったクラブを辞めて北九州市小倉にあるキャバレーでホステスをしていた時に岡上正一から見染められたようです。」
「大阪のクラブの場所とか名前は判っているのですか?」
「現在、大阪府警に調査依頼していますが、まだ判明していません。」と結城刑事が言った。
「北九州市への住民登録から大阪での住所や本籍地が判明すると思いますから私が調べてみましょうか?」と棚橋が言った。
「大阪での住所は判っていますが、それ以前については不明です。大阪府警でそのあたりを調査中です。本籍地に関しては自動車免許証登録データから判っています。長野県長野市鬼無里根上です。」
「長野県の鬼無里ですか?」
「ええ。平成17年の町村合併前は上水内郡鬼無里村でした。現在、長野県警で多沼圭子に関する身上調査を行っています。本籍地に実家や親戚の家が残っていれば、多沼圭子が立ち寄る可能性もありますので、長野県警には注意して調査してもらっています。しかし、殺されていなければいいのですが・・。」
「殺される?」
「殺害当日の被害者と行動を共にしていた多沼が犯人でないとしたら、身を隠す理由はありません。多沼圭子が犯人でない場合、多沼に目撃された新犯人が彼女を拉致し殺してしまうと考えられます。多沼圭子自身が犯人として、殺しの手口から共犯者がいるはずです。スタンガンを持っている側の人物とスタンガンからの電流を受けるアースされた極板を持った人物の二人以上の人物が居たと推定できます。共犯者が多沼を殺すことも想定できます。もちろん、多沼は逃げているだけかもしれませんが。」
「多沼圭子が死んでいれば、手がかりが失われると云うことですか?」
「重要な証人が居なくなる訳ですから、事件が迷宮入りになりかねないですからね。」
「多沼圭子34才がこの事件を解くキーマンか。殺人の動機は何だろう?痴情、縁懇、金・・・?もっと他の何か?」と棚橋刑事は考え込んだ。
「組長の岡上正一が犯人ということはないのでしょうか?」と佐賀県警の上村刑事が訊いた。
「その場合、情婦の多沼圭子が浮気をしているのを知って、岡上正一が浮気相手の中牟田を殺しただけで済むのかと云う疑問が残ります。多沼圭子が事件当日、都府楼近くで中牟田と別れた後に中牟田だけを殺したと考えるのには無理があります。暴力団の遣り口では二人とも拉致して、どこかで、二人とも殺してしまい、どこかに埋めるか、コンクリート詰めにして海に沈めるとかするのが常道です。オービス監視システムの映像から、事件発生後に多沼圭子は都府楼近くからは一人で車に乗って小倉に戻っていると思われます。その後、消息を断っています。暴力団が中牟田だけを殺し、多沼圭子を逃がすと云うのはちょっと考えにくいです。逆に、組長の岡上と多沼が共謀して中牟田を殺すと云う筋もありますが、その場合、動機は何かです。岡上と多沼が何かを理由に強請られていたのかどうか?中牟田もバカではないでしょうから、その場合、自分が殺されないための保証の存在をチラつかせるはずですが、現在の所、そのような保証の存在は発見されていません。岡上正一が犯人という仮定での捜査は継続いたしますが、現時点で犯人を岡上に絞り込むことは危険です。」と結城刑事が答えた。
「岡上から事情聴取はしたのか?」と高円刑事部長が訊いた。
「実は、岡上は三か月前から所在不明のようです。北九州地区暴力犯罪捜査課の話では、月末に宅急便で組幹部への指示命令のビデオが顧問弁護士の高城常一あてに送られてくるそうです。そのビデオみて、組幹部は組員たちに活動指令を出しているようです。ビデオの送付元住所には岡上が住んでいる形跡はなく、その発送元住所名も毎回違っているようです。暴力犯罪捜査課もなんとか岡上の居場所を捜し出したいようですが、まだ見つかっていないようです。」と結城刑事が答えた。
「岡上が姿を消した理由は?」
「それも、判っていないようです。組幹部や組員も知らないみたいですね。」
「顧問弁護士の高城なら知っているのではないか?」
「高城も知らないと言っているようです。本当かどうかは判りませんがね。」
「そのビデオの発送地点はどこですか?」と棚橋が訊いた。
「3か月前は静岡県の下田市。2か月前は千葉県の東金市。1か月前は埼玉県の東松山市です。」と結城刑事が答えた。
「ふーむ、発送地は東海・関東地方と云うことですか。今日は8月1日ですが、今月のビデオはもう組の弁護士には届いているのですかね。」と棚橋と棚橋が訊いた。
「まだ、今月のビデオの発送地に関する情報は来ていません。」と結城刑事が言った。
「多沼圭子だけではなく、聖武祇園連合会組長の岡上正一も姿を消しているのか・・・。それも、中牟田岩男が殺される3か月以上前から・・・。まあ、中牟田岩男、多沼圭子、竹中直義、岡上正一に関する調査を推進し、事実関係を着実につかんでから、動機を推理し、捜査方針を絞り込みましょう。皆さんには御苦労でしょうが、まず、事実関係の把握に尽力していただきたいと思います。よろしくお願いいたします。新しく加わった捜査員のチーム分けについては、この後に結城刑事が発表いたします。」と高円刑事部長が言った。
筑紫の皇子17;
2011年8月1日(月) 午前10時ころ 東京都江東区の亀戸天神
毎朝新聞文芸部文芸課の唐木女史と事社会部件記者の鮫島姫子、そして、写真カメラマンの田沢展一の3人は亀戸天神に関する特集記事を書くために、ここ亀戸天神社を訪問していた。
神社の鳥居近くの鉄柱に取り付けられているスピーカーからかわいい子供の歌声が聞こえていた。
♪通りゃんせ、通りゃんせ♪
♪ここは何処の細道じゃ?♪
♪天神様の細道じゃ♪
♪どうぞ、通して下しゃんせ♪
♪御用のない者、通しゃせぬ♪
♪この子の七つのお祝に、お札を納めに参ります♪
♪行きは良い良い、帰りは怖い♪
♪恐いながらも、通りゃんせ、通りゃんせ♪
※亀戸天神社;
祭神は菅原道真(天満大神)と菅原道真の先祖である天穂日命。1646年太宰府天満宮の神官である菅原大鳥居信祐が神のお告げを受けて天神信仰を広めるために諸国を巡り、亀戸村にあった小さな天神の祠に神像を祀ったのが始まりとされる。天神像は太宰府天満宮にあった飛び梅の木の枝を用いて彫られた像であったらしい。当時の4代将軍・徳川家綱が社地を寄進して、1662年10月25日に太宰府天満宮にならって、現在のような大きな池や太鼓橋を持った神社が創られた。以来、東国天満宮の宗社とされている。松尾芭蕉たちは2月の梅の咲く時節にはここで句会を催していたようである。
開基別当の菅原大鳥居信祐が残した句がある。
『かふたちて さかふる梅の 若枝かな』
「かふたち」とは「株立ち」の意で、一本の根株から分かれた草木が生い茂る意で、株とは太宰府天満宮を指す。なお、「かふ」の文字には「十」を用いよとの神告があったそうである。何故に『十』なのか不明である?
