8
ガチャリ。
重厚なマホガニー製の扉の鍵が外れ、廊下の明かりと共に三人の男が執務室へと足を踏み入れた。
先頭を歩くのは、高級な濃紺のウール地の上着に身を包み、ツンと鼻をつく香水を漂わせる初老の男。
公爵家の筆頭執事であり、ルナを無実の罪で陥れた張本人、バートンである。
その後ろには、武装した二人の護衛兵が控えていた。
「まったく。夜中に帳簿の確認など、面倒なことだ。あの小娘を追い出したからといって、安心はできん……」
バートンが独り言を呟きながら、部屋の魔力照明のスイッチを入れた、その瞬間。
「ええ、その通りです。安心するのはまだ早いですよ、横領犯のバートンさん」
「……なっ!?」
眩い光に照らし出された執務室の光景に、バートンは目を剥いて硬直した。
部屋の奥。
彼自身の神聖な執務机の椅子には、見知らぬ黒コートの男が深く腰掛け、あろうことか両足を机の上に投げ出していた。
その横には、腕を組んで冷ややかな視線を見下ろす元・公爵令嬢のセシリア。
さらに反対側には、死んだはずの猫耳のメイド、ルナが鋭い牙を剥き出しにして立ち塞がっている。
「せ、セシリア様……!? なぜ、勘当されたはずのあなたがここに! それにその獣人の小娘、生きていたのか!」
バートンの驚愕の声に、背後の護衛兵たちも慌てて剣の柄に手をかけた。
「静かにしなさい、バートン。夜分遅くに騒ぐのは、公爵家の使用人として恥ずべき行為ですわよ」
セシリアが、かつて屋敷を支配していた悪役令嬢としての絶対的な威厳を放ちながら一歩前に出た。
その堂々たる態度に、護衛兵たちは思わず気圧されて後ずさる。
「ふ、ふざけるな! 勘当された分際で、泥棒猫を連れて不法侵入とは! 兵士たちよ、その曲者どもを捕らえろ! 防犯結界の警報を鳴らせ!」
バートンが顔を真っ赤にして喚き散らす。
だが、机に足を乗せていたレオンは、気怠げな動作で懐から警察手帳を取り出し、ペラリと開いて見せた。
「王都警視庁強行犯係、ならびに特命資料室のレオンです。公爵家内部において、筆頭執事による大規模な横領事件が発生しているとの確かな情報提供を受け、極秘の家宅捜索に入らせていただきました」
「か、家宅捜索だと……!? 捜査令状もない平民の警察官が、貴族の屋敷に押し入るなど許されると思っているのか!」
「令状なら、事後報告でいくらでもでっち上げられますよ。決定的な証拠さえ押さえてしまえばね」
レオンは机から足を下ろし、バートンの目の前にドンッと分厚い赤い帳簿を叩きつけた。
「なっ……! き、貴様、その帳簿に触れるな!」
バートンの顔色が一瞬にして青ざめる。
その過剰な反応こそが、自らの罪を雄弁に物語っていた。
「触れるなと言われても、もう遅いですね。バートンさん、あなたは横領の罪を隠すため、この帳簿の半年前のページを新しい紙に書き直し、古いものと差し替えて偽造しましたね?」
「で、でたらめを言うな! それは正式な公爵家の出納帳簿だ!」
「でたらめかどうかは、科学が証明してくれます」
レオンは先ほど使ったインクの酸化度を測るスプレーを再び吹きかけ、特殊な波長のランタンの光を帳簿に当てた。
周囲の古いページの文字が黒く沈む中、バートンが偽造した『半年前の税収』の項目だけが、不自然な赤紫色にぼんやりと光り浮かび上がる。
「公文書に使われる鉄分を含むインクは、時間が経つほど酸化して黒く定着します。しかし、このページのインクは全く酸化していない。書かれてから数日しか経っていないという、化学的な証拠です」
「……っ!」
