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王立学園を後にした二人の頭上には、冷たい夜風と共に満天の星空が広がっていた。
華やかな夜会の喧騒は遠ざかり、王都の大通りを歩く二人の間には、カツ、カツというセシリアのヒールの音だけが規則正しく響いている。
「あー、急がないと。駅前の限定マカロンの賞味期限が……」
「……あなたはそればかりですのね」
レオンが懐中時計を見ながらぼやくと、隣を歩くセシリアが呆れたようにため息をついた。
その時だった。
夜空から一羽の青白い光を帯びた鳥が舞い降りてきた。
魔力で編まれた使い魔の鳥だ。
鳥はセシリアの目の前まで来ると、くちばしにくわえていた一通の封筒を落とし、そのまま光の粒子となって霧散した。
セシリアは無表情のまま封筒を拾い上げ、封を切る。
中に入っていた短い羊皮紙を一読すると、彼女は微かに鼻で笑い、そのまま紙をビリビリに破いて道端のゴミ箱へ放り捨てた。
「勘当ですか。随分と手回しが早いですね」
レオンが横目で尋ねると、セシリアは表情一つ変えずに頷いた。
「ええ。王太子殿下に恥をかかせた罪は重い、公爵家の名簿からお前の名は抹消した、とのことですわ。……まあ、あんな息の詰まる家、元々こちらから願い下げでしたけれど」
「逞しいですね。帰る場所を失って、泣きつくかと思いましたよ」
「泣いて現状が好転するならいくらでも泣きますわ。ですが、それは非合理というものです」
セシリアの潔すぎる言葉に、レオンは感心したように目を細めた。
やはりこの令嬢は、この世界の住人には珍しく、感情よりも事実と論理で動けるらしい。
「いい性格してますね。帰る場所がないなら好都合だ。ついてきてください、臨時助手さん」
レオンはぶっきらぼうに言い放ち、大通りから暗い裏路地へと足を踏み入れた。
それから十数分後。
華やかな王立学園から遠く離れた、王都の治安の悪い下層エリア。
その片隅にある、今にも崩れそうな古い雑居ビルの地下に二人は立っていた。
入り口の薄汚れた扉には『王都警視庁 特命資料室』と書かれた木札がぶら下がっている。
「ここが、あの鮮やかな推理を披露した捜査官の執務室、ですの?」
「ええ。特命資料室なんて大層な名前がついてますが、要は厄介払いされたはぐれ者の掃き溜めです。俺の専用アジトみたいなもんですよ」
レオンは鍵を取り出し、重い鉄の扉をギィイと開けた。
その瞬間、むわっとした空気が廊下に溢れ出した。
甘ったるい謎の匂いと、インクの匂い、そして古い紙の匂いが混ざり合った、形容しがたい生活臭だ。
「……っ!? な、なんですかこの悪臭は!」
セシリアが思わず鼻を覆う。
だが、視覚から飛び込んできた光景は、嗅覚の衝撃を遥かに上回っていた。
「さあ、どうぞ。散らかってますが、適当に座ってください」
「適当に座る場所すらありませんわ!!」
セシリアは絶叫した。
部屋の中は、まさに魔窟だった。
床が見えないほど散乱した書類の山。
机の上には、魔力駆動の保温缶に入った激甘コーヒーの空き缶がジェンガのように積み上げられている。
壁際のソファーは、脱ぎ捨てられたコートと謎の資料の束に完全に占領されていた。
先ほど、大勢の貴族の前で理路整然と王太子を論破した冷徹な天才捜査官。
その面影は、この部屋には微塵も存在しなかった。
「……ただのゴミの山ではありませんか」
セシリアがドン引きした声で呟くと、レオンは心外だというように眉をひそめた。
「ゴミとは失礼な。これは独自のルールで有機的に構築された、俺のデータベースですよ」
「どのあたりがデータベースですの? ただ散らかしているだけの言い訳にしか聞こえませんが」
「素人にはそう見えるでしょうね。ですが、あの右の山は『署長に怒鳴られるまで放置する予定の案件』です。そして左の山は『インクの匂い別』に分けてある。安いインクは平民の軽犯罪、高いインクは貴族の汚職の可能性が高いですからね」
レオンはもっともらしい口調でふざけたマイルールを語る。
「だから勝手に触らないでくださいよ。俺の完璧な生態系が崩れますから」
そう言いながら、レオンはソファーの上の書類を手でガサッと床に落とし、空いたスペースにどさりと倒れ込んだ。
その直後、レオンの様子が急変した。
「あー……ダメだ。限界が来ました」
「は?」
「さっきの現場検証で、脳が急激にブドウ糖を消費した……。脳細胞が、糖分を求めて死滅していく……」
レオンは虚ろな目で天井を見つめ、スライムのようにソファーの上でズルズルと溶け始めた。
仕事にステータスを全振りした天才ゆえの、極端なガス欠状態だった。
「……おい、新入り」
「誰が新入りですか」