「姫子さん、記事を書くのをお手伝いいただくのでしっかり見学しておいて下さいね。」と唐木女史が言った。
「はい。でも、いつもの調子ですから、あまり期待しないで下さい。」と姫子が言った。
「いえいえ。姫子さんの書いた文芸記事は、いつも読者の評判を呼びますから、わが社の重役陣も期待しているそうよ。」
「それは、恐縮です。でも、先ほど見たあの鳥は何でしょうね?」と姫子が言った。
「池に浮かんでいる石の上で片脚立ちしていた年老いた風情の鳥のこと?」と唐木女子が言った。
「ええ、もう一方の脚はお腹の羽根の中に隠していて一本足で立っているなんて・・・。この神社の主みたいで、風格がありましたね。」と姫子が言った。
「ウソ替え神事に登場する鷽と云う鳥じゃないのかしら?」
「違うと思います。事前に調べましたが、鷽鳥はもっと小さな鳥だそうです。あの鳥は、やや緑掛った黒灰色の羽根で、胸元は白く、背中にはたくさんの白い羽根が生えていて、白い斑点の紋様のようになっていましたね。厳つい顔をして、尖った黒い色の嘴の口元が黄色いのが印象的でしたね。最初に見た時は鳥の石像が池の中に置かれているのかと思っちゃいました。やはり、亀戸天神の主ですかね。妙な奴等が取材に来たので、見張っているのかも知れませんね。アハハハハ・・・。」と姫子が不思議そうに言った。
その時、「あれは何ですかね。」と、太鼓橋の方を指差しながらカメラマンの田沢展一が言った。
「山伏ですね。」と姫子が言った。
背中に神威示現斎と書かれた修験装束を着た、厳つい顔の男が法螺貝を吹きながら、太鼓橋の上を、拝殿に向かって歩いている。
「取材しましょう。」と云いながら姫子が修験装束の男の方へ向かった。
「神業中につき取材拒否」が男の返事であった。
姫子たちも食い下がったが無視されてしまった。しかし、田沢カメラマンは拝殿前での男の所作などを写真にとり、男が述べていた口上は唐木女史がメモしていた。
『汝の使い手にして、汝の下僕たる我は、汝を招喚する。汝、水と火と天と地による者よ。出でて、我が言葉に従え。アヌナキ、アヌナキ、アヌナキ。・・・・・・・・・・・・・。』
その男・神威示現斎が早口で意味不明の言葉を発した後、両手で印を組んだ。
「汝は我に水を与えよ。過ぎることなく、欠けることなく。」と、更に続けて言った。
すると、今まで晴天であった空が俄かに曇り始め、雨が降ってきた。
「あの男、天神を招喚したのね。」と鮫島姫子が呟いた。
「姫子さん。あの男の後を着けて、住処を調べられる?」と唐木女史が訊いた。
「任せて下さい。私は事件記者ですから追跡はお手のものです。」
「お金、充分持っていますか?遠距離の追跡になるかも知れませんからね。」とカメラマンの田沢が訊いた。
「ええ、大丈夫です。カードを持っていますから自動発券機で切符購入はできます。」と姫子が言った。
筑紫の皇子18;
2011年8月6日(土) 午前9時ころ 東松山駅前の大和探偵事務所
大和太郎が毎朝新聞の土曜版を見ている。
「『連載随想・亀戸天神』か・・・。何だ、山伏装束の神威示現斎だと!京都の北野天満宮と九州大宰府天満宮で見かけた奴が亀戸天神にも現れたのか。神業を行っていたのか・・・。何の神業をやっていたのだろう。記事を書いたのは誰だろうか?鮫島さんに訊いてみるか。どのような状況であったのか、なんとなく興味があるな・・・。今回の事件には菅原道真が絡んでいるから、天満宮に関する知識・情報は何でも仕入れておかないとな。ちょっと、動いてみるか・・・。」と太郎は思った。
2011年8月7日(日) 午後3時ころ 東京築地にある毎朝新聞本社・ロビー
新聞社のロビーにある来客応対用のテーブルを挟んで、大和太郎と鮫島姫子が神威示現斎の話をしている。鮫島姫子は当番で日曜出勤をしていた。
「神威示現斎を尾行して長野新幹線で東京駅から長野駅まで行きました。神威示現斎はJR亀戸駅にあるコインロッカーからボストンバッグを取り出して、それから障害者用のトイレに入り、修験装束から普段着に着変えて出てきました。その後、総武線と山手線を乗り継いで東京駅に行き、長野新幹線に乗りました。彼は長野駅前からタクシーに乗ったので、私もタクシーに乗って尾行を続けたのですが、5分くらい行ったところで彼がタクシーを降りました。私もタクシーをおりて、徒歩で彼を尾行したのですが、300mくらい歩いたところで、彼の降りたタクシーが待っていて、彼は再びそのタクシーに乗り込んで、走り去りました。私はタクシーを捕まえられず、そこで尾行は終了しました。」と姫子が言った。
「要は、神威示現斎は尾行を知っていて、姫子さんを撒いたと云う訳ですね。」
「まあ、そう云うことです。お恥ずかしい。」
「尾行を撒く方法を心得た人物ですね。何者ですかね、神威示現斎は?」
「見失ったらいけないと思ったのでタクシーのナンバーをメモしておきました。この番号がそれです。まだ、タクシー会社を調べていません。よろしければ、大和さんがタクシー会社を調べていただけませんか?そして、神威示現斎は何処に住んでいるのかが判れば、教えていただきたいのですが。これが、その男の顔写真です。」と姫子が太郎に神威示現斎の顔写真を渡した。
「暇を見つけて、長野の陸運局に行ってタクシーを調べてみますかね・・・。」と太郎が言った。
「この神威示現斎は何かの事件に関係しているのですか?」と姫子が訊いた。
「いや、私は天満宮に興味がありましてね。単なる好奇心です。」と太郎が答えた。
「ほんとうですか?」と太郎が神社好きであったのを思い出しながら、姫子が言った。
「いやだな。本当ですよ。別に、調査依頼を受けた訳ではありません。ご安心ください。」と太郎が笑いながら言った。
筑紫の皇子19;
2011年8月8日(月) 午前10時ころ 福岡県警本部・捜査会議
「多沼圭子の本籍地で実家があったと云う長野市鬼無里へ行ってきました。その報告を行います。」と棚橋刑事が続けた。
「現在、鬼無里村には多沼の実家は存在しませんでした。近隣に住む人の話では、かつて少女のころ、多沼圭子は母親と住んでいたようです。父親は福島県の会津にいて、夫婦は離婚していたようです。役所で父親の住所は調べておきました。母親は農協に勤めていたようですが、肺炎がもとで死亡したようです。残された圭子はその時14歳で中学生だったようですが、18歳まで長野市内の養護院に入っていたようです。養護院の記録では、高校を卒業した後、高村工務店と云う京都市内の小さな建築会社に就職しています。京都の高村工務店に立ち寄って多沼圭子の事を訊いてきましたが、多沼を覚えている人物はいませんでした。会社の過去の記録を調べてもらったのですが、就職して1年後に会社を辞めており、その後の消息は不明です。当時は会社社宅の借り上げマンションに住んでいたようです。」と棚橋刑事が報告した。
「その後、多沼圭子は京都から大阪に流れ、そして福岡に来たと云う事だな。」と高円刑事部長が言った。
「はい。しかし現在のところ、京都から大阪に流れるまでの状況は何も判っていません。」と棚橋が言った。
「中牟田岩男が京都の出身で、多沼圭子も京都に住んでいた時代があった訳か・・。中牟田岩男の最初の就職先は判っていないのか、結城。」と高円が訊いた。
「はい、現在、京都白梅町にあった白梅養護園はなくなっており、京都府警の調査では中牟田岩男が養護園を出た後の消息は判っておりません。白梅養護園に在った資料は相国養護園に引き継がれましたが、その時に古い資料の多くは廃棄されており、中牟田岩男の高校卒業後の就職先などの記録は残されていなかったようです。」と結城刑事が言った。
「そうか。京都で中牟田と多沼が接触した可能性は不明か。」
「二人の年齢は26歳と34歳で8歳の年齢差です。そして、中牟田は19歳の時に福岡に来ています。その時に博多区祇園町にあった八坂建設に勤め始めたものと思われます。高校卒業後の1年間はたぶん京都に居たのでしょう。多沼圭子は高校卒業後1年の19歳で京都の会社を辞めています。そして、大阪府警の調べでは、大坂北新地のクラブで約2年間勤め、北九州に来たのは1年半くらい前です。大阪のクラブで働く前は何処に住んでいたのかは不明です。多沼と中牟田の京都での接触の可能性があるとすれば、中牟田が高校を卒業した直後の1年間くらいです。今から7年前です。この時、多沼圭子は27歳で京都にいたとすれば、半年間の間、中牟田と多沼は同時期に京都に居たことになります。多沼がすでに大阪に居たとしても、この時に二人が出会う可能性は小さいと考えられますが・・・。」と棚橋刑事が言った。
「半年間の可能性か。福岡で二人が知り合ったと考えるのが妥当かな?」と高円が言った。
「もし、この京都での半年間に二人が出会っているとして、その意味は何かですね?」と結城刑事が訊いた。
「福岡での再会。それが意図されたものなのか、偶然なのかですね。」と棚橋が言った。
「意図されたものだったら、何だ?」と高円が訊いた。
「現在のところ、何があるのか、判りません。」と棚橋が答えた。
筑紫の皇子20;
2011年8月8日(月) 午後1時ころ 大和探偵事務所
探偵事務所の電話のベルが鳴った。
「はい。大和探偵事務所でございます。」と太郎が受話器を取って答えた。
「京都・D大学の藤原です。」と相手が言った。
「ああ、先生。先日はご意見をいただき、ありがとうございました。」