「さらに、筆跡鑑定の結果も出ています。元の経理担当者の文字を真似て描いたせいで、あなたの文字には不自然な筆圧の偏りと、カーブの途中で何度もペンが止まる『躊躇い傷』が残っている」
レオンの冷徹な声が、執務室に響き渡る。
「つまり、あなたは税収の三割を自分の懐に入れ、その残高のズレを帳尻合わせするため、帳簿を改ざんした。そして、消えた金庫の財産は『ルナが盗んだ』ことにして、彼女の部屋に盗品を仕込んだ」
「ち、違う! 私はやっていない! その獣人が盗んだんだ! 実際に奴のベッドの下から盗品が出たではないか!」
バートンは滝のような冷や汗を流しながら、必死にルナを指差した。
その無様な姿に、セシリアは心底軽蔑したような冷たい溜息をついた。
「見苦しいですわね。あなたのその安っぽい嘘も、すでに私たちの『助手』が完璧に論破していますわ」
レオンはポケットから証拠品袋を取り出し、バートンの目の前で揺らしてみせた。
「ルナの部屋のベッドの下から採取した、二つの物理的証拠です。一つは、犯人が落とした高級な靴墨の微細な粉末。そしてもう一つは、ベッドの木枠に引っかかっていた濃紺のウール繊維」
レオンの目が、獲物を追い詰める猛禽類のように鋭く細められた。
「バートンさん。あなたは今、濃紺のウール地の上着を着て、高級な靴墨で磨かれた革靴を履いている。ルナの部屋に残された微細な痕跡と、あなたの現在の服装の成分が、完全に一致するんですよ」
「あ……あ……っ」
「これで言い逃れは不可能ですね。業務上横領、公文書偽造、虚偽告訴、および不当な暴力による傷害罪。役満ですよ、悪党さん」
突きつけられた圧倒的なファクトの連続コンボに、バートンは膝から崩れ落ちた。
彼の傲慢な顔は絶望に染まり、わなわなと震える唇からは反論の言葉一つ出てこない。
「おい、お前たち! 何をしている、こいつらを斬り捨てろ! 侵入者として処分すれば、証拠など隠滅できる!」
追い詰められたバートンが、狂乱したように護衛兵たちに命令を下す。
兵士たちが躊躇いながらも剣を抜こうとした、その時だった。
「お嬢様の前で、剣を抜くとはいい度胸だニャ」
ルナが銀色の閃光となって床を蹴った。
彼女は獣人の驚異的な瞬発力で二人の兵士の懐に潜り込むと、それぞれの鳩尾と顎に的確な打撃を叩き込んだ。
「グハッ!」「ガハッ……!」
くぐもった悲鳴と共に、大柄な兵士二人があっさりと床に沈む。
魔法も使わず、ただの体術だけで重装備の兵士を無力化したルナは、尻尾をパタンと揺らしてバートンを見下ろした。
「私をゴミ捨て場に放り捨てたこと、少しは後悔したかニャ? 悪党の分際で、お嬢様の清らかな名前に泥を塗ろうとした罪は重いニャ」
ルナの鋭い爪が、バートンの鼻先に突きつけられる。
バートンは恐怖で失禁しそうになりながら、ガチガチと歯を鳴らして後退った。
「ルナ、もういいですわ。その汚らわしい男に、これ以上あなたの綺麗な手を触れさせる必要はありません」
セシリアが静かに歩み寄り、冷徹な目で見下ろす。
「バートン。あなたが公爵家の財産をかすめ取っていたことは、私が当主になればいずれ発覚することでした。だからこそ、私を疎ましく思い、私が家を出た途端に、私の大切なメイドに罪を擦り付けたのでしょう」
「ひっ……お、お許しを、セシリア様……!」
「許しませんわ。私の大切な家族を傷つけた代償は、王都の地下牢で一生かけて払いなさい」
セシリアの氷のような宣告に、バートンは完全に気を失い、床に突っ伏した。
「はい、制圧完了。お疲れ様でした」
レオンは懐から魔力封じの手錠を取り出すと、気絶したバートンの両手にガチャンと手際よくはめた。
