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 公爵家の広大な敷地内を、三つの影が音もなく進んでいく。


 月明かりすら届かない使用人棟の地下から、屋敷の中枢である執務エリアへと続く入り組んだ廊下。

 そこは夜間でも数名の警備兵が定期的に巡回している、まさに敵陣のど真ん中だった。


「ストップニャ。……右の角から二人、鎧が擦れる音が近づいてくる」


 先頭を歩いていたルナが、ぴたりと足を止めて耳をそばだてた。

 その警告に合わせ、レオンとセシリアはすぐさま壁のくぼみに身を潜め、息を殺す。


 数秒後、ルナの言葉通りに二人の警備兵が角を曲がって現れ、彼らのすぐ横を通り過ぎていった。

 足音やランタンの光ではなく、鎧の微かな擦れ音や匂いだけで敵の位置を完璧に把握する生体センサー。

 その精度の高さに、レオンは内心で舌を巻いていた。


「……行きましたわ。この階段を上った先が、筆頭執事バートンの執務室です」


 セシリアの囁き声に従い、三人は音を立てずに階段を上り、重厚なマホガニー製の両開き扉の前に到着した。


「流石は筆頭執事の部屋ですね。ご丁寧に、扉には魔力感知式の結界と、物理的な重金属の鍵が二重にかかっています」


 レオンが扉の表面を指先でなぞりながら呟く。

 魔力感知式の結界は、登録されていない魔力を持った者が触れると、屋敷中に警報が鳴り響く仕組みになっているはずだ。


「厄介ですわね。私なら強引に魔力で結界を焼き切ることもできますが、それでは隠密行動の意味が……」


「必要ありませんよ。魔法というものは、術式の構築に頼りすぎるあまり、物理的な盲点を見落としがちなんです」


 レオンはコートのポケットから、細い金属製のピックと小さな鏡を取り出した。


「魔力感知の結界が張られているのは『扉の表面』と『鍵穴の周辺』だけだ。扉を固定している蝶番の隙間や、鍵の内部のシリンダーそのものには魔力が通っていない」


 レオンは鏡を使って鍵穴の奥の構造を確認すると、結界に触れないように細心の注意を払いながら、極細のピックを鍵穴の奥深くへと滑り込ませた。


 カチッ、カチリ。

 静かな廊下に、金属が噛み合う微かな音が響く。


「この世界の人間は魔法のロックを過信して、物理キーの構造をひどく単純なまま放置している。前世のピッキング犯が聞いたら、笑って踊り出すレベルのザル警備ですよ」


 カチャリ、という小気味良い音と共に、重厚な扉の鍵が呆気なく開いた。


「……信じられませんわ。あなた、本当にただの捜査官ですの? 犯罪者の手口に精通しすぎていませんか」


「犯罪心理学者ですからね。犯罪者の思考と手口をトレースできなければ、奴らの嘘は見抜けません」


 レオンは淡々と答え、音を立てずに扉を押し開けた。


 バートンの執務室の中は、公爵家の使用人の部屋とは思えないほど豪奢な造りだった。


 床には毛足の長い高級な絨毯が敷き詰められ、壁には高価な絵画が飾られている。

 部屋の奥には立派な執務机があり、その背後には分厚いガラス張りの本棚が鎮座していた。


「……鼻が曲がりそうだニャ。高級な葉巻と、キツい香水の匂いが染み付いてる」


 ルナが鼻をつまんで顔をしかめる。

 獣人の敏感な嗅覚には、バートンがこの部屋でどれだけ贅沢な暮らしをしているかが痛いほど伝わってくるらしい。


「公爵家の財産を私物化している証拠のような部屋ですわね。吐き気がしますわ」


 セシリアもまた、冷ややかな目で室内を一瞥した。


「怒る気持ちはわかりますが、感情は一旦横に置いてください。探すべきは公爵家の出納帳簿です」


 レオンの指示で、三人は執務机の周辺を調べ始めた。

 引き出しの中には日常の業務記録しかない。となれば、重要な帳簿は本棚か、あるいは隠し金庫の中だ。


「レオン、本棚の三段目ですわ。あの赤い革表紙の分厚い本が、公爵領の税収と屋敷の経費をまとめた総合帳簿のはずです」