「ちょっと、お願いがあるのですが。」
「何でしょう。」
「例の、能登半島の『金星の法』の件ですが、能登・甲にある円山と群馬県・榛名山、千葉県・麻賀多神社を結ぶ霊ライン上に長野県・戸隠神社があります。この戸隠神社とその周辺を調べたいのですが、山間部のため、ちょっと車がないと不便なのです。私も若ければ自分で車を運転するのですが、何分、歳を取っていますのでね。そこで、大和君に車の運転をお願いできないかと思いましてね。」
「判りました。ちょうど長野市で調べたい事がありますので、ご一緒いたします。それで、何日に戸隠に行かれますか?」
「早い方がいいので、明日にでもと思っているのですが。」
「判りました。明日 長野駅の改札でお会いたしましょうか。朝の東海道新幹線で東京に来られ、長野新幹線に乗り継いで頂ければ、午後1時ころには長野でお会いできるでしょう。明日は私の携帯電話に連絡を入れてください。私は午前中に、長野市内での用事を済ませておきます。」
「判りました。明日は宜しく。宿泊は戸隠神社周辺の宿坊を私の方で予約しておきます。」と藤原教授は言って、電話を切った。
筑紫の皇子21;
2011年8月9日(火) 午後11時ころ 長野市内のタクシー会社
太郎は早朝に東松山駅前からバスで熊谷駅へ移動し、熊谷駅から7時31分の長野新幹線・あさま503号に乗った。
午前9時前には、長野駅に到着し、駅前でレンタカーを借りて、長野運輸支局へ行き、毎朝新聞の鮫島姫子から聞いたタクシーのナンバーからタクシー会社を調べた太郎は、そのタクシー会社を訪問していた。
「そのナンバーの車を運転しているのは、田中ですね。ちょっと無線で呼び出してみます。」と運行管理の事務員が言って無線室に入って言った。
「今、この近くにいるようですね。早めの昼食を取るために会社に戻ってくる途中のようです。あと5分くらいで戻ってくるようですから、しばらく待合室でお待ちください。」と無線室から出てきた事務員が太郎に言った。
タクシー運転手の田中氏が会社に戻ってきて、太郎と話している。
「ああ、この顔写真の男性は女性に尾行されていた方ですね。長野駅前から乗者されて5分くらい走ったところで、突然、『ここで一旦降りるから、300m先に行って待っていてくれ。』と仰られました。そして、すぐに再乗車されました。バックミラーを見ていたら、後から来たタクシーを降りた女性が男性の後を歩いているのが見えましたね。ああ、あの女性から逃げるために一度下車するのだなと、ピーンと来ましたよ。」
「行き先はどこだったのですか?」
「いえ。乗車された時は、松代方面に行って欲しいと言われましたが、再乗車された後、長野駅近くの駐車場に行くように指示されました。妙なことを言う人だなと思いました。」
「駅近くの駐車場ですか?」
「ええ。そこにご自分の車を駐車されていたのではないですかね。運賃メーターは1300円でしたが、乗車賃を二千円頂きました。釣り銭はいらないと謂われましたのでありがたく頂戴いたしました。まあ、変なお客さんでした。」
「どこに帰るとか、そのような話はしなかったのですか?」と太郎が訊いた。
「ええ、行き先以外の会話はありませんでした。」とタクシー運転手が言った。
「その駐車場の場所を教えていただけますか?」
「長野駅前にあるメトロホテルの北向いにあるタウンパーキングと云う駐車場です。行けば、すぐに判りますよ。」とタクシー運転手の田中が言った。
太郎は運転手に謝礼金を渡して、タクシー会社を出て行った。
筑紫の皇子22;
2011年8月9日(火) 午後5時ころ 戸隠神社宝光社近くの宿坊「岩戸」
大和太郎と藤原教授が宿泊部屋内で明日の行動計画などを話し合っている。
「都府楼事件は解決しそうですか、大和君?」と藤原教授が訊いた。
「いいえ。まだ、何も見えてきません。」と太郎が答えた。
「確か、菅原道真が関係しているのでしたね。菅原道真は地祇系の大国主命に仕えた天神系の天穂日命の子孫です。ですから、大国主の御子で賀茂大神と呼ばれた味鉅高彦根命とは近しい関係にあります。出雲大社の舞殿の後ろには天満宮の社祠があります。」
「そうです。先日の先生のお話では、天満宮創建は陰陽師の賀茂保憲の霊系が関係しているかもしれないと云うご意見でした。」と太郎が言った。
「私がそんなことを言いましたか、ふーん。」と藤原教授が考え込んだ。
「先生、何か思い当たることがありますか?」と太郎が訊いた。
「京都の上賀茂神社の祭神は賀茂別雷神で天神系ですね。そして、京都・下鴨神社すなわち賀茂御祖神社の祭神は賀茂建角身命とその娘の玉依姫命で地祇系です。上賀茂神社の創建が天武天皇七年(678年)で、下鴨神社の創建は神武天皇の時代と伝えられています。賀茂家と云うのは、天神の霊系でもあり、地祇の霊系でもある訳です。不思議な家系ですな。まあ、陰陽師を生み出した家系ですから、不思議はないとも云えますがね。」
「賀茂神社ですか・・・。」と太郎が不思議な顔をした。
「呪術など使う修験道の開祖である役小角は賀茂役君小角とも呼ばれ、地祇系の三輪氏族に属する賀茂一族です。菅原道真が比良明神の禰宜である神良種の子・太郎丸の夢に現れて、京都の北野馬場に自分を祀るように託宣したのも、三輪氏と霊系が繋がっているからでしょう。確か、太宰府天満宮近くにある竈門神社の祭神は玉依姫で下鴨神社と同じ祭神です。また、竈門は火魔門であり、北野天満宮にある摂社・火之御子社の祭神である火雷天神に通じます。火雷天神は大山昨神であるとも言われています。また、941年、道賢上人が金峰山の冥土で菅原道真に出会った時、道真は『火雷天気毒王が私のこの冥土世界での名前である』と語ったらしい。火雷天神は丹塗矢となって下鴨神社の祭神・玉依姫に賀茂別雷命を産ませた。賀茂別雷命は上賀茂神社の祭神です。ちなみに、奈良の大神神社の創建者である大田多根子命は神君、鴨君の祖なり、と古事記には書かれています。日本書記にも大三輪の神の子は賀茂君等、大三輪君等と書かれています。奈良から京都へ移住してきた賀茂一族の先祖であるわけです。やはり、今度の事件は賀茂一族を調べた方が良いかもしれませんね、大和君。」
「竈門神社には神功皇后とその子である応神天皇も祀られていますが、これについて、先生のご意見をお聞かせ願えますか?」と太郎が訊いた。
「確か、竈門神社の主祭神は玉依姫命で、相殿に八幡神である応神天皇と神功皇后が祀られていましたね。玉依姫は加茂・大神の霊系で応神天皇は八幡の霊系で別の霊系と考えられます。しかし、宇佐八幡宮で大神比義と云う大田多根子の子孫で加茂・大神の霊系を持つ人物が三年間の呪験修行を行い、三歳児である八幡大神の出現を見てから神功皇后の子である応神天皇が八幡大菩薩と謂われるようになった訳です。また、竈門神社は宝満山で修験修行を行う者たちが祀る神社でもあります。加茂・大神の霊系は出雲の大物主こと大国主と繋がります。地祇系の大国主と天神系の八幡大菩薩とが手を結んでいる訳です。そういえば大和君、この前に京都へ来た時、筑紫の皇子とか言っていましたね。」と何かを思い出したように教授が訊いた。
「ええ。警察から犯人ではないかと疑われている知能障害者が言うには、彼自身を殺人現場に導いたのが筑紫の皇子なのだそうですが・・・。」と太郎が答えた。
「島根県にある出雲大社の境内の本殿西側横には宗像三女神の一柱・多紀理姫命を祀る筑紫社と云う摂社があります。そして、神楽殿の裏には天満宮があります。多紀理姫命は大国主命の妻神であり、奥津島姫命とも呼ばれています。そして、加茂一族の始祖である加茂大神と呼ばれる大国主の御子・味鉅高彦根命を産んでいます。」と言って、藤原教授は少し考え込んだ。
「何か、思い当たることでもありますか?」と太郎が訊いた。
「何か、能登の秘密と似てきましたかね。宝達権現は明治以後、地祇系の大国主の妻となった奴奈河比売を祀る手速比売神社と応神天皇・神功皇后を祀る八幡神社に分かれました。大国主が住む出雲は賀茂一族の出身地でもあります。そして、能登の葬祭殿である賀茂神社。明日訪れる戸隠神社は金星の法に関係する霊ライン上にあります。そして、戸隠山の裏側には鬼無里村があります。明後日は、鬼無里村も訪問する予定です。鬼無里村には賀茂神社、春日神社、白髭神社があります。白髭神社は比良明神と同じ猿田彦を祀る神社です。685年、病になった天武天皇はこの鬼無里の地に遷都する計画を立て、下調査に公家たちを派遣したらしい。そのため、この地には京都に似せた内裏屋敷が建てられたそうだ。また、鬼女紅葉伝説が有名ですね。937年、会津に生まれた呉葉と云う美貌の女性は京都に上り紅葉と名乗る。そして、源経基の局となる。しかし、源経基の御台所に呪いを掛けたとされ、京都を追放される。そして、当時は水無瀬村と呼ばれていたこの鬼無里村に956年に来る。しかし、生まれながらに呪術などが使えた為、村人の病気を治したり善行を行ったので、村人からは慕われたようである。東京や西京などの地名はこの時のなごりらしい。」
「確か、天武天皇の時代に陰陽寮と云う役所ができたのでしたね。賀茂氏の霊系は役小角と云う呪術霊能者を輩出していますから、賀茂系の陰陽師の進言で天武天皇は鬼無里村に遷都する計画を建てた可能性がありますね。」