「これであなたの無実は完全に証明されましたよ、ルナ。明日の朝、本庁の連中にこの男と証拠を引き渡して、事件はクローズです」
「……レオン、お嬢様……」
ルナの琥珀色の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
彼女は痛む体も気にせず、セシリアの胸に飛び込んで声を上げて泣きじゃくった。
「ありがとう……ありがとうニャ……! 私、本当に怖かったニャ……!」
「もう大丈夫よ、ルナ。あなたは何も悪くない。私がずっと、あなたを守るから」
セシリアは優しくルナの銀色の髪を撫でながら、レオンのほうへと視線を向けた。
その瞳には、深い感謝と、少しの熱情が込められている。
「レオン。あなたには、なんとお礼を言えばいいか……。私の大切なものを守ってくれて、本当にありがとうございます」
セシリアが深く頭を下げる。
しかし、レオンはいつも通りの気怠げな表情で、乱れたコートの埃を払っただけだった。
「お礼なら結構ですよ。俺はただ、事実を並べてゴミを掃除しただけです」
レオンは背を向け、扉のほうへと歩き出しながら、ぶっきらぼうに言葉を続けた。
「それに、君たちがいないと、俺の特命資料室での生活が成り立ちませんからね。君の淹れる極甘の紅茶と、ルナの生体センサーとしての索敵能力。その二つを失うことは、俺の業務効率における致命的な損失です」
「……っ」
「だから、これは俺自身の平穏な生活を守るための、極めて利己的な捜査です。勘違いしないでくださいよ」
理屈を並べ立てて照れ隠しをする、この絶望的に不器用な男の言葉に、セシリアは呆れたように息を吐き、そしてふっと柔らかく微笑んだ。
「ええ、わかっていますわ。あなたはそういう、計算高くてデリカシーのない不良債権ですものね」
セシリアの言葉に、ルナも涙を拭って鼻を鳴らした。
「全くだニャ。でも、少しは見直してやったニャ。明日からは、この男の部屋の掃除くらいは手伝ってやるニャ」
「それは助かります。俺の生態系を崩さない程度にお願いしますよ」
かくして、王都を揺るがすはずだった公爵家の陰謀は、一介のモブ捜査官の手によって、誰にも知られることなく人知れず解決したのだった。
それから数時間後。
夜が明け始めた王都の地下にある特命資料室には、再び平和な日常が戻ってきていた。
「レオン、いい加減に起きなさい! 徹夜明けだからといって、いつまでも寝ていると朝食のパンケーキが冷めますわよ!」
セシリアがエプロン姿でフライパンを片手に怒鳴る。
「……んん、あと五分。俺の脳細胞が、まだ休息を要求している……」
万年床で毛布にくるまるレオンが、うわ言のように呟く。
「起きないなら、強硬手段に出るニャ!」
すっかり元気を取り戻したルナが、ベッドの上にダイブしてレオンの腹部に強烈な膝蹴りを落とす。
「ぐふっ!? ……お前たち、上司に対する敬意という概念をどこに忘れてきたんですか……」
「言い訳は無能の証明ですわ! さあ、顔を洗ってきなさい!」
騒がしくも温かい、奇妙な三人組の朝。
公爵家を追われた悪役令嬢と、行き場を失った獣人のメイド。
彼女たちにとって、この埃っぽくて甘ったるい匂いのする地下室は、今やかけがえのない大切な『居場所』となっていた。
そしてレオンにとっても、計算式や論理では決して弾き出せない、心地よいノイズが日常に溶け込み始めていた。
魔法が支配する乙女ゲームの世界で、科学とファクトを武器に戦うモブ捜査官。
彼の次なる事件は、すぐそこまで迫っていた。