「そこの棚に、茶葉があります……。早く俺に紅茶を淹れてください……。ああ、砂糖は隣の壺ごと全部入れて……」
虫の息でそんな狂った要求をしてくる上司を見て、セシリアの中で何かがプツンと切れた。
完璧主義で生真面目な公爵令嬢としてのプライドと、彼女の奥底に眠っていた「世話焼き気質」が、この絶望的なポンコツを前にして大爆発を起こしたのだ。
「……言い訳は無能の証明ですわ!!」
セシリアは怒声と共に、自らが着ていた豪奢なドレスのオーバースカートを力任せに引き裂いた。
ビリィッ! という派手な音と共に、動きにくい装飾が床に落ちる。
身軽になったセシリアは、部屋の隅に立てかけられていた箒をひったくるように手に取った。
「ちょ、ちょっと。何を……」
「黙っていなさい、この不良債権! 埃で死ぬ気ですか! まずは換気ですわ!!」
「あ、おい、その山は俺の有機的な……」
「ただの紙クズです! 燃やさないだけありがたく思いなさい!」
そこからのセシリアの動きは、まさに鬼神のようだった。
空き缶を猛烈な勢いでゴミ袋に叩き込み、床の埃を掃き清め、机の上を雑巾で磨き上げる。
さらにレオンを驚かせたのは、彼女の書類整理の能力だった。
「こんなふざけた法則で仕事ができるわけがありません! 時系列、管轄、そして重要度順! これがロジックというものですわ!」
セシリアは散乱した事件調書を手に取ると、文字通り一瞬でその内容を目に焼き付けた。
学園の階段での出来事を正確に記憶していた、あの映像記憶に近い情報処理能力。
それをフル活用し、彼女は内容を瞬時に理解しては、次々と正しいファイルに仕分けていく。
レオンの主張した「インクの匂い別」などというふざけた生態系は、セシリアの圧倒的な論理の前に為す術もなく破壊され、再構築されていった。
一時間後。
「……ふう。まあ、こんなところですわね」
額の汗を拭いながら、セシリアは満足げに息をついた。
そこには、見違えるように清潔になった部屋と、背表紙が完璧に揃えられた本棚があった。
「どうぞ。ご所望の、砂糖の塊のような紅茶ですわ」
セシリアは呆れた顔で、ティーカップを机に置いた。
紅茶の色が見えないほど大量の砂糖が溶け込んだ、もはやシロップと呼ぶべき液体だ。
「……いただきます」
ソファーから身を起こしたレオンは、死守していた駅前限定の激甘マカロンをかじりながら、その紅茶を喉に流し込んだ。
強烈な糖分が脳に行き渡り、死んだ魚のようだった目に理知的な光が戻ってくる。
レオンはカップを置くと、完璧に整理された本棚を見渡した。
そして、わざとらしくチッ、と舌打ちをする。
「……見事に俺の生態系を破壊してくれましたね」
「何か不満でも? 元のゴミ山に戻して差し上げてもよろしくてよ?」
セシリアが柳眉を逆立てると、レオンはふっと口角を上げた。
「いや。詐欺事件の調書を探す手間が、これで三秒は省けるようになりました。家出娘の仕事にしては、悪くない手際です」
絶対に「ありがとう」とは口にしないが、それはレオンなりの明確な合格通知だった。
彼女がただのお飾りの令嬢ではなく、自分の助手として十分に機能する優秀な頭脳を持っていることを、はっきりと認めたのだ。
「当然ですわ。これくらい、公爵領の帳簿管理に比べれば遊びのようなものです」
セシリアはツンと顎をそらしたが、その表情にはどこか嬉しそうな色が混じっていた。
「それで? 助手としてこき使われるのは構いませんが、私は今日からどこで寝起きすればよろしくて? まさか、このソファーで寝ろとは言いませんわよね」
セシリアの問いに、レオンは部屋の奥にある、木製の扉を顎でしゃくった。
「その奥に、使っていない物置部屋があります。ベッドくらいは置ける広さだから、自分で掃除して使ってください。家賃と食費はタダにしてやりますが、給料はゼロです」
「……随分とブラックな労働条件ですこと」
「その代わり、三食甘いお菓子をつけてやりますよ。お前の仕事は書類整理と、俺の糖分管理、それから現場での『壁打ち相手』です」
現場で集めた証拠から論理を組み立てる際、それを口に出して整理するための優秀な聞き手。
それが、レオンがセシリアに求めた最大の役割だった。
「なるほど。ただのメイド扱いではないということですわね」
セシリアは破れたドレスの裾を少しだけ持ち上げ、かつて悪役令嬢として恐れられた時のような、不敵で美しい笑みを浮かべた。
「ええ、やってやりますわ。この不良債権。せいぜい私に捨てられないように、しっかり働くことですわね」
こうして、居場所を失った完璧主義の令嬢と、私生活が破綻した天才モブ捜査官の、奇妙な同居生活が幕を開けたのだった。
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次回お楽しみに。