 セシリアの記憶に従い、レオンが本棚から赤い帳簿を取り出し、執務机の上に広げた。


 部屋の明かりをつけるわけにはいかないため、レオンは特殊な魔石のランタンを取り出した。

 それは周囲を照らすのではなく、手元の極狭い範囲だけに強い光を収束させる、鑑識用の特殊なライトだった。


「さあ、見せてもらいましょうか。悪党の描いた稚拙なシナリオを」


 レオンが帳簿のページをパラパラと捲っていく。

 セシリアも机に身を乗り出し、食い入るようにその数字の羅列を追った。


 暗い部屋の中、小さなランタンの光だけを頼りに帳簿を覗き込むため、二人の顔は必然的に触れ合いそうなほど接近することになる。


 レオンがページを捲るたびに、彼の肩がセシリアの腕に軽く触れた。


「……っ」


 セシリアはビクッと身をこわばらせ、小さく息を呑んだ。

 レオンの真剣な横顔がすぐ隣にあり、彼の規則正しい呼吸の音が耳元で聞こえる。

 先ほどのリネン室での密着の記憶が蘇り、セシリアの心臓が警鐘のように高鳴り始めた。


(ち、近いですわ……集中しなければいけないのに、この男の体温が妙に気になって……)


「……セシリア」


 不意に、レオンが顔を上げずに低い声で囁いた。


「な、なんですの」


「先ほどから、君の呼吸が浅くなっています。それに、網膜の反射を見る限り、瞳孔がわずかに散大している。心拍数の増加に伴うアドレナリンの分泌が疑われますね」


 レオンはじっと帳簿を見たまま、まるであたりの気温でも読み上げるような平坦なトーンで指摘した。


「まさか、この暗闇と埃っぽい空気のせいで、アレルギー反応でも起こしましたか? 気管支が狭窄しているなら、早めに外の空気を吸った方が……」


「〜〜〜っ! 違いますわっ! アレルギーでも発作でもありません!」


 セシリアは顔から火が出るほどの羞恥を覚え、極小の声で、しかし烈火の如く噛み付いた。


「あなたが、無駄に顔を近づけてくるからですわ! 物理的なパーソナルスペースという概念を少しは学びなさい!」


「パーソナルスペース? 限られた光源の中で情報を共有するには、この距離が最も合理的です。君の生理的反応のせいで俺の集中力が削がれる方が、よほど非合理的ですがね」


「この朴念仁……っ! いつか絶対に、その減らず口を縫い合わせてやりますわ……!」


「二人とも、イチャイチャしてないで早く調べるニャ! バカ執事に見つかったらどうするニャ!」


 入り口で見張りをしていたルナが、ジト目で呆れたように口を挟む。


「イ、イチャイチャなどしていませんわ!」


 セシリアは慌ててレオンから少しだけ距離を取り、咳払いをして帳簿に視線を戻した。


「……見つけましたわ。ここです。ルナが濡れ衣を着せられた、宝飾品と金貨の紛失記録」


 セシリアの細い指が、帳簿のあるページをピタリと指し示した。


 そこには『盗難による損失』として、ルナの部屋から見つかったとされる品目と金額が詳細に記されていた。

 だが、重要なのはその前後のページだ。


「レオン、この半年前の『領地からの特別税収』の項目を見てください。私の記憶にある数字よりも、三割ほど少なく記載されていますわ」


 セシリアの映像記憶が、過去に彼女自身が確認したはずの数字との矛盾を正確に弾き出した。


「なるほど。本来あるべき税収を少なく帳簿に記載し、浮いた三割をバートンが自分の懐に入れていた。そして、金庫の残高と帳簿の数字が合わなくなったため、その足りない分を『ルナが盗んだ』ことにして帳尻を合わせた、というわけですね」


「ええ。ですが、数字が書き換えられているとはいえ、この帳簿は公式なものです。後から書き換えたという証拠には……」


「なりますよ。科学の目を通せばね」


 レオンはニヤリと笑い、ポケットから小さなスプレーボトルを取り出した。


「帳簿などの公文書に使われるインクには、鉄分が含まれています。この鉄分は、紙に書かれてから空気に触れることで、数ヶ月単位の時間をかけてゆっくりと酸化し、紙の繊維に深く定着して黒く変色していくんです」