「鬼無里村と呼ばれるようになったのは、生まれながらの霊能呪術者であった鬼女・紅葉を平維茂が退治した以後です。それまでは、水無瀬と呼ばれていたようです。当時、天武天皇は理想郷を求めて遷都地を調査していたようです。その理想郷の情報を伝えていたのが、天文暦や神仙世界に通じていた陰陽師であったと考えられます。そして、時代が下って9世紀に遣唐使の廃止を提言した菅原道真と遣唐使の廃止によって政府から重要視されることになる陰陽師を輩出していた賀茂氏族は急接近して行ったと思われます。もともと、菅原道真の先祖は高天原から出雲に天降って大国主命の家来となった天穂日命であり、賀茂一族の先祖は、大国主命と宗像三女神の一柱・多紀理姫命との間に生まれた御子である味鉅高彦根です。菅原家と賀茂家はかなり近しい間柄である訳です。そして、そこに割って入って来た八幡大神の存在。やはり、能登の葬祭殿である賀茂神社。日本のピラミッドである宝達山権現の奴奈宜波比売命は大国主命の妻神。そして、神仏習合が行われていた江戸時代までは宝達山権現を祀っていて、明治時代以降は上田村の八幡神社を鎮る宝達家と奴奈河比売神社を鎮る嵯峨井家に分かれました。修験呪術に関係する天神系の八幡神と、地祇系の奴奈河比売神に分離された訳です。京都の嵯峨井家は下鴨神社禰宜でもあります。三つ鳥居のある京都太秦・木島坐天照御魂神社の元糺の池は下鴨神社の糺の森の由来でもある。現在の元糺の池は、かつては神社近くを流れる御室川から引きこまれた小川であり、三つ鳥居はその川の真中に建っていたようです。この御室川は北野天満宮近くから流れてくる天神川と木島坐天照御魂神社近くで合流して天神川となります。かつて、京都の賀茂川は石川と呼ばれていました。能登も石川県にあります。能登の秘密の答は上賀茂神社と下鴨神社に隠されているのかも知れないね・・・。そして、大神神社の三つ鳥居と木島坐天照御魂神社の三つ鳥居に関係があるのかどうかですね。」と藤原教授が考え深そうに言った。
「実は、殺された菅原清隆こと中牟田岩男の背中に刺青がありました。」と太郎が言った。
「ほう、刺青ですか。」
「『こちふかば おもいおこせよ うめのはな あるじなしとて はるなわすれそ』と云う歌が背中に彫られていたのですが、菅原道真の歌なら『おもいおこせよ』ではなく、『にほひおこせよ』のはずですが、何か意味でもあるのでしょうかね。教授のご意見を聞きたいのですが。」と太郎が訊いた。
「なるほど、背中の刺青は菅原道真が詠んだ短歌でしたか。平安時代の拾遺和歌集では第2句が『にほひおこせよ』で第5句は『はるをわするな』です。鎌倉時代の十訓抄では第2句は『にほひおこせよ』ですが、第5句は『はるなわすれそ』となっています。そして、江戸時代などの中世以降に出された流布本では第2句が『おもひおこせよ』で、第5句は『はるなわすれそ』となっているものがあるようです。」
「そうすると、中牟田岩男の背中に彫られた刺青の文面は中世以降に出された流布本の文面ですか。」
「そういう事ですが、『おもひおこせよ』と言葉を変えたのは何か意味があるのかも知れませんね。何を思い出せと言っているのでしょうかね。第3句を『むめのはな』と書いている中世本もあるようです。『むめ』とは梅を意味するのか、夢を意味するのか、それとも無命か無名なのでしょうかね、中世の流布本の著作者の意図が不明です。中牟田岩男の背中にある刺青の意味ですか・・・?」と教授が考えるように言った。
「教授にも判りませんか。」と太郎が言った。
「すいませんね、役に立たなくて。」と教授が謝った。
「ところで、戸隠山は天照大御神が隠れた天の岩戸を閉じていた扉が飛んで来た地と云うことですが、岩戸開きと関係するのですか?」と太郎が訊いた。
「ひふみ神事の中に、今度の三千世界の建て替え、建て直しは真の岩戸開きであると書かれています。過去に行われた岩戸開きは嘘で天照大御神を無理やり引き出したのであり、これは誤りであったと言っています。誤りは正さなければならないと云うことでしょうかね・・・。千葉県の麻賀多神社、群馬県の榛名神社、長野県の戸隠神社、能登円山の加夫刀比古神社を結ぶ霊ラインの秘密を解く鍵がこの戸隠山と鬼無里村にあるのではないかと推理しているのですが、さて、結果がどうなるかです。」と藤原教授が言った。
「それは、陰陽師の動きにも関係していると云う事ですか?」と太郎が訊いた。
「まだ、判りませんね。」
「戸隠山は判るのですが、何故に鬼無里村なのですか?」
「鬼無里村には賀茂神社、春日神社、白髭神社があります。何よりも、天武天皇の時代に陰陽師が理想郷であるとして天武天皇に進言した可能性があると云うことです。」
「なるほど、鬼が居ない鬼無里村は理想郷、桃源郷ですか・・・。」と太郎は考え込んだ。
筑紫の皇子23;
2011年8月11日(木) 午前11時ころ 長野市鬼無里の松巌寺
前日に戸隠神社奥の院などを参詣、調査した太郎と藤原教授は、戸隠神社・宝光社近くの宿坊「岩戸」を午前9時に出て、県道36号線を通って、『帆かけ舟』の紋章で知られる十二神社の舟繋ぎ樹や鬼無里神社に立ち寄った後、鬼無里村の松巌寺に着いたのは午前11時頃であった。松巌寺は江戸時代以前には鬼立山地蔵院と称していたようである。
太郎と教授は他の拝観者たちに混じって、本堂で住職が語る『鬼女・紅葉伝説』を聴いていた。
「子供に恵まれなかった両親が欲界と快楽を司る他化自在天と呼ばれる第六天魔王に祈願して会津で生まれたのが女児・呉羽です。呉羽の父親は866年の応天門の変で敗れ、伊豆に流されたた大納言の伴善男の子孫です。その後、会津に移った伴善男は軍事豪族の大伴一族のひとりです。越中の国司でもあった万葉歌人の大伴家持や家持の父親で太宰府の帥・長官であった大伴旅人も一族です。大伴家持も太宰府の少弐・次官に任じられたことがあります。また家持は聖武天皇が奈良大仏を創る時に陸奥の国から黄金が発見されたのを賀す歌を詠んでいます。伴善男以後の大伴一族が中央政権の中枢に返り咲くことはありませんでしたが、富士浅間神社社家、鶴岡八幡宮社家などの系累血筋を残しています。武家・大伴一族の血を引き継いでいる呉羽は大きくなるにつれて美人になっていきます。また、呉羽は生まれながらにして雲に乗るなどの呪術が使える霊能者でもありました。そして、平安京の都に出てきた呉羽は紅葉と名前を変えて琴の教授をしていました。そして、953年、鎮守府将軍の源経基に見染められた紅葉は腰元となり、さらには局となって経基の子供を身ごもったのです。しかし、源経基の正妻が病に伏したのは紅葉が妖術で呪っている為であると比叡山の高僧に看破され、後に鬼無里村と改名されることになる水無瀬村に紅葉は追放されます。呪術や占いの知識を生かして村人の病気を治したり、都の文化を伝えたりした紅葉は村人から尊敬されていました。あるとき、戦いに敗れた平の将門の郎党が鬼無里村に流れてきます。そして、紅葉の配下になった将門一門の落ち武者たちは悪事を働き始めます。自分が生んだ源経基の息子と共に京の都に戻ること夢見ている紅葉が、配下の者たちが奪ってくる金品を使って再上洛しようとしている、との噂が都に届きます。これを聞いた冷泉天皇は平維茂に紅葉討伐を命じます。当初、平維茂は紅葉の妖術に悩まされますが、現在の長野県上田市にある北向観音に祈願して、夢に現れた白髪の老僧から降魔の利剣を授けられます。この降魔の利剣によって紅葉の妖術は敗れ去り、969年10月25日に荒倉山で紅葉の首は刎ねられてしまいます。亨年33才でありました。しかし、紅葉の首は何処かに飛び去って姿を消してしまいました。一説には越中・富山県の呉羽山に飛び去ったとも謂われています。紅葉を慕う大伴一族の者が紅葉の首を持ち去ったのでしょうか・・・?紅葉を慕っていた水無瀬の村人たちの気持を思った平維茂は地蔵塚を建て、紅葉を供養しました。紅葉の持っていた空海作の木彫り地蔵尊を祀った塚があった場所には現在、当寺のこの観音堂が建っています。また、鬼女・紅葉が居なくなったので、地名は水無瀬から鬼無里に変りました。」
松巌寺を辞した太郎と教授は松巌寺から3Kmくらい離れた所にある加茂神社に来ていた。
「祭神は別雷命、建御名方命、天思兼命ですか。」と神社にある由諸書を見ながら太郎が言った。
「天武天皇から遷都先の調査を命じられた三野王が鬼無里村と呼ばれる前のここ水無瀬に内裏屋敷を造り住んだ時に創建した神社が三つあります。この賀茂神社と春日神社、そして白髭神社です。春日神社の祭神は天児屋根命です。白髭神社の祭神は猿田彦命です。水無瀬の土地は、元は湖の底にあったのです。先ほど見てきた十二神社の舟繋ぎ樹が湖の名残だと謂われています。たぶん、地震などの地殻変動で湖をせき止めていた山が崩れて川になったのでしょう。」と教授が言った。
「湖水が無くなったので水無瀬ですか・・・。」と太郎が言った。
「かつての地名が上水内郡鬼無里ですからね。この地は水中にあったのでしょうかね。」と教授が言った。
「古事記・日本書記や先代旧事本紀では大伴氏の先祖は天忍日命となっています。そして、古事記では、天忍日命は天孫ニニギ尊が筑紫日向の高千穂峰に降臨する時に太刀や弓矢を持って同伴した人物とされています。しかし、天忍日命は天孫族なのか、地祇なのかは不明です。一方、日本書記では、天孫ニニギ尊が芦原中国に降臨する時に地祇系の猿田彦命が道案内で同伴します。また、神武天皇東征の時、大伴氏の遠祖である日臣命が大和の宇陀の丘まで道を切り開いたので道臣の名を賜わっています。とすると、大伴氏の先祖である天忍日命は猿田彦命であるのかも知れませんね・・・?」と藤原教授が言った。
