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 月明かりが分厚い雲に隠れた深夜。


 王都の一等地にそびえ立つ公爵家の広大な敷地に、三つの影が音もなく忍び寄っていた。

 王都警視庁の特命資料室に所属するモブ捜査官レオンと、その助手である元・悪役令嬢のセシリア、そして生体センサーこと猫耳メイドのルナである。


「……現在時刻、深夜二時ちょうど。セシリアの記憶通りなら、ここで裏門の警備兵が交代するはずですね」


 レオンが懐中時計の文字盤を細めて確認すると、隣にしゃがみ込んでいたセシリアが小さく頷いた。


「ええ。裏門の担当は二名。交代の引き継ぎで、三列目の生垣の裏が約三十秒だけ完全に死角になりますわ」


 彼女の映像記憶に近い頭脳には、公爵家の敷地内の構造図と、警備兵の巡回ルートが分単位で完璧にインプットされていた。

 魔法による防犯結界の抜け穴すらも、かつてこの家の主であった彼女にとっては勝手知ったる庭のようなものだ。


「ルナ、どうですか」


 レオンが背後に視線を向けると、闇に同化したような身軽さで壁に張り付いていたルナが、ピクッと猫耳を動かした。


「……足音が二つ、遠ざかっていくニャ。代わりに別の二つの足音が近づいてきてる。今なら行けるニャ」


 ルナの獣人特有の驚異的な聴覚が、セシリアの記憶をリアルタイムで裏付ける。


「完璧な連携ですね。では、三十秒の潜入ミッションと行きましょう」


 レオンを先頭に、三人は生垣の影から影へと滑るように移動し、見事に警備の目を掻い潜って屋敷の裏口へと到達した。


 あらかじめセシリアが合鍵の隠し場所から回収しておいた鍵を使い、音もなく分厚い扉を開ける。


 屋敷の中は、深夜ということもあり静まり返っていた。

 月明かりだけが頼りの薄暗い廊下を、三人はメイドたちの居住区画である使用人棟へと向かって歩き出す。


「この先を右に曲がれば、使用人用の階段ですわ。ルナの部屋は地下に……」


 セシリアが小声で案内をしようとした、その時だった。


「待つニャ」


 ルナが鋭く囁き、二人の服の裾を強く引っ張った。


「上の階から、規則正しくない足音が近づいてくるニャ。……二人。警備兵じゃなくて、見回りの使用人かもしれないニャ」


「イレギュラーな巡回ですか。セシリア、隠れる場所は」


「このすぐ横に、リネン室(シーツなどの保管庫)がありますわ!」


 セシリアが急いで壁際の隠し扉のようなドアを開け、三人は転がり込むようにして狭い空間へと飛び込んだ。


 直後、バタンと扉が閉まると同時に、廊下の奥からチャリン、チャリンという鍵束の揺れる音と、男たちの話し声が微かに聞こえてきた。


 暗闇に包まれたリネン室は、ただでさえ狭い上に、大量の予備のシーツや毛布が積み上げられているため、三人が身を隠すにはあまりにも窮屈だった。


 必然的に、三人の体は密着せざるを得ない。


 レオンは一番奥の壁際に押し込まれ、そのすぐ目の前にセシリアが背中を向ける形で立っていた。

 さらにルナがセシリアを守るように入り口側に張り付いている。


「……っ」


 セシリアの背中が、レオンの胸板にぴたりと触れ合っていた。

 振り返ることもできず、身じろぎ一つできない状況で、レオンの規則正しい心音と体温が、ドレス越しにダイレクトに伝わってくる。


(ち、近いですわ……っ!)


 セシリアは暗闇の中で顔を真っ赤にし、必死に声を押し殺した。

 いくら緊急事態とはいえ、若い未婚の男女がここまで密着するなど、令嬢の常識からすれば卒倒ものの事態である。


 しかし、背後の朴念仁は、そんな彼女の乙女心など微塵も介していなかった。


「……セシリア」


 レオンの低い声が、セシリアの耳元で直接囁かれた。

 吐息が耳にかかり、セシリアの肩がビクッと跳ねる。


「な、なんですの……静かにしないと見つかりますわよ……」


「それはこちらのセリフです。先ほどからあなたの心拍数が急上昇しています。それに、体表面積からの熱放射も異常だ。リネン室の室温は十五度前後のはずですが、あなたの体温のせいで現在急激に上昇しています」


 レオンは小声のまま、ひたすら物理的・生理的な分析を垂れ流し始めた。


「暗所恐怖症ですか? それとも過呼吸の兆候ですか? 発汗によるフェロモンや体臭の拡散は、警備用の魔犬を刺激する恐れがあります。速やかに自律神経を整えて、交感神経の働きを鎮めてください」