 レオンは、セシリアが指摘した『半年前の項目』のインクの部分に、スプレーの液体をシュッと軽く吹きかけた。

 そして、ランタンの光の波長を切り替え、青白い特殊な光を当てる。


 すると、半年前の項目として書かれているはずのインクの文字が、周囲の古いページとは違う、不自然な赤紫色にぼんやりと光って見えた。


「これは……?」


「インクの酸化度を測るための化学反応です。本当に半年前に書かれた文字なら、完全に酸化していてこんな反応は出ない」


 レオンはルーペ越しにその文字を冷徹に見据えた。


「このインクは、まだ紙に書かれてから数日しか経っていない。つまり、バートンは最近になって、この半年前のページを新しい紙に書き直し、古いものと差し替えて偽造したという科学的な証拠です」


「……っ! すごいですわ、レオン! これなら、後から捏造された記録だと完全に証明できます!」


 セシリアが歓喜の声を上げる。


「まだ終わりじゃありませんよ。インクの年代測定に加えて、もう一つ決定的な証拠があります」


 レオンはさらにルーペの倍率を上げ、偽造されたページの『筆跡』を追い始めた。


「プロファイリングの観点から言うと、人間の筆跡というのは無意識の癖の塊です。他人の筆跡、つまり本来の経理担当者の文字を真似て書こうとした場合、必ず不自然な痕跡が残る」


 レオンは文字の「止め」や「はらい」の部分をペン先で示した。


「見てください。この偽造ページの文字は、筆圧が不自然に均等で、カーブの途中で何度も微小な『止まり』が発生している。これは、文字をスラスラと書いたのではなく、元の文字を見ながら慎重に『描いた』証拠。筆跡鑑定における典型的な『躊躇い傷』です」


 科学的な年代測定と、心理学に基づく筆跡の矛盾。

 この二つの客観的なファクトの前では、いかなる言い逃れも不可能だった。


「これで、バートンが横領の罪を隠すために帳簿を偽造し、ルナに罪を擦り付けたという完全な証明が成立しましたね」


 レオンが帳簿をパタンと閉じ、証拠として持ち帰るために鞄に入れようとした、その時だった。


「――ニャッ!!」


 入り口で見張りをしていたルナの全身の毛が、突然逆立った。

 彼女の琥珀色の瞳が、極度の緊張に見開かれている。


「どうしました、ルナ」


「……来るニャ。廊下の奥から、重い足音が三つ。真っ直ぐこの部屋に向かってきてる!」


 ルナの切羽詰まった声に、レオンとセシリアの間に緊張が走る。


「警備兵の巡回ですか?」


「違うニャ! この重くて引きずるような足音と、混ざり合った嫌な香水の匂い……バートン執事本人ニャ! 後ろに護衛の兵士も連れてる!」


 深夜二時。

 こんな時間に執事が執務室にやってくるなど、想定外のイレギュラーだった。

 帳簿の偽造の件で何か確認したいことでもあったのか、あるいは結界の異常に気付いたのか。


「……マズいですね。この部屋には出口が一つしかない。窓から飛び降りれば、結界に触れて屋敷中の兵士が飛んできます」


 レオンが冷静に状況を分析するが、逃げ場がないことには変わりない。


 チャリン、という鍵束の鳴る音が、重い足音と共に扉のすぐ向こう側まで迫ってきていた。


「レオン、どうしますの……っ!」


 セシリアが青ざめた顔でレオンのコートを掴む。


 逃げ道のない密室。

 証拠は手に入れたが、不法侵入の現行犯で見つかれば、特命資料室の権限などあっという間に揉み消され、今度こそレオンたちも反逆罪に問われかねない。


「……仕方ありませんね。プランBに移行します」


 ガチャリ、と扉の鍵穴に重金属の鍵が差し込まれる音が響いた。


 モブ捜査官と元・悪役令嬢、そして傷だらけのメイド。

 三人は逃げ場のない執務室の中で、最大のピンチを迎えようとしていた。


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