「白髭神社の祭神である猿田彦命が大伴氏の先祖とするならば、鬼女・紅葉は白髭神社と関係があることになりますね・・・?」と太郎が言った。
そして、加茂神社と春日神社を調査した教授と太郎は白髭神社に来ていた。
白髭神社の鳥居近くに宮沢のホタルを紹介する案内版が建っている。白髭神社の近くには毎年6月から7月には花しょうぶが咲き、源氏ホタルや平家ホタルが見られる宮沢と呼ばれる小さな沢が流れている。
北の方角に見える一夜山やノコギリ状の戸隠の山並を眺めながら太郎が言った。
「三野王が京の都から神様を勧請したのでしょうかね?」
「この地を調査に来た一行の中には陰陽師が居り、土地の風水を占うための卜占師や神を祀る祝師なども同行していたでしょう。特に、天武天皇の指示を受けた陰陽師は役小角の血を継ぐ賀茂一族であったと思われます。賀茂一族が加茂神社を祀り、また、春日神社を建てたところを見ると、祝師は藤原一族であったと思われますね。風水師達は道祖神である猿田彦命を白髭神社に祀ったと云うことでしょうか。彼らが村を鎮守する祠を建てたのが始まりでしょう。とくに、天武天皇にこの鬼無里地方の調査を進言したのは陰陽師であったと私は考えています。」と藤原教授が言った。
「なぜ、陰陽師はこの地を推奨したのですか?」と太郎が訊いた。
「判りません。この地が理想郷としての霊的な現象があったのかも知れません。たぶん、天の岩戸が飛んできたと謂う戸隠伝説が関係しているのかもしれません。大伴一族が関係する鬼女・紅葉はなぜこの地にたどりついたのか。そして、富山県にある呉羽山系の御皇城山の八幡山皇祖皇太神宮との関係がどうなのか?私はそこが知りたいのです。越中国司であった万葉歌人・大伴家持との関係があるのかどうか。また、菅原道真の母君は大伴一族の出身です。そして、道真公は次のような歌を詠んでいます。
『このたびは 幣もとりあえず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに』
手向山とは奈良大仏殿の近くにある手向山八幡宮のことで、大仏開眼式に豊後の宇佐八幡神を迎えて、お旅所として祀った神社です。最初に宇佐八幡神を迎えた場所は平城京・朱雀門の南東側で、後に薬園八幡宮と云う名の神社になりました。その場所から手向山に遷された後に大仏開眼式典は行われたようです。なぜ、手向山に遷されたのかは不明です。手向山八幡宮には応神天皇や神功皇后、比売大神、仲哀天皇が祀られています。道真の死後に生まれてきた鬼女・紅葉の呪術能力は天神・道真の怨霊が宿ったのでしょうかね・・・。菅原道真の太宰府天満宮と宇佐八幡の関係には何かあるのでしょうかね・・・・。」と藤原教授が呟くように言った。
「陰陽師が天文観測から何を占い、占星術から何を発見したのかですね・・・。それが、鬼無里ですか・・・?そして、天満宮天神、それに、呪術を使う陰陽師の家系である賀茂一族ですかね・・・?」と太郎が考え込んだ。
「もう一点、重要な事があります。」と藤原教授が言った。
「何ですか?」
「鬼無里は鹿島神宮、榛名山、石動山(能登鹿島)を結ぶ霊ライン上にあるのです。これが、今回の調査の一つ狙いです。何故、この霊ライン上に鬼無里があるのかです。」
「それは、見つかりましたか?」と太郎が訊いた。
「藤原一族の先祖である春日神社の祭神・天児屋根命もそうですが、もっと違う何かがここにあるのではないかと思っています。それが何かは、残念ですが、まだ見つかっていません。」と藤原教授が言った。
現地調査を終えた教授と太郎は鬼無里を後にし、JR長野駅に向かって車を走らせた。
JR長野駅前のレンタカー会社に車を返し、長野新幹線に乗る藤原教授を見送った後、太郎は神威示現斎が利用したと云うタウンパーキング駐車場に向かった。
そして、駐車場に監視カメラがあるのを確認し、駐車場運営会社の名前と電話番号をメモした時には、時刻は午後6時を過ぎていた。
※日本書記の天武天皇13年(684年)2月の条に「広瀬王・大伴連安麻呂や判官、陰陽師、工匠等を畿内に遣わして遷都先を探させた。同じ日に三野王・妥女臣筑羅などを信濃に遣わし、地形を調べさせた。その地に遷都しようとしていたのだろう。」とあるらしい。また、同年の4月の条には「三野王などが、信濃の国の地図を天皇に提出した。」とあるらしい。そして、翌年10月には「軽部朝臣・荒田尾連麻呂を信濃に派遣して行宮(神社祠や内裏か?)を建造させた。」とも書かれているらしい。また、これ以前の天武11年にも、三野王を大和郡山の新城に派遣して遷都のための地形調査をさせていたらしい。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』人文書院・2000年10月10日初版発行の102頁より引用解釈)
三野王の三野は美濃、見野と書かれる場合もあるようである。
筑紫の皇子24;
2011年8月11日(木) 午前11時ころ 福岡県警本部の刑事部長室
「警察庁の朝海刑事局長から君が推薦していた大和探偵へ調査協力依頼する件の許可が下りた。大和探偵の扱いは君に任せる。」と高円刑事部長が棚橋刑事に言った。
「ありがとうございます。大和探偵は神武東征伝説殺人事件の時には大活躍でしたからね。今回も、きっと活躍すると思います。」と棚橋刑事が言った。
「しかし、あいつに竹中直義の無実を証明されるとちょっと困るなあ・・・。今回の事件の捜査ストーリーを変更することになるからな。しかし、まあ、真実を曲げるわけには往かんからな。しかたがないが、逮捕した竹中直義は証拠不十分で明日にでも釈放する。棚橋君の手腕に期待していますよ。よろしくね。」と高円が言った。
「明日にでも、大和探偵を福岡県警本部に来てもらい、捜査状況を説明しますよろしいでしょうか?」と棚橋が訊いた。
「ああ。君に任せる。」
筑紫の皇子25;太郎の推理
2011年8月12日(金) 午後3時ころ 福岡県警本部の応接室
棚橋刑事と大和太郎が応接室のソファに座って話している。
「暴力団・聖武祇園連合会組長の岡上正一が隠れているのは関東地方、それも東京か横浜周辺でしょうかね。」と太郎が言った。
「どうしてですか?」と棚橋が訊いた。
「岡上正一からの指示命令ビデオの発送地が伊豆半島の下田市と埼玉県の東松山市、そして千葉県の東金市ですね。この3地点に囲まれている地域は東京、横浜の周辺です。自分の住んでいる場所を隠すために、宅急便の発送は遠隔地を選んだのでしょう。そして、自分は移動しているように見せかけるために、3回とも異なる場所から発送したのでしょう。しかし、無意識のうちに自分の住んでいる場所から同じくらいの時間がかかる場所を選んでしまったのではないかと考えると・・。」と太郎が答えた。
「なるほど。もっと地域を絞れませんかね?」と棚橋が訊いた。
「日本地図はありますか?」
「ええ、取ってきます。しばらく待っていて下さい。」と言って棚橋は応接室を出て行った。
棚橋が持ってきた日本地図の関東地方のページを見ながら太郎が言った。
「この3地点を結ぶ三角形の各辺から垂直二等分先を引いて、その交点には、鎌倉市がありますね。」
「鎌倉市に絞って、岡上を探しますか?」と棚橋が言った。
「まあ、確証がある訳ではありませんが、気合いを入れて捜査するには、どこかに絞り込んでみるのも良いかもしれませんね。ダメ元ですかね。」と太郎が気楽に言った。
「神奈川県警に鎌倉市近辺に岡上が居るかどうかの捜索依頼を出してみます。」と棚橋が言った。
「それから、殺された中牟田岩男の背中にあった刺青のことですが。」と太郎が考えるように言った。
「刺青が何か気になりますか?」と棚橋が訊いた。
「『おもいおこせよ』と『はるなわすれそ』です。」
「それが?」
「何を思い起こせ、と言っているのか?そして、はるなとは、春ではなく榛名ではないかと・・・。」
「その意味は?」
「判りません。何となく『榛名のことを思い出せ。榛名を忘れるな。』と言っているように私には聞こえるのですが・・・。2008年12月8日に、榛名山斎生神業と云うのをある霊能者の方が行われました。」と太郎が自信なさそうに言った。
「なるほど。榛名山斎生ですか・・・。それで、榛名ですか・・。」
「ええ。群馬県の榛名山です。榛名を忘れるな、と菅原道真が言ったのかどうかは判りませんが・・・。あるいは、道真の死後に生まれた陰陽師が何かを願って、道真の歌に事よせたのか・・・?」と太郎が自信なさそうに言った。
「私にはよく判りませんな。しかし、大和探偵の発想には定評がありますからね。」と棚橋が言った。
「ところで、聖武祇園連合会は広域指定暴力団ですか?」と太郎が訊いた。
「いいえ、違います。北九州地域の弱小組です。しかし、全国組織の暴力団の傘下に入らず、なぜか、生き残っています。」と棚橋が言った。
「収益は何で上げているのですか?」
「バーやキャバレーなどの風俗営業店の用人棒が主ですが、その程度で組の運営が出来ているのが不思議です。」と棚橋が言った。
「別の収益源があるとか・・?」