「〜〜〜っ! 誰のせいで交感神経が昂っていると思っているんですのこのバカ! デリカシーという言葉を辞書で引いてから出直してきなさい!」


 セシリアは極小の声で、しかし烈火の如く怒り狂ってレオンの足の甲をヒールで踏みつけた。


「痛っ。……なぜ理不尽に暴力を振るわれるのか、俺のプロファイリング能力をもってしても理解に苦しむ」


「一生理解しなくて結構ですわ!」


「静かにするニャ、二人とも! 通り過ぎるニャ!」


 ルナの鋭い注意に、二人はハッと息を呑んで口を閉ざした。


 扉のすぐ向こう側を、二人の使用人が雑談しながら通り過ぎていく。

 その足音が完全に遠ざかり、ルナが「もう大丈夫ニャ」と告げるまで、セシリアにとっては生きた心地のしない、ジリジリと身を焦がすような数分間だった。


「……さて。無駄なカロリーを消費しましたが、目的の部屋に向かいましょう」


 レオンが何事もなかったかのようにリネン室を出て、乱れたコートの襟を正す。


 セシリアは熱くなった頬を両手で挟んで冷ましながら、恨めしげにレオンの背中を睨みつけた。

 この男は本当に、あらゆる事象を論理でしか処理できないらしい。

 腹立たしいが、今はその論理の力が必要だった。


 三人は再び廊下を進み、使用人棟の地下にある、冷え切った小部屋の前に到着した。


「ここが、私の部屋……だった場所ニャ」


 ルナが震える手でドアノブを回す。

 鍵は壊されており、扉はすんなりと開いた。


 部屋の中は、凄惨な有様だった。


 簡素なベッドはひっくり返され、シーツは引き裂かれている。

 小さな木製のタンスは引き出しがすべて抜き取られ、ルナの数少ない私服や日用品が床に散乱し、土足で踏み荒らされていた。


 金庫の盗品を隠した罪を着せるためとはいえ、過剰なまでの破壊の痕跡。

 そこには、獣人に対する明確な悪意と蔑視が表れていた。


「……ひどい」


 セシリアが両手で口を覆う。

 ルナは自分の惨めに荒らされた部屋を見て、耳を力なく伏せた。


「証拠探しという名目で、散々暴れ回ったんでしょうニャ。……私には、この部屋しか居場所がなかったのに」


「悲しんでいる暇はありませんよ。証拠探しなら、俺たちの方が本職です」


 感傷に浸る二人をよそに、レオンはすでに部屋の中央にしゃがみ込み、ポケットから革の手袋とルーペを取り出していた。


「ルナ。バートン執事が盗品を見つけ出したと言いがかりをつけたのは、正確にはこの部屋のどの位置ですか」


 レオンのプロフェッショナルな声に、ルナはハッとして顔を上げた。


「あ、ええと……ひっくり返されている、そのベッドの下の床板ニャ。そこが外れるようになっていて、中に袋が隠してあったと……」


「なるほど」


 レオンはベッドの土台があった付近の床板をじっと観察し始めた。

 そして、懐から小さなガラス瓶を取り出し、中に入っていた特殊な蛍光粉末を床にパタパタと振りかける。


「レオン、何をしているんですの?」


「現場の『足跡』を浮き上がらせる作業です。犯人が盗品を隠した際、必ずこの場所に立って床板を外したはずですからね」


 暗闇の中で魔法のランタンの光を特定の角度から当てると、床に薄っすらと靴の跡が浮かび上がった。


「見てください。この部屋を荒らした兵士たちの軍靴の跡とは違う、細身の革靴の跡が残っています」


 レオンはルーペを覗き込みながら、さらに床を指でなぞった。


「しかも、この足跡の周囲には、微細な黒い粉末が落ちている。おそらく高級な靴墨のカスです。……ルナ、公爵家のメイドが、そんな高価な革靴を履いて仕事をしていましたか?」


「履いてるわけないニャ! 私たちはみんな、支給された安い布靴か、擦り切れた革のブーツニャ!」


「ですよね。つまり、この足跡の主は、日頃から高級な靴墨で磨かれた革靴を履く身分の人間……バートン執事本人か、彼に近い立場の人間が、ここに立っていたという科学的な証拠です」


 レオンの鮮やかな分析に、セシリアの目に希望の光が宿る。


「でも、それだけではまだ、バートンが盗品を隠したという決定的な証拠には……」


「もちろん、これだけじゃ弱い。だから、もう一つ見つけましたよ」


 レオンはピンセットを取り出すと、ベッドの木枠のささくれに引っかかっていた、一本の短い糸くずをつまみ上げた。


 それを小さな証拠品袋に入れ、セシリアたちの目の前で掲げる。


「これは?」


「濃紺のウール繊維です。しかも、かなり上質な羊毛で織られた布地のものですね。ルナのメイド服や、兵士の制服のものではありません。……セシリア、公爵家で濃紺のウール地の上着を支給されている役職は?」


 その質問に、セシリアは口角を吊り上げて不敵に笑った。


「……筆頭執事、およびその直属の側近のみですわ」


「ビンゴですね。犯人が床板を外して盗品を隠そうとしゃがみ込んだ際、上着の袖がベッドの枠に擦れて繊維が残った。これで『誰かがルナの部屋に盗品を持ち込んだ』という物理的証拠ファクトは十分に揃いました」


 レオンは証拠品袋をポケットにしまい、立ち上がった。


「お嬢様……レオン……」


 ルナの瞳に、再び涙が浮かぶ。

 今度は悲しみの涙ではなく、真実が明かされつつあることへの安堵の涙だった。


「まだ泣くのは早いですよ、ルナ。これだけでは『バートンがルナを陥れた』ことは証明できても、『なぜ陥れたのか』という動機、つまり横領の事実が証明できない」


 レオンはコートの埃を払いながら、悪党を追い詰める猟犬のような鋭い目つきになった。


「犯罪を完全に立証するには、動機と証拠の双方が必要不可欠です。横領の証拠は、ただ一つ」


「公爵家の、金庫の出納帳簿ですわね」


 セシリアがレオンの言葉を引き継ぐように言うと、レオンは満足げに頷いた。


「ええ。次はバートンの執務室に忍び込み、その帳簿を調べます。インクの酸化度と筆跡鑑定で、奴の稚拙な偽装工作を丸裸にしてやりましょう」


「ええ、完膚なきまでに叩き潰してやりますわ」


 元・悪役令嬢と天才捜査官、そして猫耳のメイド。

 三人は互いに顔を見合わせると、次なる戦場である執事の部屋へと向けて、静かに地下室を後にした。


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