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王都警視庁の地下にある特命資料室は、わずか数日にして劇的な変化を遂げていた。
足の踏み場もなかった床は塵一つなく磨き上げられ、ジェンガのように積まれていた未処理の書類は、時系列と重要度順に完璧にファイリングされ、壁際の本棚に整然と収まっている。
むせ返るような生活臭とインクの匂いは消え去り、代わりに淹れたての高級な紅茶の香りが部屋を満たしていた。
「……ん」
部屋の隅にある古びたソファーで仮眠をとっていたレオンは、ゆっくりと目を開けた。
徹夜での調書作成がたたり、泥のように眠っていたらしい。
ぼんやりとした視界の中で、すぐ目の前に美しい顔があった。
「あ、起きましたか。不良債権」
助手のセシリアだった。
彼女はソファーの横にしゃがみ込み、レオンの顔を覗き込むようにして、手にしたブランケットを掛け直してくれていたところだった。
二人の顔の距離は、ほんの数十センチしかない。
「……セシリア」
「なんですの? 寝ぼけているなら、さっさと顔を洗って……」
「あなたの顔面、随分と紅潮していますね。おまけに瞳孔が開いて、呼吸も浅く、心拍数が異常に上がっているのが頸動脈の動きでわかります」
レオンはじっとセシリアの目を観察しながら、淡々とした声で指摘した。
「さては、俺が寝ている間に、この部屋で何らかの遅効性毒素を吸い込みましたか? それとも未知のウイルス性の風邪ですか」
「なっ……! ど、毒なのはあなたの頭ですわっ!」
セシリアは顔を真っ赤にして立ち上がると、持っていたファイルでレオンの頭をスパーンと容赦なく叩いた。
「痛っ。助手が上司に暴力を振るうなんて、公爵家の教育はどうなってるんですか」
「公爵家は勘当されました! それに、無防備に寝ている人間の顔の近くに寄れば、誰だって少しは……その、驚くものですわ!」
ぷいっとそっぽを向くセシリアの耳まで赤い。
レオンは叩かれた頭をさすりながら、首を傾げた。
前世から人間の悪意や嘘の微表情を読み取ることは得意だったが、どうもこの元・悪役令嬢の感情の機微だけは、正確なプロファイリングができない。
「まあいいです。俺の脳細胞が悲鳴を上げている。紅茶と、例のものを」
「本当に、私を何だと思っていますの……」
文句を言いながらも、セシリアは手際よくティーカップを用意し、レオンの前に置いた。
カップの横には、彼女が昨晩の余り物で作ったという、砂糖がたっぷりとまぶされたマドレーヌが添えられている。
レオンはそれを一口かじり、シロップのように甘い紅茶で流し込んだ。
「……完璧だ。君の淹れる紅茶と手作り菓子がないと、俺のIQが20は下がる。責任をとって、一生俺のそばで血糖値を管理してください」
「ブッ……!?」
紅茶を飲もうとしていたセシリアが、盛大にむせた。
「い、一生って……あなた、自分が何を言っているのか自覚はありますの!?」
「ありますよ。優秀な助手兼、糖分供給源の確保です。業務効率化のための極めて合理的な提案ですが、何か問題でも?」
「……っ、この朴念仁! 本当に腹立たしい男ですわ!」
なぜかさらに怒らせてしまったらしい。
セシリアは顔を真っ赤にしてカップを乱暴に置くと、話題を変えるように机の上の書類を指差した。
「そ、それよりも仕事ですわ! 警視庁本部から、特命資料室にも捜査の協力要請が来ています」
「協力要請? 窓際部署の俺たちにですか?」
レオンが気怠げに書類に目を通すと、そこには王都の貴族街で頻発している連続窃盗事件の概要が記されていた。
被害に遭っているのは、いずれも厳重な警備が敷かれた宝石店や貴族の屋敷。
鍵のかかったショーケースや、密室状態の金庫の中から、忽然と高価な宝石だけが姿を消しているらしい。
「本部の見解は『高度な空間転移魔法を持つ魔法使いの犯行』だそうですわ。現場には鍵を壊された形跡も、侵入の痕跡も一切ないそうですから」
セシリアの説明を聞き、レオンは鼻で笑った。
「馬鹿馬鹿しい。そんな高度な空間魔法が使える人間が、わざわざ宝石泥棒なんてせせこましい真似をするはずがないでしょう」
「魔法ではないと?」
「ええ。密室から物が消えるなんて、手品師が好む古典的な物理トリックです」
レオンはマドレーヌを齧りながら、指を一本立てた。
「例えば、光の屈折と反射です。ショーケースの中に斜めに仕切りガラスを入れ、底面に宝石と同じ色の絨毯を敷く。特定の角度から光を当てれば、ガラスが鏡の役割を果たして底面を映し出し、その奥にある本物の宝石は『消えた』ように見える」
「……なるほど。あらかじめ偽のショーケースを仕込んでおき、夜間に回収するだけ、ということですのね」
「正解です。魔法なんて便利な言葉で思考停止するから、本部の連中は無能なんですよ」