「暴力犯罪捜査課の話では、麻薬や覚せい剤に手を出している様子はないようです。岡上の手腕が優れているのかどうかですね。」
「そうですか・・・。岡上正一の手腕ですか。何と無く、その男に興味が湧いてきました。」と太郎が言った。
「ぜひ、岡上の所在を見つけましょう。」と棚橋刑事が目を見開いて言った。
「多沼圭子の消息もまだ判っていないと云うことですが、何かヒントはないですか?」と太郎が訊いた。
「ヒントですか?何だろう・・・。」
「先ほどの説明では、殺された中牟田岩男と多沼圭子には、京都での接点がある可能性が残されていましたね。」と太郎が言った。
「ええ、中牟田岩男が高校を卒業した直後の1年間に多沼圭子が京都に住んでいればと云う仮定になりますが。」
「その頃の多沼圭子の仕事は判っていない訳ですね。」
「ええ、不明です。多沼圭子が長野市内の高校を卒業して、京都市内の高村工務店に1年間だけ勤めていたのは判っていますが、その後の消息ははっきりしていません。」
「ええっ、京都市内の高村工務店ですか。」と太郎が驚いたように言った。
「高村工務店が何か?」と棚橋が訊いた。
「私の調査では、中牟田岩男は京都市内の高校を卒業して1年間、京都の高村工務店に勤めていました。同じ高村工務店なら、何かあるかもしれませんね。」
「多沼圭子と中牟田岩男の共通項が高村工務店と云うわけですか。うーん・・・。」
「二人が同じ時期に高村工務店に居た訳ではなさそうですが、何かあるのかも知れませんね。」
「高村工務店の背景を調査してみます。」と棚橋が言った。
「聖武祇園連合会と高村工務店に繋がりがあるかどうかに重点を置いて調査する必要がありますね。」
「何故ですか?」
「どうも、祇園と云う言葉が気にかかります。」と太郎が言った。
「京都の祇園と博多の祇園。そして北九州小倉の祇園太鼓ですね。」と棚橋が言った。
「ところで、消息が判っていない多沼圭子の出身地である長野市は調べたのですか?」と太郎が訊いた。
「ええ。出身地の長野市鬼無里村に行ってきましたが、多沼圭子が鬼無里にいる形跡はありませんでした。何故、何処に身を隠したのか不明です。また、岡上正一が身を隠している理由も判っていません。」
「多沼圭子は鬼無里の出身ですか。」と太郎が呟いた。
「生まれは、福島県の会津若松市ですが、赤ん坊のころに両親は離婚し、少女時代は母親の実家である鬼無里村に住んでいたようです。彼女が14歳のころに母親が死亡し、その後、高校卒業までは長野市内の養護院に入って生活していたようです。そして、高村工務店に就職して京都に出てきたようです。」
「父親はまだ会津に住んでいるのですか?」と太郎が訊いた。
「住所と名前は調べてありますが、会津には行っていませんし、父親の消息については未調査です。」と棚橋が答えた。
「父親の年齢は?」
「生きていれば、58歳です。名前は大伴善男です。多沼は母方の苗字です。」
筑紫の皇子26;
2011年8月17日(水) 午前11時ころ 神奈川県警本部の刑事部長室
「高神さん、福岡県警から捜索依頼があった岡上正一が鎌倉にいたのですか?」と河井刑事部長が訊いた。
「はい。鎌倉市内にある賃貸マンションやアパート、それにホテル、旅館をすべて探しましたが、岡上らしい人物は見つかりませんでした。しかし、鶴岡八幡宮近くで、以前から空き家であった貸家に3か月前から住み始めた男がいるとの情報で調べたところ、岡上に似た男が一人で住んでいるらしいのです。大伴一郎と名乗っていますが、岡上に間違いないと思います。現在、監視・尾行を継続的に行っています。怪しい動きはないようです。明日、福岡県警から棚橋刑事がこちらに来るとの知らせを先ほど受けたところです。」と老刑事・高神が言った。
「この前の若井友恵の墜落死亡事件ではハンス・マルクスを逃がしてしまうと云う大黒星だったから、暴力団組長の岡上正一には逃げられないように頼みますよ、高神さん。」
「おまかせ下さい。今度こそ、岡上の尻尾をつかんで、福岡の都府楼殺人事件解決に貢献してみせます。神奈川県警の実力を警察庁の刑事局長に見せてやりますよ。」と高神刑事が意気込んで言った。
「まあ、岡上正一が殺人犯と決まった訳ではないらしいから、あまり気持ちを入れ込まないようにしてください。勇み足になっては逆効果ですからね。」と河井刑事部長が、高神をなだめるように言った。
「いえ、暴力団の組長ですから、何かありますよ。必ず、その何かを見つけ出します。」と高神が語気を強めて言った。
筑紫の皇子27;
2011年8月19日(金) 午後1時ころ 福島県警会津若松署・応接室
昨日、棚橋刑事と大和太郎は神奈川県警の案内で鎌倉に居る岡上正一と思われる人物を確認し、その後、東京で宿泊した。
そして、今日は秋田新幹線で郡山に出て、郡山駅前からレンタカーを借り、会津若松署まで来ていた。多沼圭子の父親である大伴善男の件を調べるためであった。警察署の応接室で3人が話している。
「福岡県警から調査依頼のあった大伴善男の件ですね。」と仁科刑事が確認して言った。
「そうです。殺されたと云う事でしたが。」と棚橋刑事が言った。
「半年くらい前の2月25日の事でした。会津美里町宮林にある伊佐須美神社近くを流れている宮川の河原で死体が発見されました。遺体が所持していた免許証から会津若松市に住んでいる大伴善男さんと認定されました。死亡推定時刻は前日の午後10時ころです。」
「その認定されたと云う件ですが、大伴善男と断定された訳ではないのですか?」
「はい。顔面が壊されており、彼を診察したことのある歯科医師なども見つからなかったので、所持品、衣服の特徴から大伴善男と警察では認定しました。凶器は河原にあった石ですが、死亡後に何度も石で殴られたと推定されました。死因は後頭部の脳挫傷です。左肩に紅葉のような刺青がありましたが、大伴善男が刺青をしていたかどうかは不明です。」
「紅葉のような刺青ですか。それで、大伴善男の知人などには死体の鑑定をさせなかったのですか?」
「彼は賃貸マンションで一人住まいでしたし、近所付き合いもなく、職業も不明でした。収入源が何であったのかも不明のままです。目撃者もおらず、手掛りらしい事は何も発見されないままです。若いころは一度結婚していた模様ですが、離婚後は住所地を数回変えており、彼を記憶している人物が見つかっていません。偶に女性が訪ねて来ていた、との近所の方の目撃証言もありましたが、目撃者の記憶が定かでなく、年齢、身長など詳しいことは全く判っていません。現在では、捜査本部も縮小され、私と相棒の東部長刑事の二人だけが専属の捜査員です。このままでは迷宮入りは必至です。東部長刑事と私は会津若松署・美里分庁舎の刑事です。2005年までは会津高田署と云っていましたが、町村合併後、会津高田町は美里町と改名されました。その時、会津高田署も会津若松署・美里分庁舎になりました。今日は福岡から棚橋刑事が来られるということでこの会津若松署に出て参りました。東は所用で別の所へ行っていますのでここには来られませんでした。」と仁科刑事が言った。
「ああ、あの時の刑事さんでしたか。」と棚橋に同行していた大和太郎が言った。
「はあ?」と仁科が怪訝な顔をした。
「十年くらい前の青木智子さんが伊佐須美神社近くで殺された時に、会津高田署でお世話になった、埼玉県の私立探偵の大和太郎です。」
「ああ、思い出しました。あの時の探偵さんでしたか、あなたは。」
「東さんもお元気ですか?」
「ええ。年を取りましたが、二人で元気にやってます。」
「ところで、証拠品などは見せていただけるのでしょうか?」と棚橋が訊いた。
「ええ。これから鑑識課へご案内いたします。そこに、証拠品、遺品、遺体写真、大伴善男が住んでいた部屋の写真などを並べてあります。大伴善男が住んでいたマンションの部屋は今年いっぱいまでは現状保存されますが、来年からは大家が賃貸の募集を始めます。部屋をご覧になるのでしたら案内いたします。あまり生活感のない部屋で物品も少ないですがね。近隣住人の話では、不在の事が多かったとのことです。」と仁科刑事が言った。
「マンションの部屋に残されていた指紋と河原の死体の指紋は一致したのですか?」と棚橋が訊いた。
「ええ、一致しています。しかし、マンションの部屋にはもう一つ指紋が残されていました。それもトイレだけに。それに、リビングの家具などには指紋が拭いて消されたような痕もありました。採取された指紋の数が少なかったのが、ちょっと疑問に残りますが・・・。」
「指紋を消した痕があったのですか・・・。」と太郎が言った。
「ええ。単に掃除の時に布で拭いただけなのかもしれませんが・・・。」
「遺体の左肩にある紅葉の刺青の下にも小さな文字が彫られていますが、何と書かれていましたか?この写真では読み切れないのですが。」と、遺体写真を見ていた太郎が訊いた。
「ああ、それですか。『アポロンの御子』と彫られていました。」と仁科刑事が言った。
筑紫の皇子28;
2011年8月22日(月) 午前10時ころ 福岡県警本部・都府楼殺人事件捜査会議
「鎌倉にいる岡上正一は北九州暴力犯罪捜査課と神奈川県警が監視している。動きがあった時には、捜査本部に連絡を入れてくれることになっている。ところで、岡上正一が関東地区で接触をしている人物とかは居ないのか?」と高円刑事部長が棚橋刑事に訊いた。
