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特命資料室の朝は、甘い匂いと共に始まるようになっていた。
王都の地下にあるこの狭くて窓のない部屋は、かつてはカビと古紙と謎の悪臭が入り混じる魔窟だった。
だが、元・悪役令嬢のセシリアが掃除の権限を握り、さらに猫耳メイドのルナが加わったことで、今や王宮の裏手にある隠れ家のように快適な空間へと変貌を遂げていた。
「レオン、いつまで寝ているおつもりですか。朝食の用意ができましたわよ」
セシリアが、淹れたての紅茶と手作りのパンケーキが乗ったトレイを机に置きながら声をかけた。
部屋の隅にある万年床では、徹夜で書類整理をしていたレオンが毛布にくるまって丸くなっている。
「……んん」
レオンは気怠げなうめき声を上げると、毛布からぬっと手を伸ばし、ベッドの脇に立っていたセシリアの腕を不意に掴んだ。
「きゃっ!?」
セシリアの体がバランスを崩し、レオンのベッドの上に倒れ込む。
ドサリ、という音と共に、レオンがセシリアの肩に頭を乗せるような体勢になった。
「な、何を……っ!」
「……動かないでください。ちょうどいい」
「はぁ!?」
顔を真っ赤にして暴れようとするセシリアを、レオンは寝ぼけ眼のまま腕で軽くホールドした。
「君の体温は平均的な成人女性より零点二度ほど高い。徹夜で冷え切った俺の体温を回復させるための、極めて合理的な熱源です。湯たんぽの代わりとして、あと五分だけそのままでいてください」
「ゆ、湯たんぽですって……!? あなた、女性に向かってなんというデリカシーのないことを……!」
「デリカシーと業務効率は反比例します。それに、君の心拍数が上がっているのが胸から伝わってくる。血流が良くなって熱放射が増えるのは、こちらとしてはありがたいですがね」
レオンはあくまで生理現象として分析し、淡々とした声で耳元に囁いてくる。
セシリアの顔はもはや沸騰しそうだった。
理屈を並べて密着を正当化するこの男のポンコツぶりには慣れてきたつもりだったが、こういう無自覚な行動は心臓に悪すぎる。
「離れなさいこの不良債権! 警察機構の人間が女性を拘束するなんて……!」
「シャァァッ!! この変態公務員! お嬢様に気安く触るなニャ!!」
セシリアが抗議するより早く、部屋の奥から銀色の弾丸が飛んできた。
ルナだった。
彼女は包帯姿のままベッドに飛び乗ると、レオンの顔面に容赦ない猫パンチの連打を浴びせた。
「痛っ! なんだ、暴漢か!?」
「暴漢はお前だニャ! お嬢様の清らかな体に触れていいのは私だけニャ!」
ルナの猛烈な攻撃に、レオンはようやく目を覚ましてベッドから転げ落ちた。
「……おはようございます、ルナ。怪我人のくせに随分と元気ですね。その跳躍力を見るに、打撲の回復は想定より早いようだ」
レオンは乱れた髪を掻きながら、全く悪びれた様子もなく立ち上がった。
「誰のせいだと思ってるニャ! お嬢様、こんなデリカシーのない男のところなんてさっさと出ていって、私と一緒に別の街で暮らすニャ!」
ルナがセシリアの背中に隠れながら威嚇する。
「そうもいきませんわ。王太子殿下に睨まれた状態では、この公的機関の庇護下にあるのが一番安全ですもの」
セシリアは乱れたドレスの襟元を直し、咳払いをして平静を装った。
「それに、この男は私生活が壊滅的ですが、頭脳だけは確かですから」
「……お嬢様がそうおっしゃるなら、我慢するニャ」
ルナはしぶしぶといった様子で耳を伏せた。
レオンは椅子に座り、パンケーキに致死量に近いシロップをかけながら、ルナのほうへと向き直った。
「さて。朝の運動も終わったところで、本題に入りましょうか」
レオンの目が、寝起きの気怠げなものから、冷徹な捜査官のそれへと切り替わる。
「ルナ。あなたが路地裏で瀕死の状態になっていた理由を、正確に話してください。あの傷は、スラムのチンピラにやられたような素人の手口じゃなかった。急所を避け、徹底的に苦痛を与えるための拷問の痕でした」
その言葉に、部屋の空気が一瞬にして凍りついた。
セシリアも真剣な表情になり、ルナの手をそっと握った。
「話してちょうだい、ルナ。私が家を出た後、公爵家で何があったの?」
ルナは少しだけ体を震わせた後、セシリアの温かい手に勇気づけられるように、ポツリポツリと語り始めた。
「……お嬢様が勘当されて屋敷を出ていった、その翌日のことでしたニャ」
ルナの琥珀色の瞳に、恐怖と悔しさの色が浮かぶ。
「公爵家の筆頭執事であるバートンが、突然私の部屋に兵士を連れて踏み込んできたんです。そして、私のベッドの下から、公爵家の金庫から消えたはずの金貨と宝飾品の入った袋を見つけ出したと言い出しました」
「金庫の宝飾品ですって?」
セシリアが驚きに目を見開く。
「はい。私は何も知らない、盗んでなどいないと訴えました。でも、バートン執事は『獣人は昔から手癖が悪い』『セシリア様という後ろ盾を失って、逃走資金を稼ごうとしたのだろう』と決めつけて……」
ルナの声が震え、その手はシーツを強く握りしめていた。
「そのまま、地下の懲罰室に連行されました。金庫から消えた他の財産の隠し場所を吐けと、夜通し鞭で打たれました。私がやったんじゃないって、何度言っても……誰も信じてくれなかったニャ」