セシリアの理解の早さに満足しつつ、レオンはコートを羽織った。
「トリックが物理的なギミックなら、犯人はそれを製作した職人か、特殊なガラスを仕入れた密輸業者と繋がっているはずだ。現場の貴族街より先に、裏路地の闇市を洗います。ついてきてください、助手さん」
「ええ、喜んで」
二人は特命資料室を出て、王都の裏路地へと向かった。
華やかな大通りから一歩路地に入ると、空気は急激に淀み、スラム街特有の饐えた匂いが漂い始める。
日中でも薄暗いその場所は、違法な魔導具や盗品が取引される、王都の暗部だった。
すれ違う柄の悪い男たちが、不格好な丈のドレスを着たセシリアを値踏みするような目で見てくる。
セシリアは気丈に振る舞っていたが、その肩は微かに強張っていた。
「おい、離れるな」
不意に、レオンがセシリアの肩を抱き寄せるようにして、自分の側に引き寄せた。
「……っ」
「体温が上がっていますよ。平民の街に慣れていないから緊張しているんでしょうが、隙を見せればスリの標的にされます」
レオンはあくまで淡々と、しかししっかりと彼女を庇うように歩調を合わせた。
「ここで助手に怪我でもされたら、俺の書類整理とティータイムの効率が致命的に落ちますからね。俺の目の届く範囲から出ないように」
「……っ、本当にあなたという人は、いちいち言い訳がましくて……」
セシリアは憎まれ口を叩きながらも、その手はレオンのコートの袖をぎゅっと握りしめていた。
そんな彼女の反応を、レオンは「不安の表れ」として処理し、さらに警戒を強めながら情報屋の元へと歩みを進めた。
その時だった。
「……ニャァ……」
ゴミ箱の陰から、微かな、しかし苦しそうなうめき声が聞こえた。
「猫ですかね。随分と弱っているようですが」
レオンが足を止めると、セシリアも不思議そうにゴミ箱の陰を覗き込んだ。
そこに倒れていたのは、猫ではなかった。
銀色の長い髪は泥と血で汚れ、頭には動物のような獣の耳が生えている。
ボロボロに引き裂かれたメイド服を着た、小柄な獣人の少女だった。
体中には無数の打撲痕があり、誰かに執拗な暴行を受けたことは明らかだった。
「……ルナ……?」
セシリアの口から、震える声が漏れた。
その声に反応したのか、倒れていた獣人の少女が、重い瞼をゆっくりと開けた。
「お、お嬢……様……? ああ……神様が、お迎えに……きてくれたニャ……」
少女は霞む目でセシリアの顔を捉えると、安心したようにふっと微笑み、再び意識を手放した。
「ルナ! ルナっ!! しっかりしなさい!」
セシリアは地面の泥も気にせず膝をつき、少女を抱き起した。
普段の冷静沈着な元・悪役令嬢の姿はそこにはなく、ただ家族の怪我にパニックを起こしている一人の少女の顔があった。
「知り合いですか」
「私が公爵領で拾い、メイドとして教育した子です! 獣人だからと酷い差別を受けていたこの子を、私が側仕えにして……っ」
セシリアはルナの傷だらけの腕を抱きしめながら、ギリッと歯を食いしばった。
「私が勘当された後、あの一族が……この子を公爵家から追い出したのですね。ただ追い出すだけでなく、こんな酷い暴行を加えて……!」
セシリアの体から、魔力ではなく、純粋な怒りという名のすさまじい殺気が立ち上った。
レオンは思わず一歩後ずさりそうになるのを堪えた。
(あの冷静な令嬢が、ここまで感情を爆発させるとはな)
レオンはしゃがみ込み、ルナの脈と呼吸を素早く確認した。
「命に別状はありませんが、かなり消耗しているようです。すぐに資料室に運びましょう。俺のベッドを使えばいい」
「レオン……」
「どんな事情かは知りませんが、俺の優秀な助手のメンタルに悪影響を及ぼす事態は、全力で排除しなければならない。仕事の邪魔ですからね」
レオンはぶっきらぼうにそう言うと、気絶しているルナをひょいと抱き上げた。
「それに、これだけの怪我を負わせる暴行事件だ。強行犯係の捜査官として、見過ごすわけにはいきませんよ」
セシリアは一瞬だけ目を丸くした後、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。この恩は、必ず……っ」
「恩返しは極甘のショートケーキで手を打ちましょう。さあ、急ぎますよ」
レオンは足早に路地裏を引き返し始めた。
背後からついてくるセシリアの目には、理不尽な暴力を振るった者たちへの冷徹な怒りと、絶対に真実を暴いてやるという決意が宿っていた。
消える宝石の謎と、傷ついた野良猫。
王都の闇に隠された悪意を暴くため、モブ捜査官と悪役令嬢の新たな捜査が始まろうとしていた。
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次回お楽しみに。