「神奈川県警の話では、現在の所、単独行動のようです。また、自宅には固定電話は持っていないようです。携帯電話の番号が判明していないので盗聴は出来ていないようです。」と棚橋が言った。
「岡上は監視には気づいていないのか?」と高円が訊いた。
「今のところ、気づかれてはいません。用心深く行動しているようで、出かける時は尾行者の有無には細心の注意払いながら行動を取っているようです。神奈川県警いわく、明らかに、誰かから隠れていると思われるそうです。」と棚橋が言った。
「誰から隠れているのかだな。個人か、組織か?」と高円が呟いた。
「朝夕には、鶴岡八幡宮にお参りに行くことが日課のようです。」と棚橋が神奈川県警から聞いた事を伝えた。
「岡上はやくざだからな。小倉にある聖武祇園連合会の組事務所にも宇佐八幡宮の神棚を祀っているそうだ。」と結城刑事が言った。
「会津若松での殺人事件の件ですが、多沼圭子の父親・大伴善男が殺されたとは断定されていないようです。大伴善男の住んでいた賃貸マンションに残されていた指紋は2種類あり、指紋を拭き取ったと思われる形跡もありました。トイレに残されていた指紋は宮川と呼ばれる河原で殺されていた男の指紋ではありませんでした。指紋を拭き取った人物がトイレに残されている指紋の人物であり、その人物は大伴善男ではないかと大和探偵は推理していました。」と棚橋が言った。
「それでは、殺されていた男は誰なのだ?」と結城刑事が訊いた。
「それが判りません。」
「大伴善男は何処に姿を消したのだ?多沼圭子は何処に居るのだ?」
「その二人の所在場所を知る方法はないのか?幸運を期待するしかないのか?竹中直義が都府楼殺人事件の犯人でないとしたら、誰が真犯人なのだ?」と高円が言った。
「大和探偵が言っていましたが、この事件は関係者の霊系と家系を調べる必要があるのかもしれない、と云うことらしいです。」と棚橋が言った。
「霊系と家系?何だ、それは・・・?」と結城が言った。
「筑紫の皇子を見たという竹中直義の家系と霊系、都府楼で殺された菅原清隆こと中牟田岩男の家系と霊系、そして、菅原道真の家系と霊系、多沼圭子の家系と霊系がどうなっているかを大和探偵は調べているようです。」と棚橋が言った。
「家系と霊系ね・・・。」と首を傾げながら高円刑事部長が呟いた。
「岡上正一の家系と霊系も調べる必要があるのか?面倒な事だな・・・。」と会議に出席している誰かが言った。
「棚橋刑事、京都の高村工務店に関する調査はどうだった?」と高円が訊いた。
「京都府警の協力を得て調査いたしました。高村工務店は戦後に宮大工たちが集まって創った建築会社です。10年前に大伴太郎と云う人物が経営権を買い取り、現在は会長になっています。何故に会社の名称を変更しないのかは不明です。実際の会社運営は社長の高村源治が行ってます。高村源治は宮大工としての腕前は確かなようです。大伴太郎は会社経営を考えて、金銭の管理・調達をしているようです。したがって、お金は大伴太郎が握っている訳です。株式の上場はしていませんが、株式会社として公証人役場に書類提出されています。経営は良くもなく悪くもなくと云った状況のようです。」と棚橋が言った。
「ここでも、大伴の名前が出てくるのか。多沼圭子の父親である会津の大伴善男。鎌倉に隠れた岡上正一が名乗っている名前が大伴一郎。そして、多沼圭子と中牟田岩男の就職先の会社経営者が大伴太郎。ふーん、何かあるかな・・・。」と高円が言った。
「確か、竹中直義の家系は宮大工です。現在は大工をしていませんが、何代か前は京都で宮大工をしていたと大和探偵から聞いています。」と棚橋刑事が言った。
「竹中の家系は宮大工だったのか。そうすると、竹中直義も高村工務店に繋がるのか?竹中直義の父親である竹中松造の事件前後のアリバイや素性を調べる必要があるな。それに、高村工務店会長の大伴太郎の素性も調べる必要があるな。」と高円が言った。
「竹中松造のアリバイは以前調べましたが、事件当時は勤務している会社の仕事で北海道に出張中で、会社の同僚に確認してあります。」と結城刑事が言った。
「密かに九州に戻っていた可能性はないのか?」
「はい。事件発生時は北海道のすすき野で早朝まで同僚と飲み明かしていたようです。宿泊しているホテルに戻ったのが午前3時ですので、太宰府に戻って殺人を行うことは不可能です。高村工務店の会長であり、実質の経営者である大伴太郎については引き続き詳細を調査します。」と結城刑事が言った。
「そうか・・・。しかし、竹中家の宮大工が引っ掛かるなあ・・・。ところで、大和探偵は現在、何処に居るのだ?」と高円が訊いた。
「はい、鎌倉で岡上正一の行動監視をしています。ああ、それから東京に住んでいる香椎忠雄と云う人物を調べるようです。」
「香椎忠雄?それは誰だ?」
「中牟田岩男の母方の親戚です。」
「家系の調査か?」
「そのようです。」
筑紫の皇子29;
2011年8月22日(月) 午前11時ころ 鎌倉市の鶴岡八幡宮境内
大伴一郎を名乗っている岡上正一が鶴岡八幡宮の本殿に向かって祈りを捧げている。
そして、参拝客にまぎれながら岡上正一を見張っている大和太郎と高神刑事の姿が見える。
「やくざは昔から組事務所に神棚を祀って、ご利益を願いやがる。仕様がない奴等だな。」と高神刑事が言った。
「岡上は何を祈っているのでしょうかね。口が小さく動いていますね。」と太郎が言った。
「きっと、金儲けのお願い事でも言っているのでしょう。」と吐き捨てるように高神が言った。
「うん?右隣りで拝んでいる男も口を動かしているように見えますが・・・。」
「岡上の口が動いている時には、隣の男の口は閉じていますね。あの二人、何かを話しているな。」
「確かに、その様にもみえますね。」
「隣の男が何かを手渡したぞ。」と高神が言った。
「何ですかね。手に握って隠れるくらいに小さなものですね。」
「小銭か?」
「小銭じゃなくて、何かのキーでは?」
「キー?」
「車のキー?それとも、何処かの部屋の鍵?あるいは、コインロッカー?」
※鶴岡八幡宮;
吾妻鑑によると「後冷泉院の時代(1046〜1068年)に安倍貞任征伐に奥州へ向かう途中に、源頼義が京都・男山にある石清水八幡宮を由比浜に勧請したのが鶴岡若宮社(由比の宮・若宮八幡宮)である。その後、傷んでいた社殿を源義家が修理し、1184年に源頼朝が現在の地に鶴岡八幡宮を移した。社殿は1191年に火災で焼失したが、源頼朝が再建したのが現在の社殿である。」なお、現在の祭神は、応神天皇、神功皇后、比売大神である。神社の社家は大伴氏である。神仏分離を発令した明治時代までは鶴岡八幡宮寺と称したお寺であった。
一分足らずのお祈りを終えた岡上が本殿に背を向けて帰りはじめた。しばらくして、岡上の隣で拝んでいた男も振り向いて歩き始めた。
岡上は、神奈川県警のもう一人の刑事が尾行したが、神社近くの貸家に戻っただけであった。
もう一人の男は、太郎と高神が尾行したが、宿泊中の横浜市内のホテルへ戻っただけであった。
翌日、神奈川県警の刑事がその男を尾行したが、地下鉄へ向かう地下道で尾行に気づいた男に撒かれてしまった。
ホテルの宿泊名簿には偽名と偽住所が書かれていただけであった。
筑紫の皇子30;
2011年8月22日(月) 午後3時ころ 長野市内の駐車場運営会社
毎朝新聞社の事件記者・鮫島姫子は神威示現斎を探すため、大和太郎から教えてもらった長野市内にある駐車場運営会社を訪問していた。
「この写真の人物が8月1日の午後3時ころ、JR長野駅前にある貴社のタウンパーキング駐車場から車を出していたと思われるのですが、監視カメラの映像を見せていただけませんか?」と姫子が駐車場警備課の監視カメラ担当者に言った。
「何か、事件でも?」と担当者が訊いた。
「ええ、某殺人事件の重要な関係者である可能性があります。」と姫子は都合の良い嘘で、担当者に興味を持たせるように言った。
「この写真の修験者の方が殺人犯ですか?」
「いえ、まだそこまでは判っていません。私としては、スクープを狙っていまして、この男性の素姓を追いかけているところです。」
「そうですか。それでは、監視映像室に行きましょう。ご案内します。」
映像室のパソコン画面で監視カメラ映像に映っている神威示現斎の乗っている自家用車のナンバーを姫子は確認した。
その後、姫子は長野運輸支局で神威示現斎の住所と名前を聞き出した。
「長野市鬼無里日影4○○○の大伴一郎か。交通の便のこともあるし、今からじゃ、ちょっと遠いな。今日は、このまま東京に帰り、調査は後日にするかな。」と姫子は思った。
筑紫の皇子31;
2011年8月23日(火) 午後3時ころ 東京都目黒区の香椎忠雄邸の応接間
香椎忠雄は61歳で東京都内にあるミューズ音楽大学の教授であった。とりわけ、コンピュータを利用するシンセサイザー楽器を使ったデジタル音楽授業を担当していた。
大和太郎は面識のある警察庁・刑事局長補佐の半田警視長に同行を依頼し、香椎邸を訪問していた。本日は大学での担当授業がないため、香椎氏は自宅に居た。
「中牟田岩男さんですか?全く知りませんね。」と香椎教授が言った。
「あなたのお姉さんの娘さんの子供に当たる人物ですが・・・。」
「姉は九州の日出町に嫁ぎましたので、年賀状をやりとりする程度でした。私のおばさんの娘さんは交通事故で亡くなったとは聞いていますが、その子供さんが中牟田岩男さんですか。その方が殺された訳ですか、福岡で。なるほど。」と考え深げに香椎教授が言った。