「……っ!」
セシリアは唇を強く噛み締めた。
ルナは獣人であるという理由だけで、幼い頃から不当な差別を受けてきた。
セシリアが彼女をメイドとして引き立ててからは表立った嫌がらせは減っていたが、使用人たちの間には根強い偏見が残っていたのだ。
「そして、三日三晩痛めつけられた後、死んだと思われてスラムのゴミ捨て場に放り出された……。お嬢様に会いたい一心で這いずっていたところを、お嬢様たちに見つけてもらったんですニャ」
ルナの告白が終わり、資料室には重苦しい沈黙が降りた。
セシリアの肩が小刻みに震えている。
彼女の誇り高い公爵令嬢としての矜持と、家族同然のルナを傷つけられたことへの怒りが、限界まで膨れ上がっていた。
「……許せませんわ」
セシリアの声は、地を這うように低く、冷酷だった。
「バートンは昔から金に汚い男でした。おそらく、自らが横領していた公爵家の財産の穴埋めをするため、私がいなくなった隙を突いてルナに罪を被せたのでしょう」
「悪役令嬢と呼ばれた君の推測なら、間違いないでしょうね」
レオンはシロップまみれのパンケーキを一口食べ、淡々と頷いた。
「どうしますの、レオン。このまま泣き寝入りするつもりはありませんわ」
セシリアが強い視線を向けると、レオンはフォークを置き、口元を拭った。
「泣き寝入り? 俺の助手の所有物を不当に傷つけた連中を、野放しにするわけがないでしょう。業務妨害も甚だしい」
レオンは立ち上がり、黒板の前に立ってチョークを手にした。
「プロファイリングの観点から見ても、バートンの手口は稚拙すぎます。横領の罪を他人に被せるなら、もっと巧妙な帳簿操作をするのが普通だ。わざわざ被害者の部屋に盗品を隠すなんて、最も短絡的で、証拠が残りやすい偽装工作ですよ」
レオンは黒板に『帳簿』と『ルナの部屋』という文字を書き込んだ。
「金庫の金が消えているなら、必ず帳簿に改ざんの痕跡があります。インクの酸化度を調べれば、いつ書き換えられたか科学的に年代測定ができる。筆跡鑑定をすれば、それが誰の手によるものかも一目瞭然です」
「……物理的な証拠で、嘘を暴くということですのね」
「その通りです。さらに、ルナの部屋に盗品を隠した人間がいれば、そこには必ず足跡や、衣服から落ちた微細な繊維が残っているはずだ。数日しか経っていないなら、まだ十分に採取できる」
レオンの説明を聞き、ルナの耳がピクッと動いた。
「でも、どうやって調べるニャ? 公爵家の屋敷は、警備が厳重で部外者は入れないニャ」
「確かに、捜査令状もないのに公爵家に乗り込むのは、一介のヒラ捜査官としては越権行為になります」
レオンは黒板の文字をトントンと叩きながら、セシリアを見た。
「ですが、勘当されたとはいえ、君は元々そこの住人だ。裏口や、警備の薄い使用人の動線くらいは熟知しているでしょう?」
「ええ、もちろん。屋敷の構造から警備兵の巡回ルートまで、私の頭の中にすべて入っていますわ」
セシリアは自身のこめかみを指差し、不敵な笑みを浮かべた。
あの映像記憶に近い能力があれば、潜入ルートの構築など造作もないことだ。
「不法侵入は公務員として推奨できませんが……まあ、特命資料室の『極秘の現場検証』ということで処理しましょう。バレなければ犯罪ではありませんからね」
レオンは警察官にあるまじき暴言を平然と吐き捨て、コートを羽織った。
「ルナ、立てますか」
「ニャ? もちろん立てるニャ。まさか私を置いていく気じゃないだろうニャ」
「置いていくわけがないでしょう。俺たちはこれから厳重な警備が敷かれた公爵家に『隠密』で侵入するんです。警備兵の足音や匂いを壁越しに察知できる、君の耳と鼻は最高の索敵レーダーだ」
レオンはポケットに愛用のルーペと指紋採取用の特殊な粉末を突っ込みながら、ルナを見下ろした。
「それに、自分の潔白は、自分の能力で証明しなさい。その方が気分がいいでしょう」
「レオン、無茶ですわ! ルナはまだ痛みが……」
セシリアが制止しようとするが、ルナは包帯だらけの腕で力強くガッツポーズを作った。
「行くニャ、お嬢様! この男の言い回しはムカつくけど、言ってることは正しいニャ。あのクソ執事の嘘を、私の鼻で暴いてやるニャ!」
ルナの琥珀色の瞳には、先ほどの恐怖に怯える色はなく、強い闘志が燃え上がっていた。
「……わかりましたわ。ですが、無理だけは絶対にしないでちょうだいね」
セシリアは諦めたように微笑み、令嬢のドレスの裾を翻して迷いのない足取りで扉へ向かった。
特命資料室の扉を開けると、地下の冷たい空気が流れ込んでくる。
「さて、優秀な助手と生体センサーさん。あなたたちの古巣に、少しばかり手荒な家宅捜索といきましょうか」
「ええ。私の可愛いメイドを傷つけた代償がどれほど高くつくか、あの愚かな執事に教えてさしあげますわ」
魔法が支配するこの世界で、最強の論理と科学を武器とする三人が、因縁の公爵家へと足を踏み入れようとしていた。
理不尽な悪意を、客観的なファクトで叩き潰すために。
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次回お楽しみに。




