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王都警視庁の地下にある特命資料室は、臨時病室へと早変わりしていた。
レオンの私物である万年床、もとい簡素なベッドには、清潔なシーツが敷き直され、全身に包帯を巻かれた獣人の少女ルナが静かな寝息を立てている。
セシリアは洗面器の水を替え、硬く絞ったタオルでルナの額の汗を丁寧に拭っていた。
その横顔は、悪役令嬢と呼ばれたかつての氷のような冷たさは微塵もなく、ただ家族を案じる慈愛に満ちている。
「……ん、ニャ……」
不意に、ルナの猫耳がぴくりと動き、琥珀色の瞳がゆっくりと見開かれた。
「ルナ! 気がついたのね!」
セシリアが身を乗り出すと、ルナは信じられないものを見るように目を瞬かせた。
「お、お嬢様……? ここは……天国、ですかニャ?」
「いいえ、王都の地下室よ。もう大丈夫、あなたは安全な場所にいるわ」
セシリアがルナの手をぎゅっと握りしめると、ルナの瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
彼女は痛む体を引きずるようにして起き上がり、セシリアの胸に顔を埋めた。
「お嬢様ぁ……! ずっと、ずっと会いたかったニャ……! 追い出されてから、お嬢様を探して……っ」
「ごめんなさいね。私がふがいないばかりに、あなたにまで辛い思いをさせてしまって」
主従の感動的な再会。
しかし、その美しい空間をぶち壊すように、部屋の隅からバリボリと無遠慮な咀嚼音が響いた。
「涙の再会中申し訳ないんですが、塩分で俺の貴重なクッキーを湿らせないでくれませんかね。湿度は書類の天敵です」
レオンがソファーに深く腰掛け、セシリアの作ったクッキーをかじりながら口を挟んだ。
その見知らぬ男の声に、ルナの猫耳がピンと逆立ち、尻尾の毛がブワッと膨れ上がった。
「シャァァッ! 誰だお前は! お嬢様に近づくな、この胡散臭い男ニャ!」
ルナは痛みを忘れたようにセシリアを背中に庇い、レオンに向かって威嚇の牙を剥いた。
「ル、ルナ、駄目よ! この方は私の命の恩人で、今は私の上司にあたる方なの!」
「上司!? お嬢様がこんな、目つきの悪い甘党の部下に……!? 絶対に騙されてるニャ! 獣人の勘がそう告げてるニャ!」
「獣人の勘も当てになりませんね。俺はただの善良な公務員ですよ」
レオンはクッキーの欠片を払い落としながら立ち上がった。
「それに、俺のベッドを占領し、俺の助手の時間を奪っておいて、タダで済むとは思っていませんよね?」
「なっ……! お金なら、お嬢様が……」
「金の話はしていません。労働対価の話です。あなたのその耳と鼻、なかなか感度が高そうだ。今日の捜査で少しばかり役に立ってもらいますよ」
レオンの言葉に、セシリアが弾かれたように振り返った。
「無茶ですわ! ルナはまだ怪我が……」
「肋骨の折れもなく、打撲と切り傷だけだというのは確認済みです。それに、このまま資料室に寝かせておいて、あの公爵家の追手が来たらどうします? 俺の目の届く範囲に置いておくのが、最も合理的かつ安全な保護手段です」
レオンの理路整然とした反論に、セシリアはぐっと言葉を詰まらせた。
確かに、二人きりにしておいて公爵家の手が伸びてくれば、今のセシリアにはルナを守り切る力がない。
「それに」と、レオンは少しだけ顔を近づけ、セシリアの耳元で囁いた。
「君の不安による心拍数の上昇が、俺の集中力を削いでいるんです。俺が君たちを守るための、最も効率的な配置だと理解してください」
「……っ! わ、わかりましたわ! 行けばよろしいのでしょう、行けば!」
セシリアは耳まで真っ赤にして怒鳴り返し、ルナの手を引いて立ち上がった。
「行くわよ、ルナ。この不良債権に、あなたの優秀さを見せつけてやりなさい」
「お、お嬢様がそう言うなら……仕方ないニャ」
ルナはレオンをジロリと睨みつけながらも、渋々といった様子で頷いた。
こうして、奇妙な三人組は王都の貴族街へと向かった。