「香椎家と云うのは、九州が本籍地のようですが。」
「ええ、そうです。私は大学が東京で、大学卒業後は一度、就職しましたが、ある機会に大学講師に転身しました。そして、現在は教授職を務めています。両親も数年前に他界しましたので、現在は九州に行くこともあまりありません。」
「失礼ですが、香椎家と云うのは、福岡にある香椎宮と関係がある家系なのでしょうか?」
「さあ、それはどうか、知りませんね。霊的な事や歴史にはあまり興味がない方ですから、家系を調べたことはありません。兄は先年亡くなりましたが、その息子さんが家を継いでいますので、そちらに行けば何か判るかもしれませんが。」
「その息子さんの住所をお教えいただけますか?」と太郎が訊いた。
「ちょっとお待ちください。私の実家の住所ですが、最近は地名が変わったりしていますので住所録を再確認してきます。」と云って香椎忠雄は応接間を出て行った。
しばらくして、香椎忠雄が応接間に戻ってきて、住所と名前を書いたメモを太郎に渡した。
「福岡県筑紫野市原田二丁目○○の香椎猛さんですか。」と太郎がメモを読み上げた。
「原田は『はるだ』と読みます。」と香椎忠雄が言い直した。
「それでは、これで失礼いたします。」と半田が言った。
あまり有意義な情報が得られなかったなと思いながら、太郎と半田は応接間を出て玄関に向かった。
「ところで、パパラッチや週刊誌記者が数人、御自宅の周りをうろついていましたが、何かあるのですか?」と太郎が訊いた。
「ああ、それですか。今年の2月に娘が子供を産みました。その娘は俳優業をしておりまして、現在は産後休暇と云うことで仕事をしておりませんが、そろそろ俳優業に復帰すると噂されており、この実家に子供を預けに来るのではないかと、メディア関係者が待ち構えているのです。娘の自宅マンションは品川にあるのですが、そちらも騒々しいようです。まあ、子供をどうするのかは、私たち夫婦には判りませんがね。まあ、メディアの方も御苦労なことです。」と香椎忠雄が言った。
「娘さんのお名前は?」
「芸名は沖永優です。本名は香椎優子ですがね。」
「ああ、あの美人の方ですか。よく、TVコマーシャルに出ておられますね。確か、ご主人は映画監督でしたね。」と太郎が言った。
「そうです。映画『我が道』を撮った津山譲です。」と香椎忠雄が言った。
※香椎宮;
養老7年(723年)に神託により博多湾沿岸に神社として創建されたと思われる。海岸部は埋め立てられ、現在は内陸部にある。神功皇后の夫である仲哀天皇が死亡した地に建立された。したがって、香椎廟宮と呼ばれる。建立された場所は九州征伐の時に『橿日宮』として、その本営(拠点)とされたところである。香椎地区には三角縁神獣鏡が出土した天神森古墳がある。
祭神は神功皇后、仲哀天皇であり、相殿には神功皇后の御子である応神天皇、住吉大神が祀られている。
かつて、神職は伴、武内(大膳)、大中臣、清原の4氏の持ち回りで行われた。
筑紫の皇子32;
2011年8月24日(水) 午後1時ころ 長野市鬼無里日影4○○○周辺
大和太郎の運転するレンタカーに同乗している鮫島姫子が言った。
「ふるさと資料館の方から聞いたこの住所の場所はこの辺なんだけれど。」と助手席に座っている姫子が地図を見ながら言った。
田園風景が広がる山麓の道を白いサニーがゆっくりと走っている。遠くには一夜山と戸隠山の山波が青空の下に続いている。白い綿雲もぽっかりと浮かんでいる。
「あそこに見えている鳥居の場所が白髭神社だから、その地図よると、この辺だね。あそこに見える白い壁の家で訊いてみるか。」と太郎が言った。
車を道端に停めて、白壁の古民家に向かって二人は歩いて行った。
ちょうど、その家から30歳から40歳くらいと思われる女性が出てきた。
「すいませんが、この辺りに大伴一郎さんのお宅はありませんでしょうか?」と姫子が言った。
「大伴一郎さん?」と女性が訊き返した。
「はい。日影4○○○の住所地に住んでいる方なのですが?」
「確かに、その住所はここですが、大伴と云う方は聞いたことがありませんね。」と女性が言った。
「失礼ですが、あなたはこの家の方ですか?」と姫子が訊いた。
「はい、そうですが。」
「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」と太郎が言った。
「はい。岳内と申しますが。ご近所で訊いていただいてもけっこうですが。」と女性が言った。
「漢字で書くと?」と姫子が訊いた。
「山岳の岳と云う字に内外の内ですが。ほら、表札がかかっているでしょ。」と女性が言った。
屋敷の正門には岳内と苗字が書かれた表札が掛っている。
「そうですか。失礼いたしました。住所を間違ったみたいです。」
「よろしいですか?」と女性が訊いた。
「ええ。私たちの聞き間違いでこちらに来てしまったのでしょう。鮫島さん、行きましょう。」と太郎は姫子の腕を強引に引張った。
止めてある車の中に乗り込んでから太郎は姫子に言った。
「今の女性は多沼圭子と云う人物に似ていました。」
「多沼圭子って?」
「それは、ちょっと守秘義務があって言えませんが、大伴一郎と云うのは違うかもしれないですね。」と言いながら太郎は車のエンジンを掛けて、白髭神社の方へ車を走らせた。
「大伴一郎じゃあないかもしれない?あの女性、私も見覚えがある。それに、岳内と云う苗字。思い出したわ。」と姫子が言った。
「あの岳内林太郎?」と太郎が思い出したように言った。
「そう。4、5年前の神武東征伝説殺人事件の犯人であった岳内林太郎。それに、あの女。」
「あの女性が何か気になりますか?」
「確か、岳内林太郎が経営していたペンション『さんが』の従業員とそっくりの顔をしているわ。最初見た時、どこかで見たような気がしたけれど、間違いないわ、あの女。あの時、岳内林太郎と仲が良さそうだったので不思議に思ったけれど、その時の名前を調べておけば良かった。ちくしょう。それに、私の記憶が正しければ、確か戸籍謄本によると林太郎の父親の名前は岳内太郎だったわ。」と姫子が思わず口走って自分の頭を掻いた。
「ねえ。大和さん。多沼圭子って、本名なの?」と姫子が訊いた。
「ええ。本名だと思いますよ。ああ、これ以上、訊かないで下さい、鮫島さん。守秘義務違反になりますので。」
「判ったわ。でも、これからどうするの。神威示現斎こと大伴一郎をどうするの?」
「鮫島さんの話が間違っていないなら、大伴一郎と岳内太郎が同一人物である可能性があります。岳内太郎に逃去られない為には、彼に会わない方がいいでしょう。」
「でも、私の方は亀戸天神でのあの現象のことを聞きたいのですがね・・・。」と憮然とした表情で姫子が言った。
「それは、ちょっと諦めてもらえませんか?大伴一郎が岳内太郎として、岳内太郎と多沼圭子が逃げると、ちょっと困りますので。」
「何が困るのですか?私の方だって、これから書く連載中の随想記事に深みが出なくなって困るのですがね・・・。神威示現斎が亀戸天神の拝殿前で唱えたあの呪文と雨が降り出した現象に関係があるのかどうか。大いに興味があるわ。」と姫子が言った。
しばらく走った後、白髭神社の前に車を停めて、二人は神社参拝に向かった。
その時、鳥居をくぐって石の階段を降りてくる男性が目に入った。
「あれは、神威示現斎。」と二人はお互いの心の中で思った。
姫子と太郎は顔を見合わせた後、知らない素振りでその男性に向かって軽い会釈をしながら、無言ですれ違った。
そして、神社に参拝した後、姫子が太郎に言った。
「岳内太郎と大伴一郎。どちらが本名でしょうね?」
「どちらも偽名と云うことも考えられます。」と太郎が言った。
長野市鬼無里日影4○○○の神威示現斎邸
自宅に戻った神威示現斎と多沼圭子が邸内で話している。
「今しがた、妙な男女が大伴一郎を探していましたが・・・。」
「ああ、判っている。白いサニーに乗っていた男女だろう。」
「ええ、そうです。」
「あれは、私立探偵の大和太郎と新聞記者の鮫島姫子だ。4年前、林太郎が警察に逮捕された事件があっただろう。」
「ええ。K国の陰謀を阻止した事件ですね。」
「そうか。あの時、お前も岳内林太郎の傍に居たのだったな。」
「ええ。岳内林太郎さんは私の正体には気づいていなかったようですが。」
「大和太郎と鮫島姫子は林太郎を逮捕するきっかけを作った二人だ。想定していたより早く、私に辿り着いたな。あの二人、なかなか、出来るな。さて、これから如何するかだが・・・。」と神威示現斎が考えるように言った。
筑紫の皇子〜菅原道真・天神伝説殺人事件〜
《前編 完:後編につづく》
目賀見 勝利
:参考文献:
増補改訂 秀真伝 吾郷清彦 昭和57年 新国民社刊
完訳秀真伝 上巻 鳥居礼 昭和63年 八幡書店刊
増補 三鏡 出口王仁三郎聖言集 2010年 八幡書店刊
謎の神代文字 佐治芳彦 1979年 徳間書店刊
エジプト古代文明の旅 仁田三夫ほか 1996年 講談社刊
鬼・雷神・陰陽師 福井栄一 2004年 PHP研究所刊
日本の神々(全13巻) 谷川健一編 1985年 白水社刊
陰陽五行 稲田義行 2003年 日本実業出版社刊
陰陽五行思想から見た日本の祭 吉野裕子 2000年 人文書院刊
神々の指紋 グラハム・ハンコック著 大地舜訳 1999年 小学館刊