目的の場所は、昨夜、連続窃盗事件の被害に遭ったばかりの高級宝石店だった。
現場にはすでに王都警視庁の本部から派遣された騎士や、魔法省の役人たちが集まり、深刻な顔で話し込んでいる。
「やはり、高位の空間転移魔法の仕業だ。鍵はかかったままで、ショーケースの中の宝石だけが消失している」
「結界をすり抜けるとは、とんでもない使い手だな……」
そんな的外れな推論を繰り広げる彼らを横目に、レオンは堂々と規制線を潜り抜け、現場の中央にある空のショーケースへと歩み寄った。
「おい貴様! 所轄のヒラ捜査官が勝手に入るな!」
本部の騎士が怒鳴りつけてくるが、レオンは警察手帳をペラリと見せただけで完全に無視した。
彼はポケットからルーペを取り出し、ショーケースのガラスを舐め回すように観察し始める。
「……セシリア、ルナ。ちょっと来てください」
レオンが手招きすると、二人は怪訝な顔でショーケースを覗き込んだ。
「魔法の痕跡なんてない。ただの物理的な視覚ハッキングですよ、これは」
レオンはショーケースの隅、ガラスと土台の接合部分を指差した。
「よく見てください。このケースのガラス、奥の面と手前の面で、わずかに厚みが違う。おまけに、底面のベルベットの絨毯が、不自然に奥側だけ色褪せているように見えませんか?」
「言われてみれば……確かに、奥のほうが少し暗く見えますわ」
セシリアが同意すると、レオンはニヤリと笑った。
「ハーフミラー、つまりマジックミラーの原理を応用したトリックです」
レオンは自分の手帳のページを破り、即席の図解を描きながら説明を始めた。
「犯人は数日前に、この店に客を装って訪れ、あらかじめケースの寸法を測っていたのでしょう。そして昨夜、特殊な反射コーティングを施したガラス板を、ケースの中に斜めに仕込んだんです」
「斜めに、ですかニャ?」
ルナが首を傾げると、レオンは頷いた。
「ええ。手前側から光を当てると、斜めに仕込まれたガラスが鏡の役割を果たし、底面のベルベットを反射して映し出します。すると、正面から見ている人間には、ケースの奥まで何もない『空っぽの空間』が広がっているように錯覚するわけです」
「……! つまり、本物の宝石は、その斜めのガラスの裏側に隠されているだけで、ずっとケースの中にあったということですの!?」
セシリアの驚きの声に、周囲の騎士たちもざわめき始めた。
「その通り。夜間警備の人間は、空になったケースを見て『宝石が消えた!』とパニックになり、扉を開けて大騒ぎをする。その騒ぎに紛れて、犯人は店内に潜入し、ガラスの裏に隠された宝石を悠々と回収して逃げたというわけです」
空間転移魔法などという大層なものではない。
ただのガラスの屈折率と、人間の錯覚を利用した、古典的極まりない手品だった。
「馬鹿な……! そんな子供騙しのトリックに、我々が気づかなかったとでも言うのか!」
本部の騎士が顔を真っ赤にして反論する。
「気づかなかったから、ここに立って間抜けな推理を披露していたんでしょう。魔法という非論理的な事象に頼りすぎた結果、人間の目が一番の節穴になっている証拠です」
レオンの容赦ない言葉に、騎士たちはぐうの音も出ない。
「だが、トリックがわかったところで犯人の行方はわからないぞ! 魔法の残留魔力がないなら、追跡のしようがないではないか!」
負け惜しみのように叫ぶ騎士を背に、レオンはルナのほうを振り返った。
「出番ですよ、生体センサー」
「誰が生体センサーだニャ! 私はお嬢様の立派なメイド……」
「このガラスの接合部に、犯人が使った接着剤の微かな匂いが残っているはずだ。人間には感知できない揮発性の化学物質の匂い。それを追えますか?」
レオンがショーケースの隅を指差すと、ルナは不満げに鼻を鳴らした。
しかし、セシリアが「お願い、ルナ」と優しく微笑むと、彼女の猫耳がピクピクと動き、すぐに真剣な表情へと変わった。
ルナはショーケースに顔を近づけ、スン、スンと短く息を吸い込んだ。
「……ツンとする、変な薬品の匂いがするニャ」
「それが接着剤の溶剤です。どこへ向かっていますか」
ルナは目を閉じ、鼻先を空気の微かな流れに向けた。
獣人の驚異的な嗅覚が、王都の複雑な匂いの中から、ただ一つの化学物質の痕跡だけを正確に抽出していく。
「……あっちニャ。店の裏口から出て、西の路地へ向かってる」
ルナが指差した方向を見て、レオンは満足げに頷いた。
「ご苦労様。これで十分な対価が支払われましたよ。さあ、窃盗団の祝賀会場に踏み込みましょうか」
レオンを先頭に、三人はルナの嗅覚を頼りに王都の路地裏を猛スピードで進んでいった。
本部の騎士たちが慌てて後を追ってくるが、迷路のようなスラム街を迷いなく進むルナの足取りには到底追いつけない。
やがてルナが足を止めたのは、廃墟のような古い倉庫の前だった。
「この中ニャ。さっきの薬品の匂いと……金属が擦れる匂い、それに何人もの男の汗の匂いがする」
ルナの報告を受け、レオンは静かに腰の警棒を抜いた。
「セシリア、君はルナと一緒に下がっていてください。もしもの時は……」
「お気遣いなく。私のメイドは、そこらの騎士よりよほど優秀ですわ」
セシリアが不敵に微笑んだ瞬間、レオンは倉庫の腐りかけた扉を思い切り蹴り飛ばした。
「王都警視庁強行犯係です。パーティーの真っ最中に申し訳ないが、お開きにしてもらいましょうか」
埃舞う倉庫の中では、五人の男たちが机の上に広げられた大量の宝石を前に、下品な笑い声を上げていたところだった。
突然の乱入者に、男たちは慌てて短剣や鉄パイプを手に取る。
「チッ、サツの犬か! なんでここがわかった!」
「空間転移魔法の使い手にしては、随分と泥臭いアジトですね。ガラスの屈折率の計算はできても、自分の残した化学物質の揮発性までは計算できなかったようです」
レオンが淡々と告げると、男の一人が激昂して襲いかかってきた。
「わけのわからねえこと言ってんじゃねえぞ!」
男の短剣がレオンに迫る。
しかし、レオンが警棒を構えるより早く、横から銀色の影が弾丸のように飛び出した。
「お嬢様の前で、野蛮な真似をするなニャッ!!」
ルナだった。
彼女は怪我をしているとは思えないほどのしなやかな跳躍で男の懐に飛び込むと、その鳩尾に強烈な回し蹴りを叩き込んだ。
「グハッ……!?」
男が白目を剥いて吹き飛ぶ。
獣人特有の圧倒的な身体能力。まさに、セシリアの誇る「武力担当」の面目躍如だった。
残りの四人が怯んだ隙を突き、レオンは警棒で的確に男たちの手首や膝の関節を打ち据え、瞬く間に無力化していく。
ものの数分で、窃盗団は全員が床に這いつくばり、レオンによって手錠をかけられていた。
「はい、制圧完了。これで今月の残業代と、君たちのケーキ代が稼げましたね」
レオンが埃を払いながら息をつくと、セシリアが小走りでルナの元へ駆け寄った。
「ルナ! 大丈夫? 傷口が開いていない!?」
「平気ニャ、お嬢様! あんな雑魚、片手で十分ニャ!」
ルナは得意げに尻尾を揺らしてセシリアにすり寄る。
レオンはその光景を見ながら、ポケットから取り出したキャンディを口に放り込んだ。
「君のメイドの武力と嗅覚は、現場の証拠集めに極めて有用だ。怪我が治るまでと言わず、正式に俺の特命資料室で雇ってやってもいいですよ」
レオンの言葉に、セシリアはぱっと顔を輝かせた。
「本当ですの!? ありがとうございます、レオン!」
「ただし、給料は出ません。三食の食事と、俺への忠誠が条件ですがね」
「……相変わらずブラックな職場ですわね。でも、ルナが一緒にいてくれるなら心強いですわ」
セシリアが優しく微笑むと、ルナはレオンをジロリと睨みつけた。
「……胡散臭い男だけど、お嬢様を大事にしてるのは本当みたいニャ。今回だけは、協力してやるニャ」
ルナが渋々といった様子でそっぽを向く。
こうして、特命資料室に新たな住人であり、優秀な「生体センサー」が加わった。
しかし、彼女の身を不当に追い出した公爵家の思惑と、王都に蠢くさらなる陰謀の影が、すぐそこまで迫っていることを、彼らはまだ知らなかった。
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次回お楽しみに